【夕霧 30】夕霧、雲居雁の嫉妬をなだめる

日たけて、殿《との》には渡りたまへり。入りたまふより、若君たちすぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊びたまふ。女君は、帳《ちやう》の内に臥《ふ》したまへり。入りたまへれど目も見あはせたまはず。つらきにこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚《はばか》り顔にももてなしたまはず、御|衣《ぞ》を引きやりたまへれば、「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなりはてなむとて」とのたまふ。「御心こそ鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、えうとみはつまじ」と、何心もなう言ひなしたまふも心やましうて、「めでたきさまになまめいたまへらむあたりにあり経《ふ》べき身にもあらねば、いづちもいづちも失《う》せなむとす。なほかくだにな思し出でそ。あいなく年ごろを経《へ》けるだに、悔《くや》しきものを」とて、起《お》き上《あが》りたまへるさまは、いみじう愛敬《あいぎやう》づきて、にほひやかにうち赤みたまへる顔いとをかしげなり。「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は、恐ろしくもあらずなりにたれ。神々《かうがう》しき気《け》を添へばや」と、戯《たはぶ》れに言ひなしたまへど、「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まうも死なむ。見れば憎し、聞けば愛敬《あいぎやう》なし、見棄てて死なむはうしろめたし」とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなどか聞きたまはざらむ。さても契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうちつづくべかなる冥途《よみぢ》の急ぎは、さこそは契りきこえしか」と、いとつれなく言ひて、何くれとこしらへきこえ慰めたまへば、いと若やかに心うつくしうらうたき心、はた、おはする人なれば、なほざり言《ごと》とは見たまひながら、おのづから和《なご》みつつものしたまふを、いとあはれと思すものから、心は空にて、「かれも、いとわが心をたてて強うものものしき人のけはひには見えたまはねど、もしなほ本意《ほい》ならぬことにて尼になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」と思ふに、しばしはと絶えおくまじうあわたたしき心地して、暮れゆくままに、今日も御返りだになきよと思して、心にかかりていみじうながめをしたまふ。

昨日今日《きのふけふ》つゆもまゐらざりけるもの、いささかまゐりなどしておはす。「昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣《おとど》のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴《し》れがましき名をとりしかど、たへがたきを念じて、ここかしこすすみ気色ばみしあたりをあまた聞き過ぐししありさまは、女だにさしもあらじとなむ人ももどきし。今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけり、と思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し棄つまじき人々いとところせきまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや、命こそ定めなき世なれ」とて、うち泣きたまふこともあり。女も、昔のことを思ひ出でたまふに、あはれにもあり難かりし御仲のさすがに契り深かりけるかな、と思ひ出でたまふ。なよびたる御|衣《ぞ》ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねてたきしめたまひ、めでたうつくろひ化粧《けさう》じて出でたまふを灯影《ほかげ》に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣《ひとへ》の袖を引き寄せたまひて、

「なるる身をうらむるよりは松島のあまの衣《ころも》にたちやかへまし

なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」と、独り言にのたまふを立ちとまりて、「さも心憂き御心かな。

