【鈴虫 05】秋、野に虫を放つ 女三の宮、源氏の好色に閉口
秋ごろ、西の渡殿《わたどの》の前、中の塀《へい》の東《ひむがし》の際《きは》を、おしなべて野に造らせたまへり。閼伽《あか》の棚などして、その方《かた》にしなさせたまへる御しつらひなど、いとなまめきたり。御|弟子《でし》に慕ひきこえたる尼ども、御|乳母《めのと》、古人《ふるびと》どもはさるものにて、若きさかりのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべきかぎりは、選《え》りてなんなさせたまひける。さる競《きほ》ひには、我も我もときしろひけれど、大殿《おとど》の君聞こしめして、「あるまじきことなり。心ならぬ人すこしもまじりぬれば、かたへの人苦しう、あはあはしき聞こえ出で来るわざなり」と、諌《いさ》めたまひて、十|余《よ》人ばかりのほどぞかたち異《こと》にてはさぶらふ。
この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に渡りたまひつつ、虫の音《ね》を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、例の御心はあるまじきことにこそはあなれと、ひとへにむつかしきことに思ひきこえたまへり。人目にこそ変ることなくもてなしたまひしか、内にはうきを知りたまふ気色しるく、こよなう変りにし御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひなりたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに、なほかやうになど聞こえたまふぞ苦しうて、人離れたらむ御住まひにもがなと思しなれど、およすけてえさも強《し》ひ申したまはず。
現代語訳
秋ごろ、寝殿と西の対との間に渡した渡殿の前の、間を仕切ってある塀の東側を、一面に野原のようにお造りかえになった。閼伽棚などをもうけて、仏道修行向きに模様替えをなさったことなど、まことに優美である。御弟子となって宮(女三の宮)の後を慕って出家を願った尼たちは、御乳母や古参の女房たちはともかく、若い盛りの女房たちでも、覚悟が決まり、仏道修行に専念してこの世を終えられそうな者だけを、よく選んで出家をおさせになるのだった。
女房たちは、こうした競いには、我も我もと先を争ったのだが、大殿の君(源氏)はこのことをお耳にされて、(源氏)「とんでもないことです。不心得な人が少しでも混じっていれば、まわりとっても迷惑で、軽々しい噂が立つことにもなります」と、お諌めになられて、十人少しぐらいが髪を下ろして仕え申し上げている。
この野に多くの虫をお放ちになられて、院(源氏)は、風がすこし涼しくなっていく夕暮れにおいでになっては、虫の音をお聞きになるのにことよせて、今もなお忘れられないお気持ちを、宮(女三の宮)に対して申し上げて、お悩ましになられるので、宮(女三の宮)は、殿(源氏)のいつもの好色心は、出家の身には許されないことだと、ひたすら不快なことに存じ上げていらっしゃった。院(源氏)は、人目にはとくに変わることもないようなお扱いをなさるものの、内心ではあのつらい一件をお知りになったようすがはっきり見て取れて、すっかりお気持ちが変わってしまわれたのだが、そんな院に、宮(女三の宮)は、なんとしても逢いしたくないというお気持ちで、大方はご決心になられてのご出家なのであるから、今ではすっかりご夫婦仲も疎遠になって安心していらしたのに、殿(源氏)が今だにそんな色めいたことをおっしゃることが辛くて、離れた御住まいに移りたいと思うようなっていらっしゃるが、大人ぶって、そう無理に申し上げることは、おできにならない。
語句
■西の渡殿の前 寝殿と西の対との間に渡殿を渡してある。その前面の。 ■中の塀 渡殿の前を塀で間仕切りしているのである。 ■おしなべて 春の風情を作った南の町は出家の身には華やかすぎるので、野原のわびしい風情に作り変えた。 ■閼伽の棚 仏前に供える水や花を置く棚。 ■さる競ひには 主人である女三の宮の後を追って出家すること。 ■きしろひけれど 「きし(軋・競)ろふ」は、競争する。 ■あはあはしき聞こえ 尼にふさわしくない恋愛沙汰など。源氏は柏木と女三の宮との密通事件以来、女三の宮まわりの風紀に厳しくなった。 ■十余人ばかり 五、六十人いる女房の中から仏道に熱心な者を源氏が選んだ。 ■かたち異 尼姿。髪を肩から背のあたりで切り、額髪を目の上までおろす。 ■この野 前に「西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に造らせたまへり」とあった。 ■虫ども 松虫、鈴虫など声のよい虫。 ■思ひ離れぬさま 源氏は今なお女三の宮に執着している。 ■例の御心 源氏の好色心。 ■変わることなくもてなし 前に「御几帳ばかり隔てて、またいとこよなうけ遠く、うとうとしうはあらぬほどに、もてなしきこえてぞおはしける」(【横笛 02】)とあった。 ■内にはうきを知りたまふ 前に「過ぎにし罪ゆるしがたく、なほ口惜しかりける」(【横笛 04】)とあった。 ■もて離れて 夫婦仲が疎遠になって。 ■かやうに 源氏が女三の宮に対して色めいた態度を取ること。 ■人離れたらむ御住まひ 三条宮。