【若菜下 32】源氏、女三の宮と柏木の密通を知り煩悶
大殿《おとど》は、この文のなほあやしく思さるれば、人見ぬ方にて、うち返しつつ見たまふ。さぶらふ人々の中に、かの中納言の手に似たる手して書きたるか、とまで思し寄れど、言葉づかひきらきらと紛《まが》ふべくもあらぬことどもあり。年を経て思ひわたりけることの、たまさかに本意《ほい》かなひて、心やすからぬ筋《すぢ》を書き尽くしたる言葉、いと見どころありてあはれなれど、「いとかくさやかには書くべしや。あたら、人の、文をこそ思ひやりなく書きけれ。落ち散ることもこそと思ひしかば、昔、かやうにこまかなるべきをりふしにも、言《こと》そぎつつこそ書き紛らはししか、人の深き用意は難《かた》きわざなりけり」と、かの人の心をさへ見おとしたまひつ。
「さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき。めづらしきさまの御心地もかかる事の紛《まぎ》れにてなりけり。いで、あな、心うや、かく人づてならずうきことを知る知る、ありしながら見たてまつらんよ」と、わが御心ながらも、え思ひなほすまじくおぼゆるを、「なほざりのすさびと、はじめより心をとどめぬ人だに、また異《こと》ざまの心分くらむと思ふは心づきなく思ひ隔てらるるを、まして、これは、さま異《こと》に、おほけなき人の心にもありけるかな。帝の御妻《みめ》をもあやまつたぐひ、昔もありけれど、それは、また、いふ方異《かたこと》なり、宮仕《みやづかへ》といひて、我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどに、おのづからさるべき方につけても心をかはしそめ、ものの紛れ多かりぬべきわざなり。女御、更衣といへど、とある筋《すぢ》かかる方につけてかたほなる人もあり。心ばせかならず重からぬうちまじりて、思はずなる事もあれど、おぼろけの定かなる過ち見えぬほどは、さてもまじらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れありぬべし。かくばかりまたなきさまにもてなしきこえて、内《うち》々の心ざし引く方よりも、いつくしくかたじけなきものに思ひはぐくまむ人をおきて、かかる事はさらにたぐひあらじ」と爪はじきせられたまふ。
「帝と聞こゆれど、ただ素直《すなほ》に、公《おほやけ》ざまの心ばへばかりにて、宮仕《みやづかへ》のほどもものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言《ごと》になびき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたきをりの答《いら》へをも言ひそめ、自然《じねん》に心通ひそむらむ仲らひは、同じけしからぬ筋《すぢ》なれど、寄る方ありや。わが身ながらも、さばかりの人に心分けたまふべくはおぼえぬものを」と、いと心づきなけれど、また気色《けしき》に出だすべきことにもあらずなど思し乱るるにつけて、「故院の上も、かく、御心には知ろしめしてや、知らず顔をつくらせたまひけむ。思へば、その世のことこそは、いと恐ろしくあるまじき過《あやま》ちなりけれ」と、近き例《ためし》を思すにぞ、恋の山路《やまぢ》はえもどくまじき御心まじりける。
現代語訳
大殿(源氏)は、この文の真偽のほどが、まだあやしくお思いになるので、人の見ていないところで、何度も繰り返しご覧になる。宮(女三の宮)にお仕えしている女房たちの中に、あの中納言の筆跡に似た筆跡で書いたのではないか、とまでお考えになられるが、言葉づかいにきらきらしたあやがあり、間違いようもない事柄の数々も記してある。長い年月が経って、ずっと思っていたことが、たまたま念願かなって、落ち着いていられないことを書き尽くしている言葉は、まことに見どころがあって胸を打つが、(源氏)「まったく、こうまではっきりと書くべきだろうか。惜しいことに、あの者(柏木)は、思慮もなく文を書いたことよ。こういう文が落ち散ることもないだろうかと思ったからこそ、私が若いころは、このように細かく書くべき時にも、言葉を省略しつつ書き紛らわしたものであるのに。人の用心深さというものは、難しいことのようだ」と、その人(柏木)の心までもお見劣りなさる。
