【若菜上 03】朱雀院、夕霧に女三の宮のことをほのめかす

原文

朝夕《あさゆふ》にこの御事を思し嘆く。年暮れゆくままに、御なやみまことに重くなりまさらせたまひて、御簾《みす》の外《と》にも出でさせたまはず。御物の怪《け》にて、時々悩ませたまふこともありつれど、いとかくうちはへをやみなきさまにはおはしまさざりつるを、この度《たび》はなほ限りなり、と思しめしたり。御位を去らせたまひつれど、なほその世に頼みそめたてまつりたまへる人々は、今もなつかしくめでたき御ありさまを、心やり所に参り仕うまつりたまふ限りは、心を尽くして惜しみきこえたまふ。六条院よりも御とぶらひしばしばあり。みづからも参りたまふべきよし聞こしめして、院はいといたく喜びきこえさせたまふ。

中納言の君参りたまへるを、御簾《みす》の内に召し入れて、御物語こまやかなり。「故院の上の、いまはのきざみに、あまたの御|遺言《ゆいごん》ありし中に、この院の御事、今の内裏《うち》の御事なむ、とり分きてのたまひおきしを、おほやけとなりて、事限りありければ、内《うち》々の心寄せは変らずながら、はかなき事のあやまりに、心おかれたてまつることもありけむと思ふを、年ごろ事にふれて、その恨み遺《のこ》したまへる気色をなむ漏らしたまはぬ。さかしき人といへど、身の上になりぬれば、こと違《たが》ひて心動き、かならずその報《むくい》見え、ゆがめることなむ、いにしへだに多かりける。いかならむをりにか、その御心ばへほころぶべからむと、世人《よひと》もおもむけ疑ひけるを、つひに忍び過ぐしたまひて、春宮などにも心を寄せきこえたまふ。今、はた、またなく親しかるべき仲となり睦《むつ》びかはしたまへるも、限りなく心には思ひながら、本性《ほんじやう》の愚かなるに添へて、子の道の闇にたちまじり、かたくななるさまにやとて、なかなか他《よそ》の事に聞こえ放ちたるさまにてはべる。内裏《うち》の御ことは、かの御遺言|違《たが》へず仕うまつりおきてしかば、かく末の世の明らけき君として、来《き》し方《かた》の御|面《おもて》をも起こしたまふ、本意《ほい》のごと、いとうれしくなむ。この秋の行幸の後《のち》、いにしへのこととり添へて、ゆかしくおぼつかなくなむおぼえたまふ。対面《たいめん》に聞こゆべきことどもはべり。かならずみづからとぶらひものしたまふべきよし、もよほし申したまへ」など、うちしほたれつつのたまはす。

中納言の君、「過ぎはべりにけむ方は、ともかくも思うたまへ分きがたくはべり。年まかり入りはべりて、朝廷《おほやけ》にも仕うまつりはべる間、世の中のことを見たまへまかり歩《あり》くほどには、大小のことにつけても、内《うち》々のさるべき物語などのついでにも、いにしへの愁《うれ》はしきことありてなむなど、うちかすめ申さるるをりははべらずなむ。『かく朝廷《おほやけ》の御|後見《うしろみ》を仕うまつりさして、静かなる思ひをかなへむと、ひとへに籠りゐし後は、何ごとをも知らぬやうにて、故院の御遺言のごともえ仕うまつらず、御位におはしましし世には、齢《よはひ》のほども、身の器物《うつはもの》も及ばす、賢《かしこ》き上《かみ》の人々多くて、その心ざしを遂《と》げて御覧ぜらるることもなかりき。今、かく政《まつりごと》を避《さ》りて、静かにおはしますころほひ、心の中《うち》をも隔てなく、参り承《うけたまは》らまほしきを、さすがに何《なに》となくところせき身のよそほひにて、おのづから月日を過ぐすこと』となむ、をりをり嘆き申したまふ」など奏したまふ。

