【幻 03】源氏、中将の君を相手にわが生涯を思う

例の、紛らはしには、御手水《てうづ》召して行《おこな》ひたまふ。埋《うづ》みたる火おこし出でて御|火桶《ひをけ》まゐらす。中納言の君、中将の君など、御前《おまへ》近くて御物語聞こゆ。「独《ひと》り寝《ね》常よりもさびしかりつる夜のさまかな。かくてもいとよく思ひ澄ましつべかりける世を、はかなくもかかづらひけるかな」と、うちながめたまふ。我さへうち棄ててば、この人々の、いとど嘆きわびんことのあはれにいとほしかるべきなど見わたしたまふ。忍びやかにうち行ひつつ、経など読みたまへる御声を、よろしう思はん事にてだに涙とまるまじきを、まして、袖のしがらみせきあへぬまであはれに、明け暮れ見たてまつる人々の心地、尽きせず思ひきこゆ。

「この世につけては、飽かず思ふべきことをさをさあるまじう、高き身には生まれながら、また人よりことに口惜しき契りにもありけるかな、と思ふこと絶えず。世のはかなくうきを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし。それを強《し》ひて知らぬ顔にながらふれば、かくいまはの夕《ゆふべ》近き末《すゑ》にいみじき事のとぢめを見つるに、宿世《すくせ》のほども、みづからの心の際《きは》も残りなく見はてて心やすきに、今なんつゆの絆《ほだし》ななくなりにたるを、これかれ、かくて、ありしよりけに目馴らす人々の今はとて行き別れんほどこそ、いま一際《ひときは》の心乱れぬべけれ。いとはかなしかし。わろかりける心のほどかな」とて、御目おし拭《のご》ひ隠したまふに紛れずやがてこぼるる御涙を見たてまつる人々、ましてせきとめむ方《かた》なし。さて、うち棄てられたてまつりなんが愁《うれ》はしさをおのおのうち出でまほしけれど、さもえ聞こえず、むせ返りてやみぬ。

かくのみ嘆き明かしたまへる曙《あけぼの》、ながめ暮らしたまへる夕暮などのしめやかなるをりをりは、かのおしなべてには思したらざりし人々を御前《おまへ》近くて、かやうの御物語などをしたまふ。中将の君とてさぶらふは、まだ小さくより見たまひ馴れにしを、いと忍びつつ見たまひ過ぐさずやありけむ。いとかたはらいたきことに思ひて馴れもきこえざりけるを、かく亡せたまひて後《のち》は、その方《かた》にはあらず、人よりことにらうたきものに心とどめ思したりしものを、と思し出づるにつけて、かの御形見の筋をぞあはれと思したる。心ばせ、容貌《かたち》などもめやすくて、うなゐ松におぼえたるけはひ、ただならましよりは、らうらうじと思ほす。

現代語訳

いつもようにご気分を紛らわすために、御手水を召して勤行をなさる。埋み火を掻き起して女房が火桶を差し上げる。中納言の君、中将の君など、御前近くでお話申し上げる。(源氏)「独り寝はいつも寂しいものだが、昨夜は格別であったよ。このような身でもまことによく心を澄まして殊勝にしていることはできたはずなのに、たわいもない世俗のことに、関わり続けてきたことよ」と物思いに沈んでいらっしゃる。

自分までが見捨ててしまったら、この女房たちは、いよいよ嘆き悲しむだろう。それが不憫で気の毒なことだ
」などと、女房たちをお見渡しになる。

女房たちは、院(源氏)が人目を避けて勤行をなさっては、経などお読みになる御声を、そうよいとも思わない事ですらこの状況では涙がとまらないのに、まして源氏が、袖のしがらみで涙をせき止められぬほどしみじみ情け深く、明けても暮れても拝見する女房たちの気持ちは、どこまでも悲しく存じ上げるのである。

「この世においては、不満に思うようなことはめったにないぐらいの、高い身分に生まれながら、また人より格別に不本意な宿命でもあったことよ。そう思うことが絶えないのだ。人生がはかなく、悲しいものであることを知らせるために、仏などが運命をお定めになった身であるに違いない。それを強いて知らないふうを装って俗世に生きながらえてきたので、こうして人生の終わり近くに酷い結果を見たので、運命のほども、私自身の心の限界も、残りなく見届けて安心したので、今はまったく出家をさまたげるものがなくなった。それを、この人あの人、こうして、紫の上の存命中よりもずっと親しくなった女房たちと、今は最期だといって行き別れる時は、今よりももういちだんと、取り乱すに違いない。人生はひどくはかないものであるよ。よくない心の持ちようであるよ」とおっしゃって、御目を拭ってお隠しになる隙間から、それでもごまかすことができず、すぐにこぼれる御涙を拝見する女房たちは、源氏にもまして涙のせきとめようがない。そこで、源氏が出家して自分たちが捨て置かれる悲しさを、おのおの口に出したくはあるのだったが、そうも申し上げることはできず、涙にむせ返って終わりになってしまった。

