【若菜下 30】紫の上の病一時おさまり、源氏、女三の宮を見舞う

五月などは、まして、晴れ晴れしからぬ空のけしきにえさはやぎたまはねど、ありしよりはすこしよろしきさまなり。されど、なほ絶えずなやみわたりたまふ。物《もの》の怪《け》の罪救ふべきわざ、日ごとに法華経《ほけきやう》一部づつ供養《くやう》ぜさせたまふ。日ごとに、何くれと尊きわざせさせたまふ。御|枕上《まくらがみ》近くても、不断《ふだん》の御読経《みどきやう》、声尊きかぎりして読ませたまふ。現《あら》はれそめては、をりをり悲しげなることどもを言へど、さらにこの物の怪去りはてず。いとど暑きほどは息も絶えつついよいよのみ弱りたまへば、言はむ方なく思し嘆きたり。亡《な》きやうなる御心地にも、かかる御気色を心苦しく見たてまつりたまひて、世の中に亡くなりなむも、わが身にはさらに口惜しきこと残るまじけれど、かく思しまどふめるに、むなしく見なされたてまつらむがいと思ひ隈《ぐま》なかるべければ、思ひ起こして御湯などいささかまゐるけにや、六月になりてぞ時々御ぐしもたげたまひける。

めづらしく見たてまつりたまふにも、なほいとゆゆしくて、六条院にはあからさまにもえ渡りたまはず。

姫宮は、あやしかりし事を思し嘆きしより、やがて例のさまにもおはせず悩ましくしたまへど、おどろおどろしくはあらず。立ちぬる月より物聞こしめさで、いたく青みそこなはれたまふ。かの人は、わりなく思ひあまる時々は夢のやうに見たてまつりけれど、宮は、尽きせずわりなきことに思したり。院をいみじく怖《お》ぢきこえたまへる御心に、ありさまも人のほども等《ひと》しくだにやはある、いたくよしめき、なまめきたれば、おほかたの人目にこそ、なべての人にはまさりてめでらるれ、幼くよりさるたぐひなき御ありさまにならひたまへる御心には、めざましくのみ見たまふほどに、かく悩みわたりたまふはあはれなる御|宿世《すくせ》にぞありける。御|乳母《めのと》たち見たてまつりとがめて、院の渡らせたまふこともいとたまさかなるをつぶやき恨みたてまつる。

かく悩みたまふ、と聞こしめしてぞ渡りたまふ。女君は、暑くむつかしとて、御|髪《ぐし》すまして、すこしさはやかにもてなしたまへり。臥《ふ》しながらうちやりたまへりしかば、とみにも乾《かは》かねど、つゆばかりうちふくみまよふ筋《すぢ》もなくて、いときよらにゆらゆらとして、青み衰《おとろ》へたまへるしも、色は真青《さを》に白くうつくしげに、透《す》きたるやうに見ゆる御|膚《はだ》つきなど、世になくらうたげなり。もぬけたる虫の殻《から》などのやうに、まだいとただよはしげにおはす。年ごろ住みたまはで、すこし荒れたりつる院の内、たとしへなく狭《せば》げにさへ見ゆ。昨日今日《きのふけふ》かくものおぼえたまふ隙《ひま》にて、心ことに繕《つくろ》はれたる遣水《やりみず》、前栽《せんざい》の、うちつけに心地よげなるを見出だしたまひても、あはれに今まで経《へ》にけるを思ほす。

池はいと涼しげにて、蓮《はちす》の花の咲きわたれるに、葉はいと青やかにて、露きらきらと玉のやうに見えわたるを、「かれ見たまへ。おのれ独りも涼しげなるかな」とのたまふに、起き上がりて見出だしたまへるもいとめづらしければ、「かくて見たてまつるこそ夢の心地すれ。いみじく、わが身さへ限りとおぼゆるをりをりのありしはや」と涙を浮《う》けてのたまへば、みづからもあはれに思して、

