【夕霧 08】夕霧から落葉の宮への文届く 御息所、返事を代筆
かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、「大将殿より、少将の君にとて御文あり」と言ふぞ、またわびしきや。少将御文は取りつ。御息所、「いかなる御文にか」と、さすがに問ひたまふ。人知れず思し弱る心も添ひて、下《した》に待ちきこえたまひけるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心騒ぎして、「いでその御文、なほ聞こえたまへ。あいなし。人の御名をよざまに言ひなほす人は難きものなり。底に心清う思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。心うつくしきやうに聞こえ通ひたまひて、なほありしままならむこそよからめ。あいなきあまえたるさまなるべし」とて召し寄す。苦しけれど奉りつ。
「あさましき御心のほどを、見たてまつりあらはいてこそ、なかなか心やすくひたぶる心もつきはべりぬべけれ。
せくからにあささぞ見えん山川のながれての名をつつみはてずは
と言葉も多かれど、見もはてたまはず。この御文もけざやかなる気色にもあらで、めざましげに心地よ顔に、今宵《こよひ》つれなきを、いといみじと思す。故督《こかむ》の君の御心ざまの思はずなりし時、いとうしと思ひしかど、おほかたのもてなしは、また並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心地して慰めしだに世には心もゆかざりしを。あないみじや、大殿のわたりに思ひのたまはむこと」と思ひしみたまふ。
なほ、いかがのたまふと気色をだに見むと、心地のかき乱りくるるやうにしたまふ目押ししぼりて、あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ。「頼もしげなくなりにてはべる、とぶらひに渡りたまへるをりにて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ、
女郎花しをるる野辺《のべ》をいづことてひと夜《よ》ばかりの宿をかりけむ」
とただ書きさして、おしひねりて出だしたまひて、臥《ふ》したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。御物の怪《け》のたゆめけるにや、と人々言ひ騒ぐ。例の験《げん》あるかぎりいと騒がしうののしる。宮をば、「なほ渡らせたまひね」と、人々聞こゆれど、御身のうきままに、後れきこえじと思せば、つと添ひたまへり。
現代語訳
あちら(夕霧)からまたお手紙がある。事情を知らない女房が取り入れて、「大将殿から、少将の君にといってお手紙があります」と言うのも、また困ったことではある。少将がお手紙を取った。御息所、「どういうお手紙ですか」と、ご遠慮なさりながら、それでもやはりお尋ねになる。人知れずお気持ちが弱っていることも加わって、大将の訪問を内心待ち受け申し上げていたが、直接のご訪問ではないらしいとお思いになるにつけても、気持ちが騒いで、(御息所)「さあそのお手紙、やはりお返事はお書きなさい。お返事をお書きしないのは不都合です。人の噂をよいほうに言い直す人は滅多にいないものです。心の底では潔白とお思いになっていらしても、そのまま信用してくれる人は少ないでしょう。すなおにお手紙をお交わしになって、やはり以前のままであるのがよいでしょう。かえって返事をしないのも、無用に甘えているような態度となりましょう」とおっしゃって召し寄せる。宮は心苦しかったが差し上げた。
(夕霧)「心外な貴女のお心具合を、はっきり拝見しましてからというもの、かえって今ははばかりなく、貴女への愛情も増し加わるにちがいありません。
せくからに……
(私の気持ちを堰き止めようとするので、それは浅はかな考えだと気づくでしょう。世間に漏れる私たちの恋の浮名は包み隠せるものではないのですから)
と言葉は多いようだが、御息所は最後までご覧にもならない。このお手紙もはっきりしたことを言う様子もなく、心外な、いい気なもので、今宵つれなくもご訪問がないようであることを、御息所はまことにひどいとお思いになる。「故督の君(柏木)のお気持ちが宮から離れていった時、ひどく残念に思ったが、表向きの宮に対する待遇は、ほかに並ぶ人もないものであったので、こちらに力がある気がして心慰めていたものだ。それさえ、まったく気に入らなかったのに。ああひどいこと。大殿(致仕の大臣)のあたりが、どのようにお思いになり、またおっしゃることか」と、思いつめていらっしゃる。