こんなことばかりで、夜を嘆き明かされる明け方、ぼんやりと物思いにふけってお過ごしになる夕暮れなどのしめやかな折々は、例の、並々でなく目をかけていらっしゃる女房たちを御前近くに侍らせて、こういったお話などをなさる。中将の君といってお仕えしている女房は、まだ小さい頃から見馴れていらしたのを、まことにこっそりと、愛おしんだこともあったのだろう。中将はそれをひどく気詰まりなことに思って源氏と懇ろな仲にはならなかったのだが、こうして紫の上がお亡くなりになって後は、そういう色恋の方面ではなく、「紫の上はこの中将の君を、他の女房たちよりも格別にかわいがって心をかけていらしたのに」、と故人(紫の上)をお思い出されるにつけ、あの人(紫の上)の御形見という意味で、中将の君を、愛しくお思いになる。中将の君は、気性や顔立ちなども無難で、紫の上の形見と思われる様子は、他のなんでもない女房であったとしたらと考えると、そういう人よりは、しっかり洗練されている、と院(源氏)はお思いになる。

語句

■埋みたる火 埋み火。灰にうずめてある炭火。 ■火桶 丸火鉢。 ■中納言の君、中将の君 ともに女房の名。「中納言の君」は葵上の実家左大臣家の元女房。かつての源氏の愛人(【葵 22】)。源氏の須磨下向の直前、語らった(【須磨 02】)が、当人かは不明。中将の君もかつての源氏の愛人(【葵 26】)。源氏の須磨下向の折、紫の上つきの女房となる(【須磨05】)。女三の宮の降嫁のときは紫の上に同情した(【若菜上 14】)。 ■かくても 独り寝の生活をしていても。 ■思し澄ましつべかりける世 人生をまじめに殊勝に過ごすこと。とくに仏道修行の方面を言うのだろう。 ■かかづらひけるかな 俗世と関わりを持ってきたものだ。 ■我さへうち棄ててば 紫の上が死んで、さらに自分まで出家してしまえば。 ■よろしう思はん事にてだに涙とまるまじき ふだんは別段いいとも思わない事でさえも、紫の上の喪中という今の状況では涙がとまらないのに。 ■袖のしがらみ 「涙川落つる水上はやければせきぞかねつる袖のしがらみ」(拾遺・恋四 貫之)によるか。 ■この世につけては 以下の述懐に似た述懐は以前もあった(【若菜下 22】【御法 11】)。 ■契り 前世から定められた運命。 ■いまはの夕近き末 晩年。 ■いみじき事のとぢめ 悲惨な結果。紫の上が死んだこと。 ■みづからの心の際 源氏自身の度量。 ■これかれ 女房たちのこと。 ■ありしより 紫の上の存命中より。 ■いま一際の心乱れぬべけれ 紫の上が亡くなって取り乱した時よりもいっそう取り乱すだろう。 ■いとはかなしかし 人生ははかないものだ、という感慨。 ■かのおしなべてには思したらざりし人々 源氏が情をかけたことがある女房たち。中納言の君、中将の君など。 ■中将の君 前述の女房。 ■まだ小さくより 源氏が小さい時か、中将の君が小さい時か、文意不明瞭。こういう読みづらさはすべて
【絶対に主語を書かない】という作者の頑迷なまでの歪んだ信念による。「はっきりわかりやすく物事を伝える」という観点からいう作者の文章は「0点」である。ああ読みづらいわかりにくい。 ■見たまひ過ぐさず 「見過ぐさず」の敬語。 ■いとかたはらいたきことに 中将の君は源氏からの求愛を、紫の上の手前もあって断ったのだろう。 ■その方にはあらず 色恋の方面ではなく。 ■かの御形見の筋 源氏は中将の君を、紫の上をしのぶための形見と見るのである。 ■うなゐ松 中将の君を紫の上の形見と見ている。馬鬣松。「馬鬣」は馬の鬣のように先をするどく築いた塚。その塚の松を亡き人の形見と見るように中将の君を紫の上の形見と見るの意。

朗読・解説:左大臣光永