【夕霧 09】夕霧、雲居雁に御息所からの文を奪われる
大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける。今宵《こよひ》たち返りまでたまはむに、事しもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべしなど念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重《ちへ》にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。北の方は、かかる御|歩《あり》きのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬやうにて君達《きむだち》もてあそび紛らはしつつ、わが昼《ひる》の御座《おまし》に臥したまへり。
宵過ぐるほどにそこの御返り持《も》て参れるを、かく例《れい》にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見|解《と》きたまはで、御|殿油《となぶら》近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いととく見つけたまうて、這《は》ひ寄りて、御|背後《うしろ》より取りたまうつ。「あさましう。こはいかにしたまふぞ。あな、けしからず。六条の東《ひむがし》の上《うへ》の御文なり。今朝《けさ》風邪おこりてなやましげにしたまへるを、院の御前《おまへ》にはべりて出でつるほど、またも参《ま》うでずなりぬれば、いとほしさに、今の間《ま》いかにと聞こえたりつるなり。見たまへよ、懸想《けさう》びたる文のさまか。さてもなほなほしの御さまや。年月にそへていたう侮《あなづ》りたまふこそうれたけれ。思はむところをむげに恥ぢたまはぬよ」とうちうめきて、惜しみ顔にもひごじろひたまはねば、さすがにふとも見で、持《も》たまへり。「年月にそふる侮らはしさは、御心ならひなべかめり」とばかり、かくうるはしだちたまへるに憚《はばか》りて、若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑ひて、「そはともかくもあらむ。世の常のことなり。またあらじかし、よろしうなりぬる男《をのこ》の、かくまがふ方《かた》なくひとつ所を守《まも》らへてもの怖《お》ぢしたる鳥のせうやうの物のやうなるは。いかに人笑ふらん。さるかたくなしき者に守られたまふは、御ためにもたけからずや。あまたが中に、なほ際《きは》まさりことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、わが心地もなほ旧《ふ》りがたく、をかしき事もあはれなる筋も絶えざらめ。かく翁《おきな》のなにがし守りけんやうに、おれまどひたれば、いとぞ口惜しき。いづこのはえかあらむ」と、さすがに、この文《ふみ》の気色なくをこつり取らむの心にて、あざむき申したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、「もののはえばえしさ作り出でたまふほど、旧りぬる人苦しや。いといまめかしくなり変れる御気色のすさまじさも、見ならはずなりにける事なれば、いとなむ苦しき。かねてよりならはしたまはで」とかこちたまふも憎くもあらず。「にはかにと思すばかりには何ごとか見ゆらむ。いとうたてある御心の隈《くま》かな。よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをばゆるさぬぞかし。なほかの緑の袖のなごり、侮らはしきにことつけて、もてなしたてまつらむと思ふやうあるにや、いろいろ聞きにくき事どもほのめくめり。あいなき人の御ためにも、いとほしう」などのたまへど、つひにあるべき事と思せば、ことにあらがはず。
大輔《たいふ》の乳母《めのと》いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめてもあさり取らで、つれなく大殿籠《おほとのごも》りぬれば、胸はしりて、いかで取りてしがなと、御息所の御文なめり、何ごとありつらむと、目もあはず思ひ臥したまへり。女君の寝たまへるに、昨夜《よべ》の御座《おまし》の下など、さりげなくて探《さぐ》りたまへどなし。隠したまへらむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起きたまはず。女君は、君達《きむだち》におどろかされて、ゐざり出でたまふにぞ、我も今起きたまふやうにてよろづにうかがひたまへど、え見つけたまはず。女は、かく求めむとも思ひたまへらぬをぞ、げに懸想《けさう》なき御文なりけりと心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛《ひひな》つくり拾ひ据《す》ゑて遊びたまふ、文読み手習《てならひ》など、さまざまにいとあわたたし、小さき児《ちご》這ひかかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず、男《をとこ》は他事《ことごと》もおぼえたまはず、かしこにとく聞こえんと思すに、昨夜《よべ》の御文のさまもえ確かに見ずなりにしかば、見ぬさまならむも、散らしてけると推《お》しはかりたまふべしなど思ひ乱れたまふ。