松島のあまの濡れぎぬなれぬとてぬぎかへつてふ名をたためやは」

うち急ぎて、いとなほなほしや。

現代語訳

大将(夕霧)は、日が高くなってから、自邸にお帰りになった。お入りになるとすぐに、次々と若君たちが可愛らしい姿で、大将にまつわりついてお遊びになる。女君(雲居雁)は、御帳台の中に横になっていらした。大将がお入りなっても目もお見合わせにならない。恨んでいるのだろう、それも道理であるとお思いになるが、遠慮しているふうにおふるまいにもならず、女君のお召し物を引きのけなさったので、(雲居雁)「私が誰だからといって、貴方はここにいらっしゃるのですか。私はもう死んでしまいました。いつも私のことを鬼とおっしゃるので、どうせそう言われるなら本当にそうなってしまおうと」とおっしゃる。(夕霧)「御心こそ鬼よりもずっと恐ろしくていらっしゃるが、見てくれはそう恐ろしげでもないので、私は見捨てるわけにもいかないでしょう」と、何気ないふうにわざとおっしゃるのも気に入らないので、(雲居雁)「華やかなご様子で優美でいらっしゃるおそばに、長く身を置いておけるわが身でもございませんので、どこへなりともいなくなってしまいたいのです。それでもやはりせめてそのようには私のことをお思い出さないでくださいまし。無為に長い年月を過ごしてきたことさえ、悔やまれるのですから」といって、帳台から起き上りになったさまは、とても魅力的で、美しげに赤らんでいらっしゃる顔はまことに美しく見える。(夕霧)「そんなふうに子供っぽく腹を立てていらっしゃるから、私は見慣れてしまって、この鬼が、今は、恐ろしくもないと思うようになってしまいましたよ。もっと恐ろしい気配をお加えになりませんと」と、冗談事として言いつくろいなさるが、(雲居雁)「何という事を言うのですか。おとなしく死んでおしまいなさい。私も死にましょう。貴方のことは、見れば憎いし、声を聞けば愛想が尽きるし、かといって見捨てて死ぬのも気がかりだし」とおっしゃるので、まことに可愛らしいようすばかりがまさるので、男君(夕霧)は、こまやかに笑って、(夕霧)「私のことを近くでご覧にはならないでしょうが、噂に聞くことはおありでしょう。そうやって契りの深い私たちの関係をわからせようというお心なのですね。死んだ後を追いかけて急いで冥土の旅にでるとおっしゃるのは、それは私のほうでお約束申し上げたことですよ」と、実にそっけなく言って、あれこれなだめ申し上げて、ご機嫌をお取りになるので、女君は、まことに子供っぽく純真で可愛らしい一方でいらっしゃる人なので、いい加減な言葉とはお思いになりながら、自然とご機嫌がよくなっていらっしゃるのを、男君は、実にいじらしいとはお思いになるのだが、上の空で、「あの方(落葉の宮)も、まことに自分の心を貫いて強く気丈なお人柄とはお見えにはならないが、もしそれでもやはり、私との結婚が不本意だからと尼になろうなどともお思いになるなら、愚かしいことにもなるだろうよ」と心配なので、しばらくは途絶えることなく通うことにしようと、慌ただしいお気持ちで、日が暮れゆくにつれて、今日もご返事さえなかったことよと残念にお思いになって、気になって、たいそう物思いに沈んでいらっしゃる。

北の方(雲居雁)は、昨日今日と、ほどんど召し上がらなかったお食事も、ほんの少しお召し上がりなどなさっている。(夕霧)「昔から、貴女(雲居雁)の御ために、愛情がなみなみでなかったことを、大臣(致仕の大臣)が手厳しくお扱いになったので、世間の噂に馬鹿にされたものだが、その耐え難い屈辱を我慢して、あちこちから私に結婚をすすめるようなことをほのめかしてきたのも、数多く聞き流してきたようすは、女でさえもそこまで一途ではなかろうと、人も非難したことでした。今思うにも、どうしてそこまで一途にと、われながら、官位の低かった昔でさえ、そこまで慎重だったのだ、と思い知られるのだが、今は、こうして女君(雲居雁)が私をお憎みになるといっても、お見捨てするわけもない人々(子供たち)がまことに所狭きまで数が増えているようなので、ご自身のお心ひとつでどこかへ行ってしまうはずもない。そして、ご覧になるとよい。命こそ永遠でないといっても、私の愛情は永遠であることを」といって、お泣き出しになったりなさる。女(雲居雁)も、昔のことをお思い出されるにつけ、しみじみと滅多にない相愛の夫婦仲で、たとえ今は険悪になっているとはいえ、前世からの約束が深かったものだな、とお思い出される。大将(夕霧)は、糊のとけたお召し物をお脱ぎになって、趣向も格別なお召し物を何枚も重ねて香をお焚きしめになり、美しく身づくろいして、化粧をしてご出発なさるのを、女君は部屋内から灯影のもとでお見送りになると、我慢できず涙が出てきたので、脱ぎ残っていた単衣の袖をお引き寄せになり、

