【若菜上 01】朱雀院、病にかかり出家を願う 女三の宮を気に病む 西山の御寺を造営

原文

朱雀院《すざくゐん》の帝《みかど》、ありし御幸《みゆき》の後《のち》、そのころほひより、例《れい》ならず悩みわたらせたまふ。もとよりあつしくおはします中《うち》に、このたびはもの心細く思しめされて、「年ごろ行ひの本意《ほい》深きを、后《きさい》の宮《みや》のおはしましつるほどは、よろづ憚《はばか》りきこえさせたまひて、今まで思しとどこほりつるを、なほその方《かた》にもよほすにやあらん、世に久しかるまじき心地なんする」などのたまはせて、さるべき御心まうけどもせさせたまふ。

御子《みこ》たちは、春宮《とうぐう》をおきたてまつりて、女宮《をむなみや》たちなむ四《よ》ところおはしましける。その中に、藤壺《ふぢつぼ》と聞こえしは、先帝《せんだい》の源氏にぞおはしましける、まだ坊《ばう》と聞こえさせしとき参りたまひて、高き位にも定まりたまふべかりし人の、とり立てたる御|後見《うしろみ》もおはせず、母方もその筋となくものはかなき更衣腹《かういばら》にてものしたまひければ、御まじらひのほども心細げにて、大后《おほきさい》の尚侍《ないしのかみ》を参らせたてまつりたまひて、かたはらに並ぶ人なくもてなしきこえたまひなどせしほどに、気《け》おされて、帝も御心の中《うち》にいとほしきものには思ひきこえさせたまひながら、おりさせたまひにしかば、かひなく口惜しくて、世の中を恨みたるやうにて亡せたまひにし、その御腹の女三《をむなさん》の宮《みや》を、あまたの御中にすぐれてかなしきものに思ひかしづききこえたまふ。そのほど御年十三四ばかりおはす。「今は、と背《そむ》き棄《す》て、山籠《やまごも》りしなむ後《のち》の世にたちとまりて、誰《たれ》を頼む蔭《かげ》にてものしたまはむとすらむ」と、ただこの御ことをうしろめたく思し嘆く。

西山《にしやま》なる御寺《みてら》造りはてて、移ろはせたまはんほどの御いそぎをせさせたまふにそへて、またこの宮の御|裳着《もぎ》のことを思しいそがせたまふ。院の内にやむごとなく思す御|宝物《たからもの》御|調度《てうど》どもをばさらにもいはず、はかなき遊び物まで、すこしゆゑあるかぎりをば、ただこの御方にと渡したてまつらせたまひて、その次々をなむ、他御子《ことみこ》たちには、御処分《おほむそうぶん》どもありける。

現代語訳

朱雀院の帝は、先日の御幸の後、その頃から、常ならず、ずっとご病気でいらっしゃる。もともとご病弱いらっしゃる上に、今回はまた心細くおぼしめされて、(朱雀院)「長年、出家の念願を深く抱いてまいったが、大后の宮(弘徽殿大后)がご健在のうちは、万事ご遠慮申し上げになられて、今まで気持ちを抑えてきたが、やはり仏の道に気持ちが向かうのだろうか、この世にそう長くは生きていられないという気持ちがする」などとお仰せになって、出家のためのしかるべきご準備などをあそばされる。

御子たちは、東宮をお除き申し上げては、女宮たちが四ところいらっしゃった。その中に、藤壺と申し上げた御方は、先帝(桐壺帝の前の帝)の御子で源氏となった御方でいらっしゃったが、朱雀院がまだ東宮と申し上げた時に参内なさって、高い位におつきになるのにもふさわしい御方でいらしたが、これといった御後見人もいらっしゃらず、母方もこれといった血筋ではなく頼りない更衣腹でいらしたから、宮仕えのようすも心細げで、大后(弘徽殿大后)が、朱雀院に、尚侍(朧月夜)を参らせ申し上げなさって、朱雀院がこの尚侍を傍らに並ぶ人もないほど大切にし申された時に、それに圧倒されて、院も御心の中では、この藤壺のことを愛しいものと思い申されながら、ご譲位なさったので、どうにも打つ手がなく、残念で、世の中を恨んでいるようにしてお亡くなりになられた、その藤壺の御腹の女三の宮を、院は、多くの御子たちの中に特別愛しいものと思い大切にされる。そのころ、御年十三四ぐらいでいらっしゃる。「今は最後と私が世に背いて、山ごもりした後の世に、この女宮が残りとどまって、誰を頼みとして生きていかれるというのだろう」と、ただこの御ことを気がかりにお思いになりお嘆きになる。

西山にある御寺を造り終えて、そこにお移りになられるご準備をなさるのに加えて、この宮の御裳着のことをお考えになり、ご準備なさる。院の御所内に貴重とお思いになる数々の御宝物、御調度品は申すまでもなく、何ということもない御遊び物まで、すこしでも由緒あるものはすべて、ただこの御方(女三の宮)にとお渡し申し上げなさって、他のを順繰りに、他の御子たちに、それぞれご処分なされた。

語句

■ありし御幸 藤裏葉巻に描かれた十月紅葉の盛りの御幸(【藤裏葉 15】)。 ■もとよりあつしくおはします 朱雀院には眼病はじめいろいろな持病があった(【明石 11】)。 ■憚りきこえさせたまひて 自敬表現。 ■もよほす 仏道に心惹かれる。 ■さるべき御心まうけ 出家に向けての準備。 ■藤壺と聞こえしは… 以下「亡せたまひにし」まで、女三の宮の母藤壺の説明。 ■先帝の源氏 「先帝」は桐壺帝の前の帝。桐壺帝との続柄は不明。その先帝の皇女で臣籍降下して源氏となった方。藤壺中宮や紫の上の父式部卿宮の異母妹にあたる。 ■高き位 中宮の位を想定。 ■母方 藤壺の母は先帝の更衣。 ■御まじらひ 宮仕えする人の仲に交じらうこと=宮仕え。 ■尚侍 朧月夜。朱雀帝に参内し時めいていた(【賢木 12】)。 ■おりさせたまひにしかば 朱雀帝の譲位については【澪標 03】に。 ■頼む蔭 歌語。「七条后亡せたまひにけるのちによみける/…秋の紅葉と人々は おのが散り散り 別れなば 頼む蔭なく なりはてて  とまるものとは 花薄…」(古今・雑躰 伊勢)。 ■西山なる御寺 「西山」は京都西郊の山々だが、この「西山なる御寺」には古来、仁和寺を当てる。仁和寺は仁和2年(886)光孝天皇の勅願により着工。仁和4年(888)次の宇多天皇の時に完成。延喜4年(904)宇多天皇が出家後、法皇となり、ここ仁和寺に御室(おむろ)=僧坊を設けたことから「御室(おむろ)御所」とも呼ばれた。以後、仁和寺は幕末の慶応3年(1867)まで皇室出身の法親王が住職をつとめる門跡寺院として続いた。出家後の宇多法皇のことを「朱雀院」と号した史実と重なる。 ■御裳着 女子の成人式。初めて裳をつける。ふつうは十二~四歳の間に行う。 ■御処分 財産を処分・分配すること。

朗読・解説:左大臣光永