【若菜上 14】紫の上、一人寝の夜を悲しむ

三日がほどは、夜|離《が》れなく渡りたまふを、年ごろさもならひたまはぬ心地に、忍ぶれどなほものあはれなり。御|衣《ぞ》どもなど、いよいよたきしめさせたまふものから、うちながめてものしたまふ気色、いみじくらうたげにをかし。「などて、よろづの事ありとも、また人をば並べて見るべきぞ、あだあだしく心弱くなりおきにけるわが怠りに、かかる事も出で来るぞかし、若けれど中納言をばえ思しかけずなりぬめりしを」と、我ながらつらく思しつづけらるるに、涙ぐまれて、「今宵《こよひ》ばかりはことわりとゆるしたまひてんな。これより後《のち》のとだえあらんこそ、身ながらも心づきなかるべけれ。またさりとて、かの院に聞こしめさむことよ」と思ひ乱れたまへる御心の中《うち》苦しげなり。すこしほほ笑《ゑ》みて、「みづからの御心ながらだに、え定めたまふまじかなるを、ましてことわりも何も。いづこにとまるべきにか」と、言ふかひなげにとりなしたまへば、恥づかしうさへおぼえたまひて、頬杖《つらづゑ》をつきたまひて寄り臥したまへれば、硯《すずり》を引き寄せて、

目に近く移ればかはる世の中を行くすゑとほくたのみけるかな

古言《ふること》など書きまぜたまふを、取りて見たまひて、はかなき言《こと》なれど、げに、とことわりにて、

命こそ絶ゆとも絶えめさだめなき世のつねならぬなかの契りを

とみにもえ渡りたまはぬを、「いとかたはらいたきわざかな」とそそのかしきこえたまへば、なよよかにをかしきほどにえならず匂《にほ》ひて渡りたまふを、見出だしたまふもいとただにはあらずかし。

年ごろ、さもやあらむと思ひし事どもも、今はとのみもて離れたまひつつ、さらばかくにこそはと、うちとけゆく末に、ありありて、かく世の聞き耳もなのめならぬ事の出で来《き》ぬるよ、思ひ定むべき世のありさまにもあらざりければ、今より後《のち》もうしろめたくぞ思しなりぬる。さこそつれなく紛《まぎ》らはしたまへど、さぶらふ人々も、「思はずなる世なりや。あまたものしたまふやうなれど、いづ方も、みなこなたの御けはひには方|避《さ》り憚《はばか》るさまにて過ぐしたまへばこそ、事なくなだらかにもあれ、おし立ちてかばかりなるありさまに、消《け》たれてもえ過ぐしたまはじ。またさりとて、はかなき事につけてもやすからぬ事のあらむをりをり、必ずわづらはしき事ども出で来なむかし」など、おのがじしうち語らひ嘆かしげなるを、つゆも見知らぬやうに、いとけはひをかしく物語などしたまひつつ、夜|更《ふ》くるまでおはす。

かう人のただならず言ひ思ひたるも、聞きにくしと思して、「かくこれかれあまたものしたまふめれど、御心にかなひていまめかしくすぐれたる際《きは》にもあらずと、目馴れてさうざうしく思したりつるに、この宮のかく渡りたまへるこそめやすけれ。なほ童心《わはらごころ》の失せぬにやあらむ、我も睦《むつ》びきこえてあらまほしきを、あいなく隔てあるさまに人々やとりなさむとすらむ。等しきほど、劣りざまなど思ふ人にこそ、ただならず耳たつこともおのづから出で来るわざなれ、かたじけなく心苦しき御ことなめれば、いかで心おかれたてまつらじとなむ思ふ」などのたまへば、中務、中将の君などやうの人々目をくはせつつ、「あまりなる御思ひやりかな」など言ふべし。昔は、ただならぬさまに、使ひ馴らしたまひし人どもなれど、年ごろはこの御方にさぶらひて、みな心寄せきこえたるなめり。他《こと》御方々よりも、「いかに思すらむ。もとより思ひ離れたる人々は、なかなか心やすきを」など、おもむけつつとぶらひきこえたまふもあるを、「かく推《お》しはかる人こそなかなか苦しけれ。世の中もいと常なきものを、などてかさのみは思ひ悩まむ」など思す。

あまり久しき宵居《よひゐ》も例ならず、人やとがめむ、と心の鬼に思して入りたまひぬれば、御|衾《ふすま》まゐりぬれど、げにかたはらさびしき夜な夜な経《へ》にけるも、なほただならぬ心地すれど、かの須磨の御別れのをりなどを思し出づれば、「今は、とかけ離れたまひても、ただ同じ世の中《うち》に聞きたてまつらましかば、とわが身までのことはうちおき、あたらしく悲しかりしありさまぞかし、さてその紛れに、我も人も命たへずなりなましかば、言ふかひあらまし世かは」と思しなほす。風うち吹きたる夜のけはひ冷《ひや》やかにて、ふとも寝入られたまはぬを、近くさぶらふ人々あやしとや聞かむと、うちも身じろきたまはぬも、なほいと苦しげなり。夜深《よぶか》き鶏《とり》の声の聞こえたるも、ものあはれなり。

現代語訳

三日の間は、夜の訪問を絶やすことなく女宮のほうにおいでになられるので、上(紫の上)は、長年そのようなことには馴れていらっしゃらない気持ちに、こらえようとしても、やはり何となく悲しく思われる。上(紫の上)は、殿(源氏)の数々のお召し物などに、いっそう念入りに香を焚きしめさせなさりながらも、物思いに沈んでいらっしゃるご様子は、たいそう意地らしげで、心惹かれるものがある。(源氏)「どうして、いろいろの事があったとしても、この人(紫の上)に他の人を並べて見ることができようか。浮気心に心が弱っていた私の気のゆるみから、このような事も起こってしまったのだ。まだ幼いとはいえ朱雀院は中納言を婿としてお考えになることができなかったようではあるが」と、我ながらつらく、お思いつづけていらっしゃると、自然と涙ぐまれて、(源氏)