【若菜上 29】明石の君と尼君、一家の運命を語らい涙する

御方は南《みなみ》の殿《おとど》におはするを、「かかる御|消息《せうそこ》なむある」とありければ、忍びて渡りたまへり。重々しく身をもてなして、おぼろけならでは、通ひ、あひ見たまふことも難《かた》きを、あはれなることなむと聞きて、おぼつかなければ、うち忍びてものしたまへるに、いといみじく悲しげなる気色にてゐたまへり。灯《ひ》近くとり寄せて、この文を見たまふに、げにせきとめむ方《かた》ぞなかりける。よその人は何とも目とどむまじきことの、まづ、昔、来《き》し方《かた》の事思ひ出で、恋しと思ひわたりたまふ心には、あひ見で過ぎはてぬるにこそは、と見たまふに、いみじく言ふかひなし。涙をえせきとめず。この夢語《ゆめがたり》を、かつは行く先頼もしく、「さらば、ひが心にてわが身をさしもあるまじきさまにあくがらしたまふ、と中ごろ思ひただよはれしことは、かくはかなき夢に頼みをかけて、心高くものしたまふなりけり」と、かつがつ思ひあはせたまふ。

尼君、久しくためらひて、「君の御|徳《とく》には、うれしく面《おも》だたしきことをも、身にあまりて並びなく思ひはべり。あはれにいぶせき思ひもすぐれてこそはべりけれ。数ならぬ方にても、ながらへし都を棄《す》ててかしこに沈みゐしをだに、世人《よひと》に違《たが》ひたる宿世《すくせ》にもあるかな、と思ひはべしかど、生ける世に行き離れ、隔たるべき中の契りとは思ひかけず、同じ蓮《はちす》に住むべき後《のち》の世の頼みをさへかけて年月を過ぐし来て、にはかにかくおぼえぬ御事出できて、背《そむ》きにし世にたち帰りてはべる、かひある御事を見たてまつりよろこぶものから、片つ方には、おぼつかなく悲しきことのうち添ひて絶えぬを、つひにかくあひ見ず隔てながらこの世を別れぬるなむ、口惜しくおぼえはべる。世に経《へ》し時だに、人に似ぬ心ばへにより世をもてひがむるやうなりしを、若きどち頼みならひて、おのおのはまたなく契りおきてければ、かたみにいと深くこそ頼みはべりしか。いかなれば、かく耳に近きほどながら、かくて別れぬらん」と言ひつづけて、いとあはれにうちひそみたまふ。御方もいみじく泣きて、「人にすぐれむ行く先のこともおぼえずや。数ならぬ身には、何ごともけざやかにかひあるべきにもあらぬものから、あはれなるありさまに、おぼつかなくてやみなむのみこそ口惜しけれ。よろづのこと、さるべき人の御ためとこそおぼえはべれ、さて絶え籠りたまひなば、世の中も定めなきに、やがて消えたまひなば、かひなくなむ」とて、夜もすがらあはれなることどもを言ひつつ明かしたまふ。

「昨日《きのふ》も、大殿《おとど》の君の、あなたにありと見おきたまひてしを、にはかにはひ隠れたらむも軽々《かろがろ》しきやうなるべし。身ひとつは、何ばかりも思ひ憚《はばか》りはべらず、かく添ひたまふ御ためなどのいとほしきになむ、心にまかせて身をももてなしにくかるべき」とて、暁《あかつき》に帰り渡りたまひぬ。「若宮はいかがおはします。いかでか見たてまつるべき」とても泣きぬ。「いま、見たてまつりたまひてむ。女御の君も、いとあはれになむ、思し出でつつ聞こえさせたまふめる。院も、事のついでに、もし世の中思ふやうならば、ゆゆしきかね言《ごと》なれど、尼君そのほどまでながらへたまはなむ、とのたまふめりき。いかに思すことにかあらむ」とのたまへば、またうち笑《ゑ》みて、「いでや、さればこそ、さまざま例《ためし》なき宿世《すくせ》にこそはべれ」とて、よろこぶ。この文箱《ふばこ》は持たせて参《ま》う上《のぼ》りたまひぬ。