現代語訳
大将殿(夕霧)は、この日の昼ごろ、三条殿にお帰りになった。今宵引き返して小野の里に参られると、いかにも事があったようで、時期尚早で、人聞きも悪かろうと我慢なさって、実にかえって長年お会いできなかった心もとなさよりも、千重の物思いを重ねて、お嘆きになる。北の方(雲居雁)は、男君(夕霧)のこうしたお忍び歩きの様子をそれとなく耳にして、おもしろくない気持ちになっていらしたが、そしらぬふりで君達をあやして紛らわしながら、ご自分の昼の御座に横になっていらっしゃった。
宵を過ぎたころにこのご返事を持って参ったのを、このように普段とちがう鳥の跡のようであるので、大将殿(夕霧)はすぐにはおわかりにならず、御灯を近く取り寄せてご覧になる。女君(雲居雁)は、物を隔てているようではあったが、実にすばやくお見つけになって、そっと近づいて、後から取ってしまわれた。(夕霧)「呆れたものですね。まったくけしからぬことです。六条の東の上(花散里)からのお手紙です。今朝風邪にかかってご気分を悪くしていらっしゃったが、六条院(源氏)の御前に控えていて出てきてしまったから、もう一度おうかがいできずじまいになってしまったから、おいたわしさに、今はお加減はいかがですかと申し上げたのです。ご覧なさい、これが懸想文めいた書きようですか。なんとも下品なことをなさるものです。年月を過ごすにつれて、貴女が私をひどくないがしろになさるようになられたことが情けないです。私にどう思われても、まるでお恥じらいにならないのですからね」とうめき声をあげて、手紙が惜しいというふうに無理に引っ張りもなさらないので、女君(雲居雁)は、手紙を奪ったとはいえ、ちらりとも見ずに、持っていらした。(雲居雁)「年月の重なるにつれてないがしろにするのは、貴方のほうのお心癖でしょうよ」とだけ、男君(夕霧)がこのように泰然としていらっしゃるので気が引けて、子供っぽく、かわいらしくおっしゃるので、男君(夕霧)は笑って、(夕霧)「それはどうとでも言えることでしょう。夫婦の間には常のことです。それにしても他には例がないでしょうよ。私のような、相当の地位に上っている男が、こうして浮気もせずに一人の妻を守って、物怖じしている雄鷹のようにしているのは。どれほど人は笑うでしょう。そうした堅物な男に守られていらっしゃるのは、貴女ご自身のためにも名誉なことではありませんよ。多くの妻がいる中で、それでもやはり格別に際立ったちがいが見えているのこそ、よそのおぼえも奥ゆかしくなり、自分自身としてもいつまでも若々しく、世の中の面白い事も風情ある面も絶えることがないでしょう。こうして翁が誰やらを守っていいつまでも貴女一人を守って愚かしく迷っているのですから、ひどく残念なことです。貴女だって、それではどこに見映えがあるというのでしょう」と、男君(夕霧)はそうはいってもやはり、この手紙をそれとなくだまし取ろうという気持ちで、あざむき申し上げなさると、女君は、とても美しげに笑って、(雲居雁)「貴方が見映えするようなさまをお作り出しなさるほど、古臭い私は苦しくなることですよ。とても今風に華やかになり変わったご様子も興ざめですが、今までそんなお姿を見慣れていないことですから、ひどく心苦しいです。前々からそんなふうではいらっしゃらなかったのですから」とあてつけなさるのも、憎たらしいかんじではない。(夕霧)「急にこうなった、とお思いになるような何事を貴女にお見せしたのでしょう。ひどく情けないご心底です。よからぬように貴女のお耳に入れる人があるようですね。その者は、妙なことに、もともと私を許さないのです。今もなおあの「緑の袖」の事を根に持って、私をないがしろにする口実をさがして、貴女を私から引き離そうと思ってでもいるのでしょうか、いろいろと聞きにくいことをほのめかすようです。何のかかわりもないお方(落葉の宮)の御ためにも、お気の毒なことで」などとおっしゃるが、最終的にはそうなるものと内心ではお思いになるので、そう強くは言い争わない。
大輔の乳母は、これを聞いてひどく気に病んで、何も申し上げない。あれこれ言い合ったあげく、女君(雲居雁)はこのお手紙は隠してしまわれたので、男君(夕霧)は、無理にさがして取ることもなさらず、何気ないふりでお休みになったので、気持ちがかきたてられて、どうやって取り返したものかと、御息所のお手紙だろう、何事があったのだろうと、目が冴えて思い悩んで横になっていらした。女君(雲居雁)が寝ていらっしゃるので、昨夜おいでになった褥の下などを、それとなくお探しになるが、ない。お隠しになるような時間もなかったのにと、ひどく気がかりで、夜が明けたがすぐにはお起きにならない。女君が、御子たちに目をさまされて、いざり出てこられたので、男君(夕霧)は、ご自分も今起きたふうをよそおって八方、お探しになるが、お見つけになるることができない。女(雲居雁)は、こうして男君が手紙を求めようともなさらないのを、やはり懸想文などではなかったのだと、気にもかけなくなっていて、御子たちが騒がしく遊び合って、着せ替え人形に着物を着せたり手に取って立たせたりして遊んでいらっしゃったり、本を読んだり手習いしたりなど、さまざまにひどくあわただしく、小さい幼子が女君に這いかかって、着衣を引っ張るので、取り上げた手紙のこともお思い出しにならない。男(夕霧)はほかの事をお考えにもならず、あちら(小野の里)にはやくお返事申し上げたいとお思いになるが、昨夜のお手紙の文面もはっきりとは見ずじまいだったので、見たふりをしてお返事するのも、あちらでは、無くしたのだろうとご推察なさるにちがいなどと、思い乱れていらっしゃる。
