【幻 02】源氏、紫の上を苦しめたことを悔いる

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女房なども、年ごろ経にけるは、墨染《すみぞめ》の色こまやかにて着つつ、悲しさも改めがたく思ひさますべき世なく恋ひきこゆるに、絶えて御|方々《かたがた》にも渡りたまはず、紛《まぎ》れなく見たてまつるを慰めにて、馴《な》れ仕うまつる。年ごろ、まめやかに御心とどめてなどはあらざりしかど、時々は見放たぬやうに思したりつる人人も、なかなか、かかるさびしき御独り寝になりては、いとおほぞうにもてなしたまひて、夜の御|宿直《とのゐ》などにも、これかれとあまたを、御座《おまし》のあたりひき避《さ》けつつ、さぶらはせたまふ。

つれづれなるままに、いにしへの物語などしたまふをりをりもあり。なごりなき御|聖心《ひじりごころ》の深くなりゆくにつけても、さしもありはつまじかりける事につけつつ、中ごろもの恨めしう思したる気色の時々見えたまひしなどを思し出づるに、などて、たはぶれにても、またまめやかに心苦しきことにつけても、さやうなる心を見えたてまつりけん、何ごとにもらうらうじくおはせし御心ばへなりしかば、人の深き心もいとよう見知りたまひながら、怨《ゑん》じはてたまふことはなかりしかど、一《ひと》わたりづつは、いかならむとすらん、と思したりしに、すこしにても心を乱りたまひけむことのいとほしう悔《くや》しうおぼえたまふさま、胸よりもあまる心地したまふ。そのをりの事の心をも知り、今も近う仕うまつる人々は、ほのぼの聞こえ出づるもあり。

入道の宮の渡りはじめたまへりしほど、そのをりはしも、色にはさらに出だしたまはざりしかど、事にふれつつ、あぢきなのわざや、と思ひたまへりし気色のあはれなりし中にも、雪降りたりし暁《あかつき》に立ちやすらひて、わが身も冷え入るやうにおぼえて、空のけしきはげしかりしに、いとなつかしうおいらかなるものから、袖のいたう泣き濡《ぬ》らしたまへりけるをひき隠し、せめて紛らはしたまへりしほどの用意などを、夜《よ》もすがら、夢にても、またはいかならむ世にか、と思しつづけらる。曙《あけぼの》にしも、曹司《ざうし》に下《お》るる女房なるべし、「いみじうも積もりにける雪かな」と言ふ声を聞きつけたまへる、ただそのをりの心地するに、御かたはらのさびしきも、いふ方《かた》なく悲し。

うき世にはゆき消えなんと思ひつつ思ひの外《ほか》になほぞほどふる

現代語訳

女房なども、長年お仕え申し上げてきた者は、墨染の色を濃くした喪服を着ては、悲しさも変わることなく、気持ちを落ち着かせることのできる時がないように、上(紫の上)をずっと恋したい申し上げている。そんな中、院は、いっこうに御方々のもとへもお出ましにならず、女房たちは、他に紛れることなく院を拝見できることを慰めにして、常に近くでお仕え申し上げる。長年、本気でご執心などというわけではないにしろ、時々は捨て置けぬ者としてお思いになった女房たちも、かえって、こうした寂しい御独り寝になっては、ひどくなおざりにお取り扱いになって、夜の御宿直などにも、あの者この者と多くの女房を、御帳台から遠ざけたところに、控えさせなさっている。

所在のなさにまかせて、昔の話などをなさることもよくある。昔とうって変わって御道心が深くなってゆかれるにつけても、そういつまでも続くはずもない一時的な恋愛沙汰が起こるたびに、上(紫の上)がご生前、なんとなく恨めしくお思いになっていらっしゃる様子が時々お見えになったことなどを思い出されるにつけ、「どうして、一時的な浮気にしても、また真剣な心苦しい恋愛沙汰につけても、そのような浮気心を上(紫の上)に御覧に入れたのだろうか。上(紫の上)は、何事にもよくわきまえていらっしゃるご気性であったので、人の深い心も実によく見知りながら、いつまでも恨みに思われることはなかったものの、毎回一通りには『どうなってしまうのだろうか』とお思いになって、多少なりとも心をお悩ましになられたことであろう」と、その事を気の毒に思い後悔していらっしゃる様子は、思いが胸にあふれるお気持ちにおなりになる。その折の事情をも知り、今も近くにお仕え申し上げている女房たちは、その折の紫の上のことを、それとなくお話し申し上げる者もある。