二十《はたち》にもまだわづかなるほどなれど、いとよくととのひすぐして、容貌《かたち》も盛りににほひて、いみじくきよらなるを、御目にとどめてうちまもらせたまひつつ、このもてわづらはせたまふ姫宮の御|後見《うしろみ》にこれをやなど、人知れず思しよりけり。「太政大臣《おほきおとど》のわたりに、今は、住みつかれにたりとな。年ごろ心得ぬさまに聞きしがいとほしかりしを、耳やすきものから、さすがに妬く思ふことこそあれ」と、のたまはする御気色を、いかにのたまはするにか、とあやしく思ひめぐらすに、「この姫宮をかく思しあつかひて、さるべき人あらば預けて、心やすく世をも思ひ離ればやとなむ思しのたまはする」と、おのづから漏《も》り聞きたまふたよりありければ、さやうの筋にやとは思ひぬれど、ふと心得顔《こころえがほ》にも何かは答《いら》へきこえさせむ、ただ、「はかばかしくもはべらぬ身には、寄るべもさぶらひ難《がた》くのみなむ」とばかり奏してやみぬ。

女房などは、のぞきて見きこえて、「いとあり難《がた》くも見えたまふ容貌《かたち》用意《ようい》かな。あなめでた」など集まりて聞こゆるを、老いしらへるは、「いで、さりとも、かの院のかばかりにおはせし御ありさまには、えなずらひきこえたまはざめり。いと目もあやにこそきよらにものしたまひしか」など、言ひしろふを聞こしめして、「まことに、かれはいとさまことなりし人ぞかし。今は、また、その世にもねびまさりて、光るとはこれを言ふべきにやと見ゆるにほひなむ、いとど加はりにたる。うるはしだちて、はかばかしき方に見れば、いつくしくあざやかに目も及ばぬ心地するを、またうちとけて、戯《たすぶ》れ言《こと》をも言ひ乱れ遊べば、その方《かた》につけては、似るものなく愛敬《あいぎやう》づき、なつかしくうつくしきことの並びなきこそ、世にあり難けれ。何ごとにも、前《さき》の世|推《お》しはかられて、めづらかなる人のありさまなり。宮の内に生ひ出でて、帝王《ていわう》の限りなくかなしきものにしたまひ、さばかり撫《な》でかしづき、身にかへて思したりしかど、心のままにも驕《おご》らず、卑下して、二十《はたち》がうちには、納言《なふごん》にもならずなりにきかし。一つあまりてや、宰相《さいしやう》にて大将《だいしやう》かけたまへりけむ。それに、これはいとこよなく進みにためるは。次々の子のおぼえのまさるなめりかし。まことにかしこき方《かた》の才《ざえ》、心|用《もち》ゐなどは、これもをきをさ劣るまじく、あやまりても、およすけまさりたるおぼえ、いとことなめり」など、めでさせたまふ。

現代語訳

朱雀院は、朝夕にこの女宮の御ことをご心配なさる。年が暮れゆくにつれて、ご病気はまことに重くおなりで、御簾の外にもお出にならない。今までも御物の怪に、時々悩ませられなさることもあったが、ここまでひつまでも、少しよくなる間もないということではいらっしゃらなかったのに、今回ばかりはやはり最期であると、おぼしめされる。ご譲位はなさったが、それでもやはりご在位中から院を頼りにしてこられた方々は、今も親しみ深く好ましい院のご様子を、心の慰めどころとしてお仕え申しあげなさっている方々は、心を尽くしてお惜しみ申し上げなさる。六条院(源氏)からもお見舞いがしばしばある。六条院ご自身も参上なさるということをお耳にされて、院は実にたいそうお喜び申し上げなさる。