語句
■三条殿に 夕霧は小野の里から六条院を経て三条殿にもどった。 ■今宵たち返り 昨夜につづけて今夜も訪問すれば、昨夜落葉の宮との間に実事があっただろうと思われる。それを夕霧は危惧するので、今夜も小野の里に参りたいのは山々ながら、がまんする。 ■まで 参で。 ■千重に 「心には千重に思へど人に言はぬ我が恋妻を見むよしもがも」(万葉2371。古今六帖四では第五句「がな」)。 ■君達もてあそび紛らはしつつ 子供の世話で不愉快を紛らわす。 ■この御返り 御息所の代筆した手紙(【夕霧 08】)。 ■かく例にもあらぬ鳥の跡 「あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ」とあった。 ■とみにも見解きたまはで 夕霧は手紙をすぐには判読できない。 ■もの隔てたるやう 几帳などを隔てている。 ■這ひよりて 貴婦人にあるまじき下品な所作。 ■六条の東の上の… 花散里の文だといってごまかす。こういうとっさの言い訳がよく出てくることは父親ゆずり。 ■風邪 現在の風邪をいうか。 ■懸想びたる文のさまか 御息所の文は「あやしき鳥の跡のやう」なので、懸想文ではないといってごまかすのに好都合。 ■なほなほし 本来の意は平凡である。ありきたりである。ここでは、平凡な身分の者のような、下品な所作であるといっている。 ■いたう侮りたまふ 前も夕霧が雲居雁の態度を「いとかう押し立ちておごりならひたまへる」(【横笛 06】)と思っていた。 ■うたてけれ 「うたてし」は情けない。嘆かわしい。 ■むげに まるで。全然。 ■惜しみ顔にも… 御息所の手紙は雲居雁が見ても判読できないだろうと夕霧は安心している。 ■ひこじろひ 「ひこじろふ」は無理にひっぱる。 ■さすがにふとも見で 雲居雁は自分の下品な所作を反省する。 ■年月にそふる侮らはしさ 貴女(雲居雁)が私(夕霧)をないがしろにするようになったというのは言いがかりで、実際は夕霧のほうが自分(雲居雁)をないがしろにしているという主張。 ■うるはしだちたまへる 泰然とした態度。 ■それはともかくもあらむ 「年月にそふる侮らはしさ」はどちらが悪いといっても仕方ない。 ■世の常のことなり 夫婦の間でこのような口論は。 ■またあらじかし 倒置法。下の「やうなるは」からつながる。 ■せうやうの物 雄の鷹。雌より体が小さくおびえている。恐妻家のたとえとして言った。実際に夕霧が恐妻家なわけではなく雲居雁を持ち上げて、おだてているのだろう。 ■あまたが中に たくさんの愛妾たちの中で一番に君臨しているのが輝かしいという理屈。 ■翁のなにがし守りけんやうに 典拠未詳。竹取の翁がかぐや姫を大切に育てた例か。『韓非子』の、たまたま兎が切り株にぶつかって首を折ったので、その切り株を守りふたたび同じ偶然が起こることを期待した宋人の例か。 ■この文の 「この文を」と同意。 ■をこつり取らむ 「をこつる」は騙す。欺く。 ■あざむき申し 夕霧は自分の情けなさを卑下するふうを装って、その実、雲居雁の機嫌を取りおだてる意図がある。素直で純真な雲居雁はそれにまんまと騙される。 ■旧りぬる人 雲居雁のこと。 ■かねてよりならはしたまはで 「かねてよりつらさは我に馴らはさでにはかに物を思はするかな」(源氏釈)。 ■にはかにと思すばかり… 雲居雁が「かねてより」の歌を引用したのを受けて、同じ歌を引用しながら弁解する。 ■もの聞こえする人 雲居雁の女房大輔の乳母。 ■緑の袖のなごり 夕霧が六位の官人であったとき、大輔の乳母が「もののはじめの六位宿世よ」(【少女 21】)とさげずんだこと。夕霧はこの言葉を根に持ってなにかにつけて思い出す(【螢 11】・【藤裏葉 13】)。 ■もてなしたてまつらむ 雲居雁を夕霧から引き離そうとして画策している、の意。実際は大輔の乳母にべつだんそういう動きは見えない。 ■つひにあるべき事 夕霧は最終的には落葉の宮と結婚するつもりでいる。 ■つれなく大殿籠りぬれば 夕霧はと取ったが、雲居雁はとも取れる。 ■胸はしりて 「人に逢はむつきのなき夜は思ひおきて胸走り火に心焼けをり」(古今・雑躰・俳諧歌 小町)。 ■取りてしがなと 下の「思ひ臥したまへり」につづく。 ■目もあはず 目が冴えて眠れない状態。 ■ゐざり出でたまふ 御帳台から。雲居雁は子供たちの囲まれて寝ている(【横笛 06】)。 ■かく求めむとも思ひたまへられぬ 夕霧は内心手紙が気にかかりながら、雲居雁の手前、平静をよそおっている。雲居雁は素直にそれを信じる。 ■げに 昨夜の夕霧の弁明のとおり。 ■雛つくり 着せ替え人形に衣を着せる。 ■引きしろへば 「引きしろふ」は、幼子が雲居雁の着衣を引っ張る。