【鈴虫 09】源氏、六条院に帰還 秋好中宮の道心すすむ

昨夜《よべ》はうち忍びてかやすかりし御|歩《あり》き、今朝《けさ》はあらはれたまひて、上達部なども、参りたまへるかぎりはみな御送り仕うまつりたまふ。春宮《とうぐう》の女御の御ありさまのならびなく、斎《いつ》きたてたまへるかひがひしさも、大将のまたいと人にことなる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほこの冷泉院《れせいゐん》を思ひきこえたまふ御心ざしはすぐれて深く、あはれにぞおぼえたまふ。院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御|対面《たいめん》の稀《まれ》にいぶせうのみ思されけるに急がされたまひて、かく心やすきさまにと思しなりけるになん。

中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難《かた》うなりて、ただ人《ひと》の仲のやうに並びおはしますに、いまめかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。何ごとも御心やれるありさまながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行《おこな》ひの御心すすみにたるを、人のゆるしきこえたまふまじきことなれば、功徳《くどく》のことをたてて思し営み、いとど心深う世の中を思しとれるさまになりまさりたまふ。

現代語訳

院(源氏)は、昨夜はお忍びで気軽なお出かけをなさったことが、今朝は知れ渡っておしまいになって、上達部なども、冷泉院へお参りになられた御方々は皆、お送り申し上げなさる。院(源氏)は、東宮の女御(明石の女御)のご様子が並びなく、大事にお育てになられたかいのある頼もしく立派なご様子も、大将(夕霧)がまた、まことに人並みはずれているご様子をも、どちらも素晴らしいとお思いになられるが、やはりこの冷泉院を大切にお思い申し上げる御気持ちはたいそう深く、しみじみと愛しくお思いになっていらっしゃる。院(冷泉院)も、いつも六条院(源氏)にお逢いしたいとおぼしめされ、御対面が稀にしかできないことにひどくご不満を抱いていらしたので、御譲位を急がれて、こうして気楽な身分にというおつもりになられたのである。

中宮(秋好中宮)は、冷泉院が御譲位されてからかえって外出なさることも難しくなり、ふつうの身分の人の仲のようにご夫婦ご一緒でいらっしゃるので、今風に、かえって御在中の昔よりもはなやかに、管弦の御遊びをもなさる。中宮(秋好中宮)は、何事もかなわぬことはないお立場ではいらっしゃるが、ただかの御息所(六条御息所)の御ことをお思いやっては、ご出家したいお気持ちがすすんでいらっしゃるのだが、院(冷泉院)がおゆるし申されるはずもないことなので、追善供養をお営みになって、たいそう心深く、世の無常を、いよいよお悟りになっていらっしゃるご様子である。

語句

■昨夜 冷泉院に皆でお忍びででかけたこと(【鈴虫 07】)。 ■あらはれたまひて 「あらわる」は知れわたる。 ■かひがひしさ 「かひがひし」は頼もしい。しっかりしている。 ■なほこの冷泉院を 冷泉院は源氏の実の子だが、お互いの立場上、そう名乗るわけにはいかない。そのことが源氏は不憫である。また源氏は冷泉院に皇子がいないことも心配である。 ■御対面の稀に 冷泉院は源氏を実の父と知っているが、在位中は気軽に対面することもできず、それが不満だった。 ■急がされたまひて 冷泉院の譲位の理由は皇子がないのに絶望し、「心やすく思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぐさまほしくなむ」(【若菜下 07】)と語られていた。 ■なかなかまかでたまふこともいと難く 冷泉院の在位中、秋好中宮はたびたび六条院に里下がりをして源氏と対面した。冷泉院譲位後はそれも難しくなった。 ■ただ人の仲のやうに 臣下は一夫一妻がふつうというのがこの物語の価値観。 ■功徳の事 六条御息所の追善供養。

朗読・解説:左大臣光永