消えとまるほどやは経《ふ》べきたまさかに蓮《はちす》の露のかかるばかりを

とのたまふ。

契りおかむこの世ならでも蓮葉に玉ゐる露のこころへだつな

出でたまふ方《かた》ざまはものうけれど、内裏《うち》にも院にも聞こしめさむところあり、悩みたまふと聞きてもほど経《へ》ぬるを、目に近きに心をまどはしつるほど、見たてまつることもをさをさなかりつるに、かかる雲間《くもま》にさへやは絶え籠《こも》らむ、と思したちて渡りたまひぬ。

宮は、御心の鬼《おに》に、見えたてまつらんも恥づかしうつつましく思すに、ものなど聞こえたまふ御|答《いら》へも聞こえたまはねば、日ごろのつもりを、さすがにさりげなくてつらしと思しける、と心苦しければ、とかくこしらへきこえたまふ。大人《おとな》びたる人召して、御|心地《ここち》のさまなど問ひたまふ。「例のさまならぬ御心地になむ」とわづらひたまふ御ありさまを聞こゆ。「あやしく。ほど経《へ》てめづらしき御事にも」とばかりのたまひて、御心の中《うち》には、年ごろ経《へ》ぬる人々だにもさることなきを、不定《ふぢやう》なる御事にもや、と思せば、ことにともかくものたまひあへしらひたまはで、ただうち悩みたまへるさまのいとらうたげなるを、あはれ、と見たてまつりたまふ。

からうじて思したちて渡りたまひしかば、ふともえ帰りたまはで、二三日《ふつかみか》おはするほど、いかに、いかに、とうしろめたく思さるれば、御文をのみ書き尽くしたまふ。「いつの間に積もる御言《おほむこと》の葉《は》にかあらむ。いでや、安からぬ世をも見るかな」と若君の御過ちを知らぬ人は言ふ。侍従《じじゆう》ぞ、かかるにつけても胸うち騒ぎける。

かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おほけなく心あやまりして、いみじきことどもを書きつづけておこせたまへり。対に、あからさまに渡りたまへるほどに、人間《ひとま》なりければ、忍びて見せたてまつる。「むつかしき物見するこそいと心憂けれ。心地のいとどあしきに」とて臥《ふ》したまへれば、「なほ、ただ。このはしがきのいとほしげにはべるぞや」とてひろげたれば、人の参るにいと苦しくて、御|几帳《きちやう》ひき寄せて去りぬ。いとど胸つぶるるに、院入りたまへば、えよくも隠したまはで、御|褥《しとね》の下にさしはさみたまひつ。
夜《よう》さりつ方、二条院へ渡りたまはむとて、御|暇《いとま》聞こえたまふ。「ここには、けしうはあらず見えたまふを、まだいとただよはしげなりしを見棄てたるやうに思はるるも、今さらにいとほしくてなむ。ひがひがしく聞こえなす人ありとも、ゆめ心おきたまふな。いま見なほしたまひてむ」と語らひたまふ。例《れい》は、なまいはけなき戯《たはぶ》れ言《ごと》などもうちとけ聞こえたまふを、いたくしめりて、さやかにも見あはせたてまつりたまはぬを、ただ世の恨めしき御気色と心得たまふ。昼《ひる》の御座《おまし》にうち臥《ふ》したまひて、御物語など聞こえたまふほどに暮れにけり。すこし大殿籠《おほとのごも》り入りにけるに、蜩《ひぐらし》のはなやかに鳴くにおどろきたまひて、「さらば、道たどたどしからぬほどに」とて、御|衣《ぞ》など奉りなほす。「月待ちて、とも言ふなるものを」と、いと若やかなるさましてのたまふは憎からずかし。「その間《ま》にも」とや思すと、心苦しげに思して立ちとまりたまふ。

夕露に袖ぬらせとやひぐらしの鳴くを聞く聞く起きて行くらん

片なりなる御心にまかせて言ひ出でたまへるもらうたければ、ついゐて、「あな苦しや」とうち嘆きたまふ。

待つ里もいかが聞くらむかたがたに心さわがすひぐらしの声

など思しやすらひて、なほ情《なさけ》なからむも心苦しければとまりたまひぬ。静心《しづごころ》なくさすがにながめられたまひて、御くだものばかりまゐりなどして大殿籠《おほとのごも》りぬ。