(源氏)「それにしても、この人(女三の宮)をどうお取り扱い申し上げればよいだろう。ふつうでないご気分も、こうした事のせいであったのだ。さあ、まったく、嘆かわしいこと。こうして人づてでなく自ら残念なことを見つけて、わかっていながら、以前と同じようにお世話申し上げようというのか」と、わが御心ながらも、宮(女三の宮)のことを思い直すことができないだろうとお思いになるのだが、「いいかげんな遊び事として、はじめから心をとどめない女でさえ、他の男に心を移していると思うことは面白くなく、自然と気持ちが離れていくのに、まして宮は、格別なご身分の御方なのだから、分不相応な男の料簡ではいるよ。帝の御妻と過ちをおかす例などは、昔もあったが、それは、また違う話である。宮仕えといって、我も女も同じ君にいつもお仕え申し上げているうちに、自然と、そうした方面についても心を通わしはじめ、事の過ちもいろいろとありうるということだろう。女御、更衣といっても、ああした所、こうした点において、欠点のある人もある。ご気性が必ずしも奥ゆかしくはない人も中にはいて、思いもよらぬことが起こることもあるが、はっきりと過ちが外にばれないうちは、そうはいっても宮中での交わりをつづけていくこともできるから、すぐには誰の目にも気づかれない過ちもあったことだろう。だがこのように、ひたすら比類ないさまにお取り扱い申し上げて、内々に気持ちを注いでいる人(紫の上)よりも、正室として格式高いものに考えてお世話申し上げている、この私をないがしろにして、こんなことは、まったく類もないことだ」と爪弾きをなさる。
「帝と申し上げても、ただおとなしく事務的にお仕えするだけで、宮仕えするのもおもしろくないのであれば、個人的に深い気持ちを訴えてくる男の言葉になびいて、それぞれ気持ちを尽くし、見捨てがたい折の答えをも言いはじめて、自然と心を通いはじめるような関係は、同じけしからぬことといっても、まだ同情の余地があることよ。われながら、宮が、あの程度の人(柏木)に御心をお移しになろうとは、思いもよらないのだが」と、ひどく不愉快ではあったが、また態度に出すべきことでもない、などと思い悩まれるにつけても、「故院の上(桐壺院)も、こうして、御心の内ではご存知でありながら、知らぬ顔をつくろっていらっしゃったのだろうか。思えば、その世の事こそは、ひどく恐ろしく、とんでもない過ちであったのだ」と、最近の例をお思いあわせになられるにつけても、恋の山路は非難することもできないというお気持ちにもなられるのだった。
語句
■なほあやしく 柏木からの文と直感したが、まだ信じられない。 ■言葉づかひきらきらと 言葉づかいにきらきらとした魅力があること。 ■年を経て思ひわたりける 柏木が女三の宮を想いつづけて六年半。 ■本意かなひて 密通したこと。 ■いとかくさやかに書くべしや 密通の詳細などが細かく書いてあるのだろう。源氏は経験者として、このような文は他人に発覚したときのことを考えて、はっきりした内容は書くべきではないと考えている。 ■落ち散ることもこそ こうした文を落としたり、なくしたりして、それが他人に読まれた場合を、あらかじめ想定すべきだというのである。 ■かの人の心をさへ 源氏はこの件で女三の宮を低く見るだけでなく柏木までも低く見る。 ■さても ここまでは柏木について、ここからは女三の宮について考えをめぐらす。 ■めづらしきさまの御心地 懐妊の兆候。 ■人づてならず 女房から密告されたなどではなく、源氏自身が密通の証拠たる艶書を見つけたこと。 ■なほざりのすさびと… たとえいい加減な気持ちの浮気相手であっても、他の恋人がいると気持ちが萎える(【帚木 07】)。 ■おほけなき人の心 源氏の正妻として類なき扱いを受けている女三の宮と密通した柏木の、だいそれた心を非難。 ■帝の御妻をもあやまつたぐひ 『河海抄』は、業平と通じた五条后や二条后、花山院女御が小野宮関白や道信中将に通じた例を挙げる。そういう例が昔もあったが、今回の密通はその例には当てはまらないとする。柏木の密通直後にも同じ文脈で論ずる場面があった(【若菜下 27】)。 ■さるべき方 色恋の方面。 ■おぼろけの 「おぼろけならぬ」と同じ。 ■いつくしくかたじけなきものに… 源氏が女三の宮を正妻として大切に処遇していること。 ■爪弾き 相手を憎むときの所作。 ■帝と聞こゆれど 后として帝にお仕えするといっても。 ■公ざまの心ばへばかり 帝に事務的にお仕えするだけで個人的に帝からの寵愛を受けるわけではない場合。 ■心ざし深き私のねぎ言 男が、熱心な情愛をこめて言い寄ってくること。 ■見過ぐしがたきをりの答え しかるべき行事の折に男の歌に対して女が歌を返す場面を想定。 ■寄る方ありや 不義密通といつても、まだ同情の余地がある、の意。 ■わが身ながらも 自分を持ち上げ、柏木を落とすにさきがけ、あらかじめ「わが身ながらも」と断る。 ■心分けたまふ 女三の宮が柏木に気持ちを移したといって非難する気持ち。 ■故院の上も… 桐壺院が源氏と藤壺宮との密通に気づいていた、という描写は、物語中に存在しない。だがここの源氏の台詞から、そうしたことも想像される。 ■近き例 女三の宮と柏木の密通。 ■恋の山路は 「いかばかり恋てふ山の深ければ入りと入りぬる人まどふらむ」(古今六帖四)を引く。