中納言の君(夕霧)が参上なさるのを、院は御簾の内に召し入れて、こまごまとお話をなさる。(朱雀院)「故院の上(桐壷院)が御臨終の時に、多くの御遺言があった中に、この六条院(源氏)の御こと、今の帝(冷泉帝)の御ことを、とりわけお言い遺しになられたのに、私が帝位についてからは、できることも限られていたので、内心の好意は変わらないながら、つまらない過失がもとで、心へだてを置き申されることもあっただろうと思うのに、長年、事にふれて、その恨みをお残しになっていらっしゃる様子をまったくお漏らしにならない。たとえ賢い人でも、わが身の上のことになってみれば、分別どおりに行かず心が動き、きっと報復しようという考えを抱いて、よからぬことをしでかす例は、昔でさえも多かったのだ。どんな折に、六条院(源氏)のそのお心ざしがあらわれるだろうかと、世間の人もそのつもりで疑っていたのに、六条院は、ついにずっとお堪えになられて、東宮などにも好意を寄せお寄せ申しあげられている。今はまた、並びなく親密な仲となり、東宮と親しく御交際なさっていらっしゃるのも、私は限りなくありがたいことと心には思いながら、根が愚かであることに加えて、子を思う親の闇に迷いこんで、東宮の親としてわざわざ六条院にお礼などするのも見苦しいことになろうかと、かえって他人事のように聞き捨てにしているような状態でございます。帝(冷泉帝)の御ことは、桐壷院のご遺言に違えずお取り計らい申しあげておきましたので、こうして末代の名君として、その前の代の私の名誉までも立ててくださっているのが、念願がかなったようで、とてもうれしいことで。この秋の行幸の後は、昔のことまでが一緒に思い出されて、六条院(源氏)にお会いしたく、お気にかけられております。対面して申しあげねばならぬことがいくつもございます。きっとご自身でご訪問してくださいますよう、おすすめ申しあげなさってください」などと、涙をこぼしながら仰せになられる。

中納言の君(夕霧)、「過ぎてしまいましたむきのことは、何とも私には判断がつきがたいことでございます。私も年が長じまして、朝廷にもお仕え申しあげております間、世の中のことをあちこちで拝見しておりますうちには、大小さまざまの事につけても、身内のしかるべき打ち明け話などのついでにも、父六条院(源氏)は、「昔の辛いことがあって」など、少しでも申される折はございませんで。『こうして朝廷のお世話役を途中でお降り申して、静かに隠棲したいという思いをかなえようと、ひたすら引きこもって後は、何事にも一切関知しないようにして、故桐壷院の御遺言のように院(朱雀院)にお仕え申しあげることもせず、かといって院(朱雀院)が御在位のころは、年齢からいっても、身の器量からいっても及ばず、賢い目上の方々が多くいらしたので、お仕え申しあげようという心ざしを遂げて御覧いただくこともなかった。今、院(朱雀院)は、こうして御退位あそばされて、静かにお暮しになっていらっしゃる折から、何の隔てもなく参上して、院のお言葉を承りたいと思うけれど、隠居の身とはいえ、かえって何となく窮屈なわが身の装いだから、自然とお会いできないまま月日を過ごしていることよ』と、折々に嘆き申していらっしゃいます」などと奏上なさる。

中納言(夕霧)は、まだ二十歳にもわずか足りない年であるが、まことに整いすぎなぐらいで、顔立ちも今が盛りと色づいて、まことに美しいのを、院(朱雀院)はお目にとどめてじっと御覧になりながら、扱いに悩んでいらっしゃるこの姫宮(女三の宮)の御後見にこの人をどうかなど、人知れずお思いつきになるのだった。

(朱雀院)「太政大臣のご邸に、今は、落ち着かれたそうですね。長年、貴方が不本意な扱いを受けているように聞いていたのが気の毒でしたが、今はそれを聞いて安心はするものの、かえって残念に思うこともありますよ」と仰せになるご様子を、中納言(夕霧)は、どうしてこのようなことを仰せになられるのかと、妙に思ってあれこれ考えてみると、「院が、この姫宮(女三の宮)を、あれこれ心配して持て余していらして、しかるべき人があれば預けて、安心して俗世を離れたいとお思いになり、またそう仰せになっていらっしゃる」と、自然と漏れ聞きなさる機会ことがあったので、そのような筋の話だろうかとは思ったが、その場ですぐ心得顔に何をお答え申し上げることができようか。ただ、(夕霧)「しっかりしてもございませんわが身にとっては、一人の妻さえも得難いばかりでして」とぐらいを申しあげて、おしまいにした。