現代語訳

五月などは、それ以前にもまして、晴れ晴れしくない空もようだから、上(紫の上)は、さわやかなご気分でいらっしゃることはできないけれど、以前よりはすこしましなご様子ではある。しかし、やはり絶えずずっとご気分が悪くていらっしゃる。院(源氏)は、物の怪の罪を救うべき仏事として、毎日、法華経を一部ずつ読んで供養をおさせになる。毎日、何かと尊い仏事をおさせになる。御枕元近くでも、不断の御読経を、声のよい僧だけを選んでお読ませになる。物の怪がはじめてあらわれてからは、時々悲しげなことをあれこれ言うが、いっこうに、いなくならない。いよいよ暑さの増すころになると、上(紫の上)は息も絶え絶えに、いよいよ弱っていかれる一方なので、院(源氏)は、言いようもなく思い嘆いていらっしゃる。上は、なきがごときご気分の中にも、このような院のご様子を心苦しく拝見なさって、世の中から亡くなってしまうことも、わが身としてはまったく心残りはないだろうけれど、院がこのように思い迷っていらっしゃるようだから、自分がむなしくなった姿をお目にかけることが、ひどく心ないことであるに違いないので、気力を奮い起こして、御湯などすこし召し上がるせいだろうか、六月になって時々お顔を上げるようになられた。

院はこれを滅多になくありがたいことと拝見なさるが、それでもやはりまだひどく不安で、六条院には滅多においでになることもおできにならない。

姫宮(女三の宮)は、あの不都合な出来事をお思い嘆きになられて以来、そのままいつものふだんと違う体調になられて、ご気分を悪くしていらっしゃるが、たいしたご病状ではない。先月から何も召し上がらず、たいそう青ざめてやせ衰えていらっしゃる。あの人(柏木)は、どうしようもなく思いあまる時々は夢のような気持ちでお逢い申し上げているけれど、宮は、どこまでも不本意とお思いになっていらっしゃる。院(源氏)をひどく怖がり申し上げなさる御心には、院(源氏)とあの人(柏木)と、見てくれも人柄も、同列に比べられようか。あの人(柏木)は、たいそう品があって、優美であるので、大方の人の目には、そこらの人によりは高く見られていようが、幼い頃からあのように類のない院(源氏)のご様子を見慣れていらっしゃる宮(女三の宮)の御心には、ただ心外な者とばかりお思いなのであるから、こんな事になって延々と悩んでいらっしゃるのは、気の毒なご運命であったのだ。御乳母たちが宮のご懐妊に気づいて、院がおいでになられる機会がひどく少ないことを、ぶつぶつと恨み言を申し上げる。このように、宮(女三の宮)が、ご気分を悪くしていらっしゃるとお耳にされたので、院(源氏)はそちらへおいでになる。

女君(紫の上)は、暑く不快であるということで、御髪をお洗いになって、すこしさわやかなご気分になっていらっしゃった。横になったまま髪を横にうちやっていらっしゃるので、すぐには乾かないが、たわんだり乱れたりする毛が少しもまじっておらず、まことに美しげでゆらゆらして、青ざめて衰えていらっしゃるのだが、その顔色がかえってとても青白くうつくしげで、透き通るように見える御肌つきなど、世にまたとなく可憐である。中身の抜けた虫の殻などのように、まだたいそう宙をただようようにしていらっしゃる。長年住んでいらっしゃらなくて、すこし荒れていた院(二条院)の内は、たとえようもなく狭いかんじにさえも見える。昨日今日こうして正気が戻ってきた時に、格別に心をこめてお手入れをなさった遣水、前栽の、一気に気分がよくなるような景色に目をおやりになるにつけても、よくぞ今まで生きながらえてきたものよと、お思いになる。

池はたいそう涼しげで、蓮の花が一面に咲いていて、葉はたいそう青々として、露がきらきらと玉のように一面に見えるのを、(源氏)「あれを御覧なさい。自分一人、涼しげにしていますよ」とおっしゃるので、上(紫の上)は起き上がって、外を御覧になられるにつけても、その御姿もたいそう久しぶりのことなので、(源氏)「こうして貴女の元気なお姿を拝見するのも夢のような気持ちがいたします。ひどくお悪くて、わが身までも最期と思える折々もあったものですよ」と、涙を浮かべておっしゃると、上ご自身も感慨深くお思いになられて、

