【澪標 03】春宮の元服 冷泉帝即位 源氏、内大臣となる 到仕大臣、太政大臣となる

原文

あくる年の二月《きさらぎ》に、春宮の御元服のことあり。十一になりたまへど、ほどより大きに大人しうきよらにて、ただ源氏の大納言の御顔を二つにうつしたらむやうに見えたまふ。いとまばゆきまで光りあひたまへるを、世人《よひと》めでたきものに聞こゆれど、母宮、いみじうかたはらいたきことに、あいなく御心を尽くしたまふ。内裏《うち》にもめでたしと見たてまつりたまひて、世の中譲りきこえたまふべきことなど、なつかしう聞こえ知らせたまふ。

同じ月の二十余日《にじふよにち》、御|国譲《くにゆづ》りのことにはかなれば、大后思しあわてたり。「かひなきさまながらも、心のどかに御覧ぜらるべきことを思ふなり」とぞ、聞こえ慰めたまひける。坊には承香殿《そきやうでん》の皇子《みこ》ゐたまひぬ。世の中改まりて、ひきかへ今めかしき事ども多かり。源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。

やがて世の政《まつりごと》をしたまふべきなれど、「さやうの事しげき職《そく》にはたへずなむ」とて、致仕《ちじ》の大臣《おとど》、摂政《せふしやう》したまるベきよし譲りきこえたまふ。「病によりて、位を返したてまつりてしを、いよいよ老のつもり添ひて、さかしきことはべらじ」と、承《う》け引き申したまはず。他《人》の国にも、事移り世の中定まらぬをりは深き山に跡を絶えたる人だにも、をさまれる世には、白髪《しろかみ》も恥ぢず出で仕へけるをこそ、まことの聖《ひじり》にはしけれ、病に沈みて返し申したまひける位を、世の中かはりてまた改めたまはむに、さらに咎あるまじう、公私《おほやけわたくし》定めらる。さる例もありければ、すまひはてたまはで、太政大臣になりたまふ。御年も六十三にぞなりたまふ。

現代語訳

あくる年の二月に、東宮の御元服式がある。十一歳におなりあそばしたが、ご年齢よりもたいそう大人びて美しく、ひとえに源氏の大納言の御顔を二つ写しにしたようにお見えになる。

源氏と東宮のお二人が、たいそうまぶしいまでに輝きあっていらっしゃるのを、世間の人はめでたいものとしてお褒め申し上げるが、母宮(藤壺入道)は、ひどく居心地が悪く、今さらどうにもならないのだが、あれこれお気をもんでいらっしゃる。

帝も東宮の御ことを見事に秀でた方と覧あそばして、御位をお譲りあそばすについてのことなど、しみじみご情愛深く仰せになられる。

同じ月の二十余日、御譲位のことが急に決まったので、大后は狼狽された。(朱雀院)「生きているかいのない私のありさまですが、これからのんびりとお目にかかれるようになりたいと思うのです」と、申し上げお慰めになった。

東宮には承香殿《そきょうでん》の皇子がお立になった。世の中が改まって、以前とうってかわってはなやいだ事どもが多いのである。

源氏の大納言は、内大臣になられた。大臣の定員が決まっていて、異動する人もなかったので、員外の大臣としてお加わりになられたのである。

そのまま世の政治をもお執りになるのが筋であったが、(源氏)「そのような重職には堪えられませんから」といって、到仕の大臣に、摂政をなさるようにという旨を申してお譲りする。

(到仕大臣)「病のため、位を返上申し上げたのを、いよいよ年をとって、まともな政が行えるはずがございません」とお引き受けにならない。

(朝廷・民間)「外国にも、変事があって世の中が乱れている折は深山に姿をかくしていた人さえ、ふたたび世がおさまれば、白髪も恥じず山を出て朝廷に仕えた例もあるが、それこそまことの聖人というものである。病にかかって返上申された位を、世の中がかわってまたお改めになられるのに、まったく非難される筋ではなかろう」と、朝廷でも民間でも評定される。

そのような先例もあったので、ご辞退なさりきれず、太政大臣に就任された。御年も六十三におなりである。

語句

■ほどより大きに 六年前の賢木巻には「御年のほどよりは、大人びうつくしき御さま」とあった(【賢木 09】)。 ■坊 東宮坊。ここでは東宮のこと。 ■承香殿 承香殿女御。朱雀帝の女御の一人。(現)右大臣の娘。朱雀帝と承香殿の間に生まれた御子を東宮に立てようという計画は以前語られている(【明石 16】)。この「右大臣」は、亡くなった「前太政大臣」とは別人で、後に登場する「髭黒の大将」の父。 ■ひきかへ 源氏方にとって追い風が吹いてきたの意。 ■到仕大臣 辞退したもとの左大臣。源氏の義父。 ■位を辞したてまつりしを 「位」はここでは左大臣という官職のこと。位(ニ位相当)は官職を辞してもそのままにすることが多い。 ■他の国にも… 『史記』にある漢の高祖の時代の故事。呂后は張良に命じて隠居してる四皓(四人の老賢者)を呼び戻し、わが子である太子の世を安泰たらしめた(史記・留侯世家)。以前も高祖没後に呂后が戚夫人とその子如意を迫害した記事が、弘徽殿大后が藤壺と東宮を憎むたとえとして引用されている(【賢木】)。 ■すまひはてたまはで 「すまふ」は辞退する。 ■御年も六十三 貞観八年(866)、藤原良房は六十三歳で摂政となり幼少の清和天皇を補佐した。 

朗読・解説:左大臣光永