【若菜下 33】源氏、女三の宮、柏木それぞれに苦悶
つれなしづくりたまへど、もの思し乱るるさまのしるければ、女君、消え残りたるいとほしみに渡りたまひて、人やりならず心苦しう思ひやりきこえたまふにや、と思して、「心地はよろしくなりにてはべるを、かの宮の悩ましげにおはすらむに、とく渡りたまひにしこそいとほしけれ」と聞こえたまへば、「さかし。例ならず見えたまひしかど、異《こと》なる心地にもおはせねば、おのづから心のどかに思ひてなむ。内裏《うち》よりは、たびたび御使ありけり。今日も御文ありつとか。院のいとやむごとなく聞こえつけたまへれば、上《うへ》もかく思したるなるべし。すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた思さんことのいとほしきぞや」とて、うめきたまへば、「内裏《うち》の聞こしめさむよりも、みづから恨めしと思ひきこえたまはむこそ、心苦しからめ。我は思しとがめずとも、よからぬさまに聞こえなす人々かならずあらんと思へば、いと苦しくなむ」などのたまへば、「げに、あながちに思ふ人のためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり深きこと。とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめぐらさるるを、これはただ、国王《こくわう》の御心やおきたまはむ、とばかりを憚《はばか》らむは、浅き心地ぞしける」と、ほほ笑みてのたまひ紛らはす。渡りたまはむことは、「もろともに帰りてを、心のどかにあらむ」とのみ聞こえたまふを、「ここには、しばし、心やすくてはべらむ。まづ、渡りたまひて、人の御心も慰みなむほどにを」と聞こえかはしたまふほどに、日ごろ経《へ》ぬ。
姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経《ふ》るも、人の御つらさにのみ思すを、今は、わが御|怠《おこた》りうちまぜてかくなりぬると思すに、院も聞こしめしつけていかに思しめさむと、世の中つつましくなん。
かの人も、いみじげにのみ言ひわたれども、小侍従も、わづらはしく思ひ嘆きて、「かかる事なむありし」と告げてければ、いとあさましく、いつのほどにさる事出で来《き》けむ、かかることは、あり経《ふ》れば、おのづからけしきにても漏《も》り出づるやうもや、と思ひしだにいとつつましく、空に目つきたるやうにおぼえしを、まして、さばかり違《たが》ふべくもあらざりしことどもを見たまひてけむ、恥づかしく、かたじけなく、かたはらいたきに、朝夕《あさゆふ》涼みもなきころなれど、身も凍《し》むる心地して、言はむ方なくおぼゆ。「年ごろ、まめ事にもあだ事にも召しまつはし、参り馴れつるものを。人よりはこまやかに思しとどめたる御気色のあはれになつかしきを、あさましくおほけなきものに心おかれたてまつりては、いかでかは目をも見あはせたてまつらむ。さりとて、かき絶えほのめき参らざらむも人目あやしく、かの御心にも思しあはせむことのいみじさ」などやすからず思ふに、心地もいと悩《なや》ましくて、内裏《うち》へも参らず。さして重き罪には当たるべきならねど、身のいたづらになりぬる心地すれば、さればよと、かつはわが心もいとつらくおぼゆ。
「いでや、静やかに心にくきけはひ見えたまはぬわたりぞや、まづは、かの御簾《みす》のはさまも、さるべき事かは。軽々《かるがる》しと大将の思ひたまへる気色見えきかし」など、今ぞ思ひあはする、しひて、この事を思ひさまさむと思ふ方《かた》にて、あながちに難《なん》つけたてまつらまほしきにやあらむ。「よきやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあてなる人は、世のありさまも知らず、かつさぶらふ人に心おきたまふこともなくて、かくいとほしき御身のためも、人のためも、いみじきことにもあるかな」と、かの御事の心苦しさも、え思ひ放たれたまはず。
現代語訳