(紫の上)消えとまる……

(露が消え残っているほどの短い間も生きていられるのでしょうか。たまたま蓮の露が残っているだけ、はかない命ですのに)

とおっしゃる。

(源氏)契りかおむ……

(つゆもたがわず約束いたしましょう。この世ではない、あの世までも、蓮葉におく玉の露のように、私たちの間に隔て心を置かず、一蓮托生であることを)

これからお出かけになられる先の方(女三の宮)は気がすすまないが、帝にも朱雀院にも、どうお耳にされるかという手前もあり、ご気分がお悪いと聞いてから月日が経っているのに、目の近にいらっしゃるこの上(紫の上)に心悩ませているうちに、宮をご訪問されることも途絶えがちだったので、こうした雨雲の絶え間にまでも引きこもっていられないと、お思い立たれて、宮のもとにおいでになられた。

宮(女三の宮)は、やましい御心がおありなので、院(源氏)とお逢い申し上げることも恥ずかしく気が進まないとお思いであるので、院がものをおっしゃるのに対する御返事も申し上げなさらないので、日頃のつれない扱いの積み重ねで、うわべはさりげなくしていても、やはり恨めしいとお思いになっていらしたのだと、院(源氏)は気の毒にお思いになられて、あれこれお慰め申し上げなさる。古参の女房をお召し出しになって、ご容態などをお尋ねになられる。「ふつうの病気ではないご様子でいらっしゃいまして」と、おわずらいになられているご様子を申し上げる。(源氏)「それは妙な。間を空けて、しばらくぶりの御事であるのに」とだけおっしゃって、御心の中では、長年絶えずご訪問なさっている御方々さえもそのようなこと(妊娠)はないのに、不確かな御事ではないか、とお思いになられるので、べつだんどうともおっしゃらず、ただご気分が悪くていらっしゃる様子が、たいそう痛々しげでいらっしゃるのを、しみじみ愛しくごらんになられる。

院(源氏)は、かろうじて思い立っておいでになられたので、すぐにお帰りになることもおできにならず、二三日いらっしゃる間、どうなったのだ、どうなったのだと、上(紫の上)のことを心配にお思いになられるので、御文だけを次々とお書きになられる。

「いつの間に院(源氏)の上(紫の上)に対する御言葉が積もるのでしょう。いったい、こちらは安心していられないご夫婦の仲でいらっしゃること」と、若君(女三の宮)の御過ちを知らない女房たちは言う。侍従だけは、こうしたことにつけても、胸がうち騒いでいた。

かの人(柏木)も、こうして院(源氏)が宮(女三の宮)のもとにおいでになったことを聞くにつけ、分不相応な思い違いをして、宮のもとに、大層な事をあれこれ書きつづけておよこしになられる。院(源氏)が対の屋にちょっとおいでになられた時に、宮(女三の宮)のまわりには人のいない時だったので、小侍従は、こっそりとそのお手紙を宮にお目にかける。(女三の宮)「うるさいものを見るのは、ひどく気がすすみません。気分がいよいよ悪くなってきますので」といって横になっていらっしゃるので、(小侍従)「それでもやはり、これだけは。この端書の、たいそうお可哀そうでございますこと」といって手紙を広げたところで、人が参ったので、小侍従はひどく動揺して、御几帳をひき寄せて去ってしまった。宮は、ひどく胸が高鳴るが、院(源氏)が入っていらしたので、しっかりと手紙を隠すこともおできにならず、御褥の下におさしこみになられた。