現代語訳

明石の御方は、南の御殿にいらっしゃったが、「このようなお手紙がありました」と連絡があったので、人目を忍んで西北の町へおいでになる。重々しくふるまっていらして、そうとうの用事でなければ、こちらにやってこられて、尼君とお逢いなさることも難しいのだが、「悲しいお手紙がある」と聞いて、気がかりなので、人目を忍んでいらっしゃったところ、尼君は、まことにひどく悲しげな様子でいらっしゃる。

灯火を近くにとり寄せて、この手紙をご覧になると、まことに止めようもなく涙が流れる。他人であれば何とも目をひかないだろう内容だが、御方は、まず、昔のこと、これまでのことを思い出して、ずっと父入道を恋しく思いつづけていらっしゃるお気持ちには、「もうお逢いすることもなく終わってしまうのだ」と思ってこれをご覧になると、今さら言いようがなく悲しく思われる。涙をおしとどめることができない。この夢語を読んで、悲しいが一方では将来が頼もしく思われて、(明石の君)「ならば、父君が常識はずれなお考えで私の身をあれほど未分不相応なさまに縁づけて、中ぶらりんの不安定な状態に置かれた、と一時期はぼんやりと思いもしたが、それはこのような、はかない夢に頼みをかけて、心を高くしていらっしゃったせいであったのだ」と、ともかくも合点がいきなさる。

尼君は、長くためらって、「貴女さまのおかげで、うれしく栄えあることも、わが身にあまるほど、並びない恵みに預かったと思っております。しかし悲しく晴れない思いをしたことも、人並以上でございました。取るに足らない身分ながらも、長年暮らした都を棄てて明石の田舎にひっそり住まっていたことをさえ、世間の人と違うつたない運であるなと思っておりましたが、それでも生き別れとなり、間に隔てを置くことになるような前世からの夫婦の契りだったとは思いもかけず、今生はもちろん、やがては同じ蓮の上に生まれ変わって住むだろうと、後の世のことまでも頼みにして年月を過ごしてきて、急にこのような予想もしない御ことが起こって、いったんは背を向けた世間に立ち返ってきましたが、そこで生きがいのある貴女のご様子を拝見して、喜んではいるのですが、また一方では、不安で悲しいことがこの身につきまとって絶えることがないのを、ついにこうして夫入道と逢うことなく隔たったまま今生の別れとなってしまったことは、残念に思います。あの御方は、まだ俗人でいらした時でさえ、人と変わったご気性で、世間をひがんだ目で見ていたようでしたですが、若い私たちはいつも頼みにしあって、それぞれ唯一の相手として夫婦の契りを交わしていたので、お互いにとても深く頼みにしていましたよ。どうして、こうして耳に聞こえるほどの近くにいながら、こうして別れなければならないのでしょう」と言いつづけて、ひどく悲しげに顔をおしかめになる。

御方(明石の君)も、ひどく泣いて、(明石の君)「世間の人よりも恵まれている私の将来のことなど、どうでもいいのです。取るに足らないわが身には、何事も、華やかで、かいのあるようにはいかないものなのに、こんな悲しい形で、生死もわからずじまいになってしまうことだけが、残念でなりません。万事は、そのような因縁をお持ちの父君が発端となって起こったこととは思いますが、そうやって山に籠もってそれっきりでは、世の中も無常であるので、そのままお亡くなりになってしまわれたなら、何のかいのなもないことです」と、一晩中、さまざまな悲しいことを言いつつ、夜をお明かしになられる。

(明石の君)「昨日も、大臣の君(源氏)は、私が女御のところにいるのをご覧になられておりましたので、急にこっそりと外出して隠れているのも軽率に見えるでしょう。わが身ひとつなら、どれほどの遠慮もいたしませんが、こうして若君にお付きになっていらっしゃることは女御のためなどにはお気の毒に思われますので、心にまかせてわが身を自由にふるまうことも難しいでしょう」といって、明け方にお帰りになられた。(尼君)「若君はどうしておられます。どうにかして拝見したい」とも言って、尼君は泣いた。(明石の君)「今に拝見なさることもできましょう。女御の君(明石の女御)も、尼君のことを、たいそう愛しく、思い出しては話題にされていらっしゃるようです。院(源氏)も、なにかの機会に、『もし世の中が思いどおりになったら、不吉な予測のようではあるが、尼君がその頃まで長らえていただきたい』とおっしゃっていたようです。院(源氏)はどんなお考えがおありなのでしょうか」とおっしゃると、尼君はまた笑って、(尼君)「さてさて、それだからこそ、悲喜こもごもに先例のない運命なのでございますよ」と言って、よろこぶ。この文箱は女房に持たせて女御のもとに参上なさった。

