【柏木 13】諸人、柏木を哀惜する

「右《いう》将軍が塚《つか》に草初めて青し」と、うち口すさびて、それもいと近き世のことなれば、さまざまに近う遠う、心乱るやうなりし世の中に、高きも下《くだ》れるも、惜しみあたらしがらぬはなきも、むべむべしき方をばさるものにて、あやしう情《なさけ》をたてたる人にぞものしたまひければ、さしもあるまじき公人《おほやけびと》、女房などの年古めきたるどもさへ、恋ひ悲しびきこゆる。まして、上《うへ》には、御遊びなどのをりごとにも、まづ思し出でてなん偲《しの》ばせたまひける。「あはれ、衛門督」といふ言《こと》ぐさ、何ごとにつけても言はぬ人なし。六条院には、まして、あはれ、と思し出づること、月日にそへて多かり。この若君を、御心ひとつには形見と見なしたまへど、人の思ひよらぬことなれば、いとかひなし。秋つ方になれば、この君這ひゐざりなど。

現代語訳

(夕霧)「右将軍が塚に草初めて青し」とお口ずさみになって、それもたいそう近い世のことであるので、衛門督(柏木)のことを、縁の近い人も遠い人も、さまざまに心乱れているようであった世の中に、身分の高い人も低い人も、衛門督(柏木)のことを、惜しみもったいながらない者はないのだが、衛門督は格式ばった仕事面のことはもちろん才能があったが、妙に人情のある人でもいらしたので、それほど感じ入るはずもない下級の役人や、女房などの年取った者たちまでも、恋い悲しみ申し上げる。それ以上に、帝は、管弦の御遊びなどの折ごとにも、まず衛門督のことをお思い出しになられてお偲びあそばすのだった。「あはれ、衛門督」という口癖のような言葉を、何ごとにつけても言わない人はない。六条院(源氏)は、世間の人以上に、衛門督のことをしみじみと胸打たれてお思い出しになられることが、月日の重なるにつれて多くなる。この若君(薫)を、御心ひとつの内には衛門督の形見と見るようにしていらっしゃるが、他の人が思いよらないことであるので、まことにかいのないことである。秋ごろになると、この若君も這いいざったりなどして…

語句

■右将軍が塚に草初めて青し 『河海抄』は『本朝秀句』(現存せず)所載の藤原時平の長男保忠の死を悼む紀在昌の詩として以下を挙げる。「天ト善人トヲ吾ハ信ゼズ右将軍ガ墓ニ草初メテ秋ナリ」。賢者と慕われた右将軍が死んでしまうなんて、天や神も信じられないという内容。『花鳥余情』には「右衛門督をも唐名に金吾将軍といへば、右将軍といふに相違なきなり」とある。ここでは季節にあわせて「秋」を「青し」にかえたか。 ■近き世のこと 藤原保忠の死は承平六(936)年。物語と近い時代であるとする。 ■さまざまに近う遠う 以下、縁の近い者遠い者、さまざまに柏木の死を悼んださま。 ■むべむべしき方 宮中の仕事や儀式など、格式ばった方面。柏木の公人としての才覚をいう。 ■さしもあるまじき公人 本来ならそれほど柏木の死を悼むはずもないような下級の役人。それまでも悼んでいると。柏木の貴賤を問わず慕われ愛しまれていたことがしめされる。 ■まして、上には 帝は柏木を厚く信頼され、死の直前に権大納言に昇進させた。 ■御遊びなどのをりごとにも 帝が東宮時代に柏木は琴などを教えた(【若菜下 04】)。 ■あはれ、衛門督 死を予感した柏木は女三の宮に対して「あはれとだにのたまはせよ」(【柏木 02】)と期待したが、死後世間の人からそう言われる皮肉。

朗読・解説:左大臣光永