入道の宮(女三の宮)が六条院にはじめておいでになった時、その折は、嫉妬のそぶりもお出しにならなかったが、何かのたびごとに、つまらないことだ、とお思いになっていらした様子がお気の毒であった中にも、院(源氏)が雪の降っていた暁に出発しあぐねて、わが身も冷え入るように思って、空模様が荒れていた朝、上(紫の上)が、とても魅力的におおらかに、袖をひどく泣き濡らしていらっしゃったのをひき隠して、無理に紛らわせなさった時の奥ゆかしさなどを、院(源氏)は、一晩中、夢の中でも、またはどのような世で再びお逢いすることができようかと、お思いつづけられる。明け方に、局に下る女房であろう、「たいそう雪が積もりましたこと」と言う声をお聞きつけになるにつけ、まさにあの折の気持ちがするので、御側に誰もいらっしゃらないことの寂しさも、言いようもなく悲しい。

(源氏)うき世には……

(つらいことばかりのこの世では、雪が消えてなくなってしまうように、出家してしまおうと思いつつ、その雪が思いの外ふるように、なおも俗世での時間だけが過ぎていく)

語句

■女房 紫の上つきの女房。 ■年ごろ経にけるは 普通の女房は新春には新しい衣に着替えているが長く仕えてきた女房はまだ喪服のままである。主人を失った悲しみのふかさがうかがえる。 ■御方々 明石の君や花散里。 ■紛れなく見たてまつる 源氏が御方々のもとへ行かず、女房たちと常にいるから、いつも源氏を見ることができて、それが女房たちにとって慰めであると。 ■時々は見放たぬやうに思したりつる人 源氏が女房の中の誰それに大して、一時的にせよ男女の関係を持ったもの。 ■なかなか 紫の上が亡くなった今、かつての遊び相手であった女房を相手にしそうなものだが、そうもしない。 ■おほぞうに なおざりに。いい加減に。通りいっぺんに。 ■夜の御宿直 女房たちは交代で主人の寝室に宿直する。 ■御座 源氏の寝る場所。 ■なごりなき御聖心 昔の好色であった源氏とは打って変わって、道心が深まっている。 ■さしもありはつまじかりける事 結局は添い遂げられない関係。一時的な浮気のこと。 ■中ごろ 紫の上の生前。 ■さやうなる心 浮気心。 ■人の深き心もいとよう見知り 紫の上は源氏がどういう気持で浮気をしていたのか、よく見知っていた。 ■怨じはてたまふことはなかりしが 紫の上は嫉妬を理性で抑制していた。徹底的に恨んで関係が破局するようなことはなかったが、内心では辛かったのである。今源氏は、それを思い知る。 ■そのをりの 源氏が浮気して紫の上が嫉妬したその当時のこと。 ■ほのぼの聞こえ出づる 洗いざらいではないが、それとなく当時の紫の上の嫉妬ぶりを源氏に語って聞かせる。 ■渡りはじめたまへりしほど 女三の宮が六条院に輿入れした時、紫の上は嫉妬を理性で抑制していた。しかし内心の絶望は抑えきれなかった(【若菜上 13】)。 ■雪降りたりし暁 女三の宮降嫁三日目の夜明け方のこと(【若菜上 15】)。 ■いかならむ世 今の世ではない次の世か、またその次の世か。 ■曹司 女房が部屋として与えられている一角。局。 ■ただそのをりの心地するに 例の雪の夜そのままの気がするので。 ■うき世には… 「ゆき」は「雪」と「行き」を、「ふる」は「降る」と「経る」をかける。

朗読・解説:左大臣光永


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