【横笛 03】薫の無邪気なさま 源氏、老いを実感

若君は、乳母《めのと》のもとに寝たまへりける、起きて這《は》ひ出でたまひて、御袖を引きまつはれたてまつりたまふさまいとうつくし。白き羅《うすもの》に唐《から》の小紋《こもん》の紅梅の御|衣《ぞ》の裾《すそ》、いと長くしどけなげに引きやられて、御身はいとあらはにて背後《うしろ》のかぎりに着なしたまへるさまは、例のことなれど、いとらうたげに、白くそびやかに柳を削りて作りたらむやうなり。頭《かしら》は露草《つゆくさ》してことさらに色どりたらむ心地して、口つきうつくしうにほひ、まみのびらかに恥づかしうかをりたるなどは、なほいとよく思ひ出でらるれど、かれはいとかやうに際《きは》離れたるきよらはなかりしものを、いかでかからん、宮にも似たてまつらず、今より気高くものものしうさまことに見えたまへる気色などは、わが御鏡の影にも似げなからず見なされたまふ。

わづかに歩《あゆ》みなどしたまふほどなり。この筍《たかうな》の櫑子《らいし》に何とも知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らして食ひかなぐりなどしたまへば、「あならうがはしや。いと不便《ふびん》なり。かれとり隠せ。食物《くひもの》に目とどめたまふと、ものいひさがなき女房もこそ言ひなせ」とて笑ひたまふ。かき抱《いだ》きたまひて、「この君のまみのいとけしきあるかな。小さきほどの児《ちご》をあまた見ねばにやあらむ、かばかりのほどはただいはけなきものとのみ見しを、今よりいとけはひことなるこそわづらはしけれ。女宮ものしたまふめるあたりにかかる人|生《お》ひ出でて、心苦しきこと誰《た》がためにもありなむかし。あはれ、そのおのおのの老いゆく末までは、見はてんとすらむやは。花の盛りはありなめど」と、うちまもり聞こえたまふ。「うたて。ゆゆしき御事にも」と人々は聞こゆ。

御歯の生ひ出づるに食ひ当てむとて、筍《たかうな》をつと握り持ちて、雫《しづく》もよよと食ひ濡《ぬ》らしたまへば、「いとねぢけたる色ごのみかな」とて、

うきふしも忘れずながらくれ竹のこは棄てがたきものにぞありける

と、ゐて放ちてのたまひかくれど、うち笑ひて、何とも思ひたらずいとそそかしう這《は》ひ下《お》り騒ぎたまふ。

現代語訳

若君(薫)は、乳母のところにお休みになってらしたが、起きて這い出されて、殿(源氏)の御袖にまとわりついていらっしゃるご様子が、とてもおかわいらしい。無色のうす絹に唐の小紋の紅梅のお召し物の裾を、とても長くしどけない格好で引きずって、おなかをむき出しにして、背中のほうにだけ衣がめくれかかっているようすは、幼児にはよくある姿だが、まことに可愛らしく、色白ですらりとして、柳を削って作ってあるようである。頭は剃り跡が、露草でわざわざ彩ったような感じで、口元がかわいらしく色づいて、眉のあたりはのびのびと、見ているほうが気後れするほどつややかであるのなどは、やはり柏木が、よく思い出されるが、かの人(柏木)はここまでのずば抜けた美しさはなかったのに、どうしてここまで美しいのか、母宮にも似てはいらっしゃらないし、今のうちから気高く立派で並外れてお見えになるご様子などは、殿(源氏)は、御鏡に映るご自分の姿と似ていなくもないというお気持ちにおなりになる。

やっとよちよち歩きなどなさる頃である。この筍の入った器に、無心で立ち寄って、実にあわただしく取り散らかして食いついたり、投げ捨てたりなさるので、(源氏)「なんとはしたない。ひどくまずいことである。あれをお隠しなさい。食い物に目を引かれていらっしゃると、口さがない女房たちが言うだろうから」といってお笑いになる。殿は若君をかき抱かれて、(源氏)「この君の目元は実にただならぬ感じであるよ。小さい子供をそれほど見たことがないからだろうか、これくらいの年ではただ幼いものとばかり思っていたが、今からこんなにも格別な雰囲気であれば、のちのちやっかいなことであるぞ。女宮もいらっしゃるというあたりに、このような人が生まれ出て、心苦しいことが、どちらにとっても起こってくるのではないか。ああ何たることか。そのめいめいが成長してゆく末までは、私は見届けることができるだろうか。春ごとに花の盛りはあるとはいうが…」と、若宮をじっとご覧になって、申し上げられる。「いやなことを。不吉な御事で」と女房たちは申し上げる。

若君は、御歯が生えかかっているのにかじり当てようとして、筍をぎゅっと握り持って、よだれをとろとろと流しながらかじっていらっしゃるので、(源氏)「なんと奇妙な色好みであろうか」といって、

(源氏)うきふしも……

(過去の辛い出来事は忘れることはできないが、これ(子)は、捨て難いものであるよ)

と、若君を器から離してお言葉をおかけになるが、若君は笑って、何とも思っていらっしゃらないご様子で、まことにいそいそと這い下りてお騒ぎになる。

語句

■御袖を 薫が、源氏の袖を引いて、まとわりつく。 ■唐の小紋の紅梅の 渡来の綾織で、小紋の文様のある紅梅色の。 ■いと長くしげけなげに引くきやられて 幼児は袴をつけないので衣が背中側にひっぱられる。おなか側は裸に近くなる。幼児に一般的な姿らしい。 ■柳を削りて 柳の木は白い。色白な肌のたとえ。 ■露草して 当時、幼児は頭を剃ったので、剃り跡が青々として露草のようだと。 ■かをりたるなど 実父柏木の面影がただよう(【柏木 08】)。 ■なほよく思ひ出でらるれど 「なほ」で、やはり柏木の実子であることを実感させられる。 ■いかでかからん 柏木の子にしては美しすぎるの気持ち。 ■歩みなど 薫は満一歳と一ヶ月。 ■筍の櫑子 朱雀院から贈られた筍が盛ってある。 ■いとあわたたしう 『宇津保物語』国譲中巻に幼い犬宮が無心に物を取り散らす場面がある。 ■女宮 明石の女御腹の女一の宮が紫の上に養育されて六条院に住んでいる(【若菜下 11】)。 ■心苦しきこと 柏木に似ているので好色であろうということを含んでいう。 ■誰がためにも 薫にとっても、女一の宮にとっても。 ■そのおのおのの老いゆく末までは 源氏四十九歳。わが人生の暮れ方なるを思う。 ■花の盛りはありなめど 「春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことは命なりけり」(古今・春下 読人しらず)。毎年春には花の盛りがあるようだがそれを見れるかどうかは寿命しだいだ、の意。 ■御ことにも 下に「あるかな」などを補い読む。 ■よよと よだれがたらたら垂れているさま。 ■いとねじけたる色ごのみかな 冗談めかして言うが、薫の複雑な出生と、将来に思いをはせての言葉でもある。 ■うきふしの… 「うきふし」に密通事件をこめる。「これ竹の」は「こ」を導く序詞。「ふし」は「竹」の縁語。「こ(此)」に「子」をかける。「いまさらになに生ひいづらむ竹の子の憂き節しげきよとは知らずや」(古今・雑下 躬恒)。

朗読・解説:左大臣光永

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