(雲居雁)「なるる身を……

(着慣れた衣のように貴方に飽きられてしまったわが身を恨むより、むしろ尼衣に着替えたい)

やはり出家しなくては、生きていけそうにないわ」と、独り言におっしゃるのを、男君は立ち止まって、(夕霧)「それはたいそう憂鬱な御心ですね。

松島の……

(私に飽きたからといって、私を見捨てて尼になったという評判が立ったらまずいでしょうに)

急いでいたので、まったく面白みのない歌であった。

語句

■殿 三条殿。夕霧の自邸。 ■すぎすぎ 次々と。 ■入りたまへど 夕霧が雲居雁のいる帳台の中へ。 ■目も見あはせたまはず 雲居雁は昨夜一睡もせず夕霧の帰りを待っていたのであろう。たいへん立腹している。 ■つらきにこそあれ 夕霧は雲居雁が自分を恨んでいることはわかるが、だからといって今更態度を軟化させて落葉の宮を諦めるわけにはいかない。ここはごり押しする覚悟。 ■御衣を引きやりたまへれば 帰ってすぐ雲居雁を抱こうとする。 ■いづことて 私は貴方が夢中になっている落葉の宮ではないという皮肉。 ■早う死にき 貴婦人にあるまじき極端な物言い。 ■心やましうて 雲居雁は本気で立腹しているのに夕霧は冗談で切り抜けようとする。雲居雁はますます立腹する。 ■めでたきさまになまめいたまへらむあたりに… 夕霧と落葉の宮の関係についての皮肉。■なほかくだにな思し出でそ 「さまは憎げもなければ…」を受ける。 ■年ごろを経ける 結婚して十余年経過。 ■起き上りたまへる 雲居雁を抱こうとする夕霧の手をふりはらって起きる。 ■にほひやかに 興奮して顔が赤らんでいる。 ■何ごと言ふぞ 敬語がなくなっていることに注目。 ■近くてこそ見たまはざらめ… 「見れば憎し、聞けば愛敬なし」を受ける。 ■さても契り深かなる… 「おいらかに死にたまひね。まろも死なむ」を受ける。「深し」の縁で「瀬」という。死んでもあの世で一緒になるほどの私たちの深い夫婦仲だと貴女は言いたいのですねと、夕霧は都合のよい解釈をする。 ■しばしはと絶えおくまじう 新婚と人には見せている手前もあり、しばらくは毎晩一条宮に通うことにする。 ■昨日今日つゆもまゐらざりける 雲居雁は腹が立って食事どころではなかった。 ■世の中の痴れがましき名をとりしかど 夕霧がいつまでも雲居雁を諦めないので「まめ人」の名を取った(【真木柱 27】)。 ■ここかしこすすみ… 右大臣や中務宮が夕霧に娘を嫁がせたいと申し出た件(【梅枝 11】)。 ■思し棄つまじき人々 子供たち。 ■御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず 雲居雁が「いづちもいづちも失せなむとす」といったのを受ける。 ■命こそ定めなき世 人の命は不定だが私の愛情は不変だの意か。 ■さすがに いくら最近は険悪になっているといっても。 ■なよびたる御衣 糊けが抜けてよれよれになった衣。 ■心ことなる 格別の趣向の。 ■なるる身を… 「なるる」は着慣れたの意に夫に飽きられたの意を、「うらむる」の「うら」に着物の「裏」と海の「浦」をかける。「松島のあま」は「浦」の縁語。「あま」は「海人」と「尼」をかける。「尼の衣」と「裁つ」は縁語。松島は歌枕。宮城県宮城郡松島町、塩釜市一帯の海。 ■うち急ぎて 草子文。作者のコメント。

朗読・解説:左大臣光永