語句

■南の殿 六条院南の御殿。明石の女御の居所。 ■ありければ 尼君が明石の君に伝えた。 ■渡りたまへり 六条院西北の町に。 ■おぼろけならでは 「おぼろけならぬ事ならでは」の略。二重否定は肯定で訳す。 ■通ひ、あひ見たまふことも難きを 明石の君はいまや東宮の女御の母として高貴な身分なので、実の母親といっても容易に逢うことができない。 ■げにせきとめん方ぞ… 「げに」は「あはれなることなん」という知らせ通り。 ■昔、来し方の事  明石にいた頃のこと、それから源氏と結婚して、明石の御方が生まれたこと、上京したこと、それ以来父と別れていることなど。 ■かつは行く先頼もしく 「かつがつ思ひあはせたまふ」にかかる。 ■中ごろ 今と昔の中間ごろ。明石の君が、源氏の帰郷後、明石に取り残されていた時期と、上京まぎわの時期。 ■数ならぬ方 尼君の謙遜。尼君は親王のち筋(【松風 02】)。 ■ながらへし都を棄てて 入道が近衛中将の地位を棄てて播磨の国司となったこと。 ■世人に違ひたる 近衛中将(従四位下相当)ともなれば都で栄達出世を願うのがふつうなのに、播磨守(従五位相当)となって播磨に下ったこと。 ■同じ蓮に住むべき 夫婦が極楽浄土で同じ蓮の葉の上に坐ること。 ■かくおぼえぬ御こと 明石の君が、明石を出て大堰に移住することになったこと(【同 03】【同 04】)。 ■背きにし世にたち帰りて 尼君が、いったん棄てた都に戻ることになったこと。「ここら契りかはしてつもりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼み棄てし世に帰るも、思へばかなしや」(【同 02】)。 ■かひある御事 孫の明石の女御が若宮を生んだこと。 ■おぼつかなく悲しきこと 入道と生き別れになったこと。 ■この世を別れぬるなん 「ぬる」と完了になっている。強くその近い将来を確信しているのである。 ■世に経し時 入道が俗人であった時。 ■若きどち頼みならひて 入道と尼の夫婦が若い頃から信頼しあっていたことをいう。 ■かく耳に近きほどながら 都と明石の距離感をいう。 ■人にすぐれん行く先 入道の夢が正夢となり、若君が即位し、明石の女御が国母となること。 ■数ならぬ身 明石の君は繰り返し、繰り返し、しつこくこれを言う。明石の君のキーワード。 ■あはれなるありさまに 父の生死もわからぬまま生き別れになるのは残念だの意。 ■さるべき人 明石の入道のこと。夢を信じ、娘を源氏に嫁がせ、子を産ませ、その子が東宮に嫁いだ。そういう宿縁を持った人。 ■さて絶え籠りたまひなば 僧一人と童二人をお供にして山に籠もったこと。 ■あなたにありと 明石の君が明石の女御の居所にいると。 ■にはかにはひ隠れたらむも 明石の君が、急に母尼君を訪ねて、東南の町から西北の町に訪ねていくこと。 ■心にまかせて身をももてなしにくかるべき 前に「重々しく身をもてなして、おぼろけならでは、通ひ、あひ見たまふことも難き」とあった。 ■暁に帰り渡りたまひぬ 人目を避けるためまだ暗いうちに西北の町から東南の町に帰る。 ■もし世の中思ふやうならば 若宮が東宮に立てば。 ■ゆゆしきかね事 若宮が東宮に立つことを望むのは、帝の代替わりを期待することだから。 ■そのほどまで 若君が東宮に立つまで。 ■いかに思すことにかあらむ 明石の君は源氏が言いたいこと(若宮の立太子を望むこと)はわかっているだろうが、その内容を露骨に口に出すことは憚られる。 ■さればこそ 明石の君や源氏からありがたいお言葉をかけてもらえるので。 ■この文箱 前に「かの社に立て集めたる願文ども、大きなる沈の文箱に封じ籠めて奉りたまへり」とあった、その文箱。

朗読・解説:左大臣光永