院(源氏)は、その夜のうちに、二条院へお帰りになられるということで、宮(女三の宮)に御暇を申し上げなさる。(源氏)「こちら(女三の宮)はそう悪くないようにお見受けされますが、あちら(紫の上)は、まだどうなるかわからないようなご様子でしたので、それを見棄てているように思われるのも、今さらながら気の毒でございまして。私のことを悪いようにお耳に入れる人があっても、けしてお気になさいますな。きっとすぐに私の真意が貴女もおわかりいただけるでしょう」とお語らいになられる。ふだんは、宮(女三の宮)は、なんとなく子供じみた冗談ごとなども打ち解けたようすで申し上げなさるが、今回はひどく意気消沈して、はっきりと顔もお合わせ申されないのを、院(源氏)は、ただの夫婦間の恨みごとによるご態度だと、お考えになられる。昼の御座に横になられて、お話など申されているうちに日が暮れてしまった。すこしお休みになられたところ、蜩が見事に鳴くのに目をお覚ましになられて、(源氏)「それでは、道が暗くならないうちに」といって、御衣などお召し替えになられる。

(女三の宮)「『月待ちて』とも、人は言うようですのに」と、ひどく子供っぽいようすでおっしゃるのは、憎からず思えるのだ。「その間にも」とお思いになっておられようかと、おいたわしくお思いになりながら、お立ちどまりになられる。

(女三の宮)夕露に……

(夕方の露に袖をぬらして泣けとおっしゃるのでしょうか。蜩が鳴くのを聞く聞く、起きてご出発なさるのは)

未成熟な御心のままに言い出しなさるのも可愛らしく思われたので、院(源氏)はちょっとお座りになられて、「ああ心苦しや」とため息をおつきになられる。

(源氏)待つ里も……

(私を待っている里(紫の上方)でも、どう聞いていることでしょう。あれこれと私の心をさわがす蜩の声を)

などとお思いになってぐずぐずして、やはりこのまますげなくご出発するのも心苦しくお思いなので、この夜はお泊りになられた。心落ち着かず、ぼんやりと物思いにおふけりになられて、御くだものぐらいをお召し上がりになられたりして、お休みになられた。