女房などは、中納言の君(夕霧)のお姿をおのぞき申しあげて、「ほんとに、滅多にないものとお見えになるお顔立ちやお心遣いですこと。なんとまあすばらしい」などと集まってお噂申しあげているのだが、老い呆けた女房たちは、「さあ、いくらよいといっても、かの六条院(源氏)があれくらいのお年でいらした頃のお姿には、お比べ申し上げなさることはできないでしょう。まことに目にもまばゆいほど、美しくいらっしゃったこと」などと言い合っている。それを院がお耳になさって、(朱雀院)「まことに、あの方(源氏)は、実に他の人と様子が違っていた人であった。今は、またその頃よりも立派になって、光るとはこれを言うべきだろうかと見える美しさが、ますます加わっている。とりすまして、てきぱきしているという面で見れば、立派で、きっぱりして、見るのもまばゆい感じだが、また一方で、くつろいで、冗談なども言って遊び興じていると、そうした面においては、似る者もなく愛嬌があり、親しみ深くやさしさがあることにおいては並びないのこそが、世に滅多にないことなのだ。何事につけても前世の果報が思いやられて、珍しいお人柄なのだ。宮中でずっと成長して、帝王(桐壷帝)が限りもなくご寵愛なさって、あれほど撫でさするように大切にお育てになり、ご自分の身以上に大事におぼしめされたのだが、心にまかせて驕らず、へり下って、二十歳より前は、納言にもならなかったのだった。二十歳を一つすぎてから、宰相と近衛府の大将をご兼任なさったろうか。その六条院に比べても、この中納言の君(夕霧)は、まことにこよなく昇進していらっしゃるようだ。代々、親より子が、世の覚えがまさっていくもののようだ。じっさい、朝廷に仕える政治上の学才、心遣いなどは、この中納言の君(夕霧)は、父六条院にほとんど劣ることはないようだし、よしんばその見立てがはずれていたとしても、いよいよ貫禄がついてきたという世評は、まことに格別のものらしい」などと、お褒めあそばす。