院(源氏)は、なにげないふうを装っていらっしゃるが、なんとなく思い悩んでいらっしゃる様子がはっきりわかったので、女君(紫の上)は、「殿(源氏)は、やっと命をとりとめた私のことを愛おしくお思いになられて、こちらにおいでになられたものの、あちらさまについてはどうにもならず、心苦しく思いやり申されになられるのだろう」とお察しになられて、(紫の上)「私は気分がよくなりましたが、かの宮(女三の宮)のご気分が悪そうにしていらっしゃいますのに、すぐにこちらにおいでになられたことが、お気の毒でございます」と申し上げなさると、(源氏)「さすがですね。宮はふつうでない様子にお見えでいらっしゃいましたが、とくに変わったようすでもいらっしゃいませんので、つい安心されまして。帝からは、たびたび宮のもとに御使がありました。今日も御文があったとか。院(朱雀院)がたいそう宮を大事にするようにとお頼みおきになられたので、帝もこうしてご心配されていらっしゃるのでしょう。私が宮をすこし粗略に扱いでもすれば、帝も、院も、ご心配になられることが、お気の毒です」といって、お嘆きになられると、(紫の上)「帝がお耳にあそばすことよりも、宮ご自身がお恨みになられるでしょう。それこそが、おいたわしゅうございましょう。宮ご自身はお気になさらないとしても、よからぬように申し上げる女房たちが、必ずあろうと思いますので、ひどくおいたわしゅうございます」などとおっしゃると、(源氏)「ほんとうに、ひたすら私が愛情を抱いております人(紫の上)には、めんどうな親類縁者もいないのに、万事にわたって深いところまでお気がつくことですね。あれこれと、女房たちの考えるだろうことまで御気をめぐらしていらっしゃるのに、私は、ただ国王のご機嫌を損ないはしないかと、そればかりを気にしているのは、宮に対する愛情が浅い気がいたしました」と、ひたすら微笑んで、混乱したお気持ちをお紛らわしになられる。
六条院にお帰りになられることについては、(源氏)「貴女とご一緒に帰って、ゆっくり過ごすことにいたしましょう」とだけ申されるが、(紫の上)「私のほうは、しばらく、こちらでゆっくりしておりましょう。先にあちらさまにお出でになられて、宮さまの御気分もよめしくなられてから私も」とご相談していらっしゃるうちに、何日も経った。
姫宮(女三の宮)は、こうして院(源氏)が何日もおいでにならないことも、以前は院のご冷淡さとばかりお思いになられていたが、今は、ご自身の過失もあってこうなったのだとお思いになられるにつけ、父院(朱雀院)もこの事実をお知りになって、どうお思いになるだろうと、世の中に気兼ねを感じておられた。
あの人(柏木)も、これまでは宮(女三の宮)に対して、たいそうなことばかり言い続けてきたのだが、小侍従も、こうなっては面倒なことだと思い嘆いて、「こういう事がありました」と告げたので、まったく呆れ果てて、「いつそうした事が発覚したのだろうか、こんな関係を続けていれば、自然とそぶりに出て人に知られることもあるだろうか、と考えただけでも気が引けて、空に目がついていつも監視されているように感じていたのを、まして、あのように、間違いようもない証拠の数々を、院(源氏)がご覧になられたのでは」と、恥ずかしく、畏れ多く、いても立ってもいられないので、朝夕涼しくもない季節なのに、身も凍る気がして、言いようもなく思われる。(柏木)「長年、実務においても、趣味的なことにおいても、いつもお召しいただき、院のもとにしょっちゅう参っていたのに。院が、他の人より私に対して、こまやかに、ご贔屓にしてくださっているご様子は、もったいなく、うれしく思われるのに、呆れ返った不届き者としてお憎しみを受けるのでは、どうやって目をお合わせ申すことができよう。そうはいっても、ふっつりと参らなくなってしまうことも人目に変に思われるし、あの御方(源氏)のお気持ちとしても、やっぱりそうかとお思い合わせになられるのは、たまったものではない」などと動揺して、気分もひどく悪くなって、参内もなさらない。それほど重い罪には当たるわけでもないだろうが、死んでしまうような気がするので、それみたことかと、一方ではご自身の気持ちまでも、ひどく恨めしく思われる。