それでもやはり、何とおっしゃるか、せめて様子を見ようと、気分が乱れて涙でくらむようにしていらっしゃる、その御目をしいて細くしぼって、奇妙な、鳥の足跡のような文をお書きになる。(御息所)「私の病も回復の見込みがないようになっておりますので、宮(落葉の宮)がお見舞いにいらしてくださった折でしたから、返事を出すようにおすすめしたのですが、宮はさっぱり気がすすまないようにしていらっしゃるようでしたので、見ていられませんで…
女郎花……
(女郎花(落葉の宮)が(泣き)しおれている野辺(小野の里)を、どこだとお思いになって、貴方は一夜限りの宿を借りたのですか)
とただ途中まで書いて、手紙の両端を捻り折って、御簾の外にお出しになって、横におなりになるとそのまま、とてもひどくお苦しみになる。御物の怪が御息所を油断させたのだろうかと、女房たちは言い騒ぐ。例によって霊験あらたかな僧たちだけが、まことに騒がしくさかんに祈祷する。宮に対しては、「やはりあちらにお移りください」と、人々は申し上げるが、宮はこの悲しい御身のままで御息所に先立たれては、とお思いになって、ぴったりと御息所に寄り添っていらっしゃるのだった。
語句
■心知らぬ人 昨夜の夕霧と落葉の宮の件を知らない女房。 ■大将殿より… 女房への手紙は、ふつうその女主人への手紙であり、取次を頼んでいるのである。御息所はそう受け取る。 ■またわびしきや 作者の感想。 ■御息所… 御息所は夕霧と落葉の宮の間に昨夜実事があったのだと確信している。そうなったからには二人を結婚させるほかないという考えに傾いている。結婚となると、男は三日間通い続けるのが通例である。だから夕霧は今夜も来るかと思っていたら、手紙だけが来た。御息所は考えていたのと違う状況になってきて困惑する。 ■さすがに 前の「いかなりしなども問ひきこえたまはず」を受ける。 ■人知れず思し弱る心 御息所は宮に皇女のとして生涯独身を保たせようと思っていたが、もうこうなった以上は夕霧を婿として迎えて良いという気になってきている。 ■下に待ちきこえたまひける 御息所は内心、夕霧の訪問を待っていた。 ■さもあらぬなめり 本人は訪問せずに手紙だけが届くらしい。 ■なほ聞こえたまへ 返事をしないことは世間体的にまずいという計算がはたらく。 ■なほありしままならむ 御息所は、そのうち夕霧と落葉の宮が自然な流れで結婚に至ることを期待している。 ■あいなきあまえたるさま 返事をしないのは男を焦らしているようで無用な媚態のように見える。かえって返事をしたほうがよいとすすめる。 ■せくからに 「せ《堰》く」「あささ」「ながれ」は「川」の縁語。前の夕霧と落葉の宮の歌の贈答の、「濡れそふ袖の名をくたすべき」「くちにし袖の名やはかくるる」「濡れ衣をかけんとや思ふ」(【夕霧 04】)などと関連する。 ■めざましげに 御息所としては落葉の宮と夕霧の結婚には反対であったが、事ここに至ったからには世間体を保つ形で結婚に持ち込みたい。だが夕霧からの手紙は確信的な内容は何もなく、ただ昨夜の風情を述べただけであった。御息所はそれを読んでいらいらする。 ■おほかたのもてなし 表向きの待遇だけはよくされていたが、宮は柏木の死に目にもあえなかった(【柏木 07】)。 ■こなたに力ある 正妻だからこちらが優勢だと。 ■大殿のわたり 致仕の大臣。大臣の息子である柏木の妻が、柏木死後すぐに大臣の娘婿である夕霧と結婚すれば、大臣は軽蔑するに決まっている。落葉の宮も大臣の反応を気にしていた(【夕霧 04】)。 ■なほ、いかがのたまふ それでもやはり先方の反応が気になるので返事を出すのである。 ■あやしき鳥の跡 古代中国の黄帝の史官・蒼頡(そうけつ)が鳥の足跡を見て文字を発明したという故事(説文解字・序)による。 ■わづらひてなむ 下に「だから私が代筆するのです」の意を補い読む。 ■女郎花 「女郎花」は落葉の宮。「女郎花しをるる野辺」は小野の里。「しをるる」に涙にしおれるの意をかける。「秋の野にかりぞ暮れぬる女郎花今宵ばかりの宿もかさなむ」(古今六帖ニ 貫之)による。 ■おしひねりて 巻いた手紙の両端を捻り折る。いわゆる捻り文。 ■たゆめける 「たゆむ」は油断させる。 ■なほ渡らせたまひね 物の怪が落葉の宮に移るのを防ぐため。 ■