語句

■御簾の外にも 病と物の怪のため、御簾をおろして引きこもっている。 ■その世に頼みそめたてまつりたまへる人々 朱雀院の在位中に取り立てられたのは外戚の右大臣一派。現在、冷泉帝の御代においては冷遇されている。彼らはそれが不満で、朱雀院のもとに集まっている。 ■御簾の内に召し入れて 破格の扱い。 ■あまたの御遺言 【賢木 08】。 ■事限りありければ 源氏と親しく交際しようとしても天皇という立場上、制約があったので。 ■事のあやまり 源氏が朧月夜と密通し、それがもとで須磨流謫となったこと。  ■年ごろ事にふれて 源氏帰京の後、朱雀院と相対したときには恨み言めいた歌を詠んでいる(【明石 20】)が、源氏はこれといった復讐などはしなかった。 ■その恨み 須磨流謫の恨み。 ■身の上になりぬれば 他のことでは冷静な判断ができても自分自身のことになると冷静さを失うの意。 ■いにしへにだに 聖賢の世でさえそういう例が多かったので、まして現在の世ではなおさら、の意。 ■ほころぶ 外にあらわれる。 ■春宮などにも 朱雀院は源氏の政敵である右大臣家の後見であり、源氏は朱雀院の子である東宮にも距離を置くべきところだったが、源氏は将来の権勢拡大のため、東宮とはやくからよしみを通じていた(【澪標 11】)。 ■またなく親しかるべき仲となり 源氏の娘である明石の姫君が東宮に入内し、源氏と東宮は舅と婿の関係になった。 ■子の道の闇 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(後撰・雑一 藤原兼輔)。 ■かたくななるさまにや 東宮の親の立場として、わざわざ源氏に例を言ったりすれば見苦しいことになりはしないかという気持ち。 ■なかなか他の事に 親としては源氏が東宮の親族となりいよいよ親しくしてくれていることを喜ぶべきところなのに、かえってそれを他人ごとのように見ていたの意。 ■かの御遺言違へず仕うまつりおきてしかば 故桐壺院の御遺言どおり、冷泉帝に譲位したこと。 ■末の世の明らけき君 冷泉帝を、天暦の御門(村上天皇)になぞらえる。 ■秋の行幸 行幸は十月のこと(【藤裏葉 15】)で、暦の上では冬だが、紅葉の盛りであったため秋と称す。 ■おぼえたまふ 自敬表現。 ■ともかくも 須磨流謫の時、夕霧は五~六歳。詳しい事情はわからない。 ■年まかり入りはべりて 年が長じての意か。 ■内々のさるべき物語 身内での打ち明け話し。そんな本音が出る場面でも源氏は不満を漏らさなかったということで、前に朱雀院が「はかなき事のあやまりに、心おかれたてまつることもありけんと思ふを…」と言ったことを否定する形となる。 ■朝廷の御後見を仕うまつりさして 帝の世話役を途中で辞退して。「さす」は途中でやめる。 ■籠りゐし後は 引退して准太政天皇となったこと。 ■御位におはしましし世 朱雀帝が在位中。その頃源氏は右大臣一派に圧され疎外されていた。 ■賢き上の人々 弘徽殿大后や右大臣のこと。源氏をいじめた人たち。それに対して源氏が「賢き」というか疑問。夕霧が言葉をえらんで言っているのだろう。 ■その御心ざし 朱雀院にお仕えしようという心ざし。 ■さすがに何となく心せき 隠居の身であるので自由に動けるはずが、かえって准太政天皇という仰々しい立場となり、格式にしばられて自由に動けないことをいう。 ■おのづから 朱雀院と距離を置くつもりはないのに、准太政天皇という立場上制約があって訪れないでいるうちに、日数が経ってしまったの意。 ■二十歳にもまだわづかなるほど 夕霧は今年十八歳。 ■太政大臣のわたり 夕霧は太政大臣の娘、雲居雁と結婚した(【藤裏葉 05】)。 ■心得ぬさま 【少女 13】以来、太政大臣によって夕霧と雲居雁の間が裂かれていたこと。 ■妬く思ふこと 朱雀院は女三の宮を妻として夕霧にすすめようとするので、夕霧が結婚した今の状況が残念だ、となる。 ■ふと 即座に。すぐ。いきなり。 ■心得顔にも 院の御心中を見通したような言動は夕霧の年齢からいっても礼を失する。 ■のぞきて 夕霧の退出する姿を。 ■老いしらへる 「痴らふ」はぼけている。古参の女房のことをいうか。 ■言ひしろふ 「しろふ」は互いに…する。作中他に「つきしろふ」が多用されている。 ■まことに… 以下、朱雀院の源氏評。源氏に対してほとんど敬語を使っていないことが異質。 ■その世 源氏が今の夕霧ぐらいの年齢であった頃。 ■光る 世人は源氏を称えて「光る君」とよんだ(【桐壷 14】【同 16】【帚木 01】)。 ■はかばかしき方 てきぱきと国政処理をする面。実務上の方面。以下、源氏が実務上の面でも、風流・趣味的な面においても、どちらも優れているとほめる。 ■人のありさま 人柄。 ■宮の内に生ひ出でて 【桐壷 10】【同 16】。 ■身にかへて わが身にかえてもと。 ■納言 ここでは中納言のこと。夕霧が現在中納言であるため話題に出した。源氏は十八歳の十月に正三位(【紅葉賀 03】)、翌年七月参議(【同 17】)。中納言任官のことは見えない。 ■たまへりけん 断定を避ける上品な言い方。官職の話なので。 ■かしこき方の才 朝廷にお仕えするための政治上の学才。 ■あやまりても 私の見立てが誤りだったとしてもの意か。なにか将来間違いを犯してもの意、源氏よりもこんなに早く昇進しているのは間違いだとしてもの意ともとれる。

朗読・解説:左大臣光永