(柏木)「いったい、落ち着いて奥ゆかしいようすがお見えにならぬ御方であるよ。第一、あの御簾の隙間の一件にしても、ああいう事が起こってよいものだろうか。軽々しい御方であると、大将(夕霧)が思っていらっしゃる様子が見えたことよ」など、今になって合点がいくこの事を、無理に宮への気持ちをさまそうと思うところから、むやみに相手を非難し申し上げようということであろうか。「人柄や身分がよいといっても、あまりひたすらに大らかで高貴な人は、世間のありようも知らず、またお仕えしている女房たちにお気遣いなさることもなくて、ああした大切な御身のためにも、こちらのためにも、大事を引き起こすことになるのだ」と、この御ことの愛おしさも、捨てきることがおできにならない。
語句
■女三の宮の密通を知って心乱れているが、表面にはそれを出さないように心がける。 ■消え残りたる 前の「消えとまる」(【若菜下 30】)の歌の気持ち。 ■人やりならず 誰かから強いられているわけでもなく、源氏自身の中から女三の宮への心配が湧いてくるの意。 ■御使 帝は朱雀院から女三の宮への後見を依頼されている。これは病気を見舞う手紙をとどける使者。 ■こなたかなた 帝と朱雀院。 ■必ずあらむ 紫の上の心配するとおり、女三の宮つきの女房たちは源氏の訪問が少ないことについて陰口を言っていた(【若菜下 31】)。 ■あながちに… 以下「よすがなけれど」まで諸説あり解釈未定。「あながちに思ふ人」を紫の上と取った。 ■よすが 親類縁者。紫の上は身寄りが少ない。 ■おほよそ人 ここでは女三の宮つきの女房たちのこと。 ■国王 帝もしくは朱雀院のこと。 ■浅き心 源氏は、自分の女三の宮への心配が、帝や朱雀院への対面を考えてのことで、心からのものでないことを、あらためて見出す。 ■紛らはす 女三の宮と柏木との密通に動揺するわが心を隠す意図もある。 ■人の御つらさとのみ思すを 密通露見以前は、ただ源氏の冷淡さだけを恨んでいた。 ■今は、わが御怠り 女三の宮は、以前は源氏の冷淡さを恨むだけだったが、今は、源氏が冷淡なのは自分自身の過失のゆえと思い知っている。 ■院も聞こしめしつけて 朱雀院は女三の宮が幼い頃から格別に大切にはぐくんできた。今回の密通は父朱雀院を裏切ることであり、女三の宮にとって、気がとがめることである。 ■かの人も 「姫宮は」に対して「一方、柏木も」の意。 ■いみじげに 柏木の女三の宮に対する熱心な求婚。 ■かかる事 源氏に柏木の手紙が見つかったこと。 ■いとあさましく 露見するにしても早すぎるという気持ち。 ■かかることは… 密通を隠していてもいずれは露見するだろうという怖れ。 ■空に目つきたる どれほど隠しても天は見ているの意。 ■違ふべくもあらざりし 源氏が柏木の手紙を発見したとき「紛ふべくもあらぬことどもあり」(【若菜下 32】)とあった。 ■あさましく… これまで柏木は、源氏から格別に目をかけられていた。だからこそ一転して非難のまととされることが恐ろしい。 ■おほけなき 「おほけなき」は柏木の不義を形容するのに繰り返し使われる言葉。 ■いかでかは目も… 柏木は密通の直後から「この院に目をそばめられたてまつらむこと」を怖れていた(【若菜下 27】)。 ■思しあはせむ やはり柏木は間違いを犯したのだと源氏が合点する。 ■さして重き罪には当るべきならねど 密通直後も柏木は「しかいちじるしき罪には当らずとも…」と考えた(【同上】)。 ■かつはわが心もいとつらく 女三の宮に恋慕の情などを起こした自分を責める気持ち。発覚してはじめて後悔が出てくることに注目したい。 ■いでや 以下、女三の宮への非難。 ■かの御簾のはさま 春の蹴鞠の会で、はじめて女三の宮の姿を垣間見たこと(【若菜上 37】)。 ■大将の思ひたまへる 夕霧は女三の宮の「軽々しさ」について批判的で、柏木もそう見ただろうと推量した(【同上】)。 ■思ひあはする 自分に垣間見れたことと、艶書を発見されたことは、ともに女三の宮の「軽々しさ」から出た過失であるとして、柏木はいらいらする。 ■よきやうとても 以下、これまでとは一転して女三の宮への批判が起こる。 ■さぶらふ人に心おきたまふこともなくて 女房の扱いが下手だと非難。 ■かの御ことの… 女三の宮を非難しながらも、一方で恋慕の情を捨てきることができない。柏木の煩悶が生々しく描かれている。