語句

■物の怪の罪救ふべきわざ 物の怪の罪障をはらうための仏事。前に物の怪が「よし、今は、この罪軽むばかりのわざをせさせたまへ」(【若菜下 28】)と言った。 ■亡きやうなる御心地 死人同然の前後不覚な心地。 ■思ひ隈なかるべければ 「思ひ隈なし」は心無いことだ。 ■思ひ起こして 源氏を悲しませてはならないという気持ちから気力を奮い立たせて。 ■御湯 薬湯だろう。 ■なほいとゆゆしくて 御息所の物の怪はしつこいので小康状態になっても油断できない。 ■六条院 女三の宮を直接的にはさす。 ■あやしかりし事 柏木が女三の宮の寝所に侵入して不義を犯したこと。 ■やがて例のさまにもおはせず 柏木との密通直後が病がちで女房たちも心配してそれを源氏に報告していた(【若菜下 27】)。 ■立ちぬる月 先月の五月。 ■物聞しめさで 懐妊で悪阻があるため。 ■わりなく 「わりなし」はいかんともしがたい、抑えがたい気持ち。 ■時々 密通は一度で終わらず複数回行われてた。 ■夢のやうに 現実とは思えない。「君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」(伊勢物語六十九段)が念頭にあるか。 ■わりなきこと 柏木の「わりなく」と照応。 ■院をいみじく怖ぢきこえたまへる 源氏は女三の宮に対して、夕霧をさえ警戒するよう諭した(【若菜上 40】)。 ■幼くより 女三の宮は朱雀院に溺愛され、十四、五歳で源氏に嫁いだ。男子といえば朱雀院と源氏しか知らない。 ■とがめて 懐妊に気づく。 ■つぶやき 乳母たちは女三の宮が懐妊しているにも関わらず源氏が滅多に訪ねてこないことに不平をいう。 ■渡りたまふ 実際に「渡る」のは「渡りたまひぬ」以降。その間しばらく紫の上の看病をしている場面がつづく。 ■暑くむつかし 陰暦六月は猛暑。 ■御髪すまして 一月の発病以来はじめての洗髪か。 ■臥しながら 病気のため横になったまま髪を乾かす。 ■うちふくみまよふ筋 ほつれ毛や枝毛のこと。 ■もぬけたる虫の殻 病気で衰弱した状態をたとえる。 ■ものおぼえたまふ 小康状態で正気を取り戻したことをいう。 ■繕はれたる 「る」はここでは遣水や前栽の整備をさせた源氏に対する尊敬の助動詞。 ■うちつけに 「うちつけ」は突然だ。出し抜けだ。何の前触れもなく。 ■あはれに今まで経にる 蘇生して人生や世界のすばらしさを噛み締めている感じ。 ■蓮の花 夏の代表的な景物。 ■玉のやうに 蓮の露を玉と見立てる。参考「蓮葉の濁りに染まぬ心もてなにかは露を玉とあざむく」(古今・夏 遍照)。 ■おのれ独りも 猛暑の時期である上、紫の上は病にやつれ、源氏は看病でくたくたになっている。そんな中、蓮だけが涼しげにしていると見る。 ■消えとまる… わがはかない命を蓮葉の上の露に見立てた。 ■契りおかむ… あの世までも夫婦の契はつづくと、気落ちしがちな紫の上を励ます。 ■内裏にも院にも 源氏が女三の宮を訪問するのはこうした世間体からで、紫の上に対するような心底の愛情からではない。 ■かかる雲間 長雨の間の晴れ間と紫の上の小康状態をかけた。 ■思したちて 源氏は本心では気がすすまないが、あれこれ理由をつけて女三の宮のもとにでかけていく。 ■渡りたまひぬ 前の「渡りたまふ」に対応。 ■御心の鬼 女三の宮は柏木と密通したことを気に病んでいて、源氏とまともに接することもできない。 ■ものなど聞こえたまふ御答えも… 源氏と女三の宮のすれちがいは、以前のやり取りから(【若菜下 27】)そのまま。 ■例のさまならぬ 懐妊していることをいう。 ■年ごろ経ぬる人 紫の上・明石の君・花散里のこと。 ■不定 源氏は女三の宮の懐妊を不確かなこととして本気にしない。 ■御文をのみ書き尽くし 身は女三の宮のもとにありながら心は紫の上が気がかりで仕方ない。 ■安からぬ世 紫の上に圧倒される女三の宮を、女房たちが同情している表現。 ■侍従 侍従は女三の宮と柏木の密通の手引をして、今もしつづけている。 ■おほけなく心あやまり 柏木は源氏が女三の宮を訪ねたことに嫉妬する。 ■対 紫の上がいた対の屋であろう。 ■人間 人のいない隙。 ■御几帳ひき寄せて 人が来たので、小侍従はあわてて几帳を引き寄せるだけで立ち去る。 ■御褥の下に 手紙を敷布団の下に隠した。 ■まだいとただよはしげなりし 前に「まだいとただよはしげにおはす」とあった。 ■ひがひがしく聞こえなす 女三の宮つきの女房たちが、源氏の寵愛が紫の上に向いている不満から、悪口をいうのであろう。 ■ゆめ心おきたまふな 女三の宮は柏木との密通の件で意気消沈しているのに、源氏は単に自分の訪問が途絶えがちなのを恨んでいるためと見る。源氏と女三の宮との感情のすれちがい。 ■世 源氏と女三の宮との夫婦仲。 ■昼の御座 「夜さりつ方」二条院に出発するにさきがけ、昼の間は休息をとる。 ■蜩 秋の景物。 ■道たどたどしからぬほどに 「夕やみは道たどたどし月待ちて帰れわがせこその間にも見む」(古今六帖)による。異動あり。「…道たづたづし月待ちていませわが背子」(万葉集709)、「夕されば」(伊勢集)。 ■月待ちて 源氏と同じ歌を引用して、急がなくていいと引きとめる。 ■その間にも 同じ歌の引用から、源氏は女三の宮が「せめて月を待っている間だけでも一緒にすごしたい」と思っている、と思っている。 ■夕露に… 「袖ぬらす」は泣くこと。ひぐらしの「鳴く」と「泣く」をかける。「起き」に露を「置き」をかける。 ■片なりなる御心 前の「いと若やかなるさまして…」に照応。 ■待つ里も… 「待つ里」は紫の上方。「かたがた」は紫の上方と女三の宮方。「来めやとは思ふものから蜩の鳴く夕暮は立ち待たれつつ」(古今・恋五 読人しらず)を引くか。 ■静心なく 紫の上方に行く予定を変更したので気になる。

朗読・解説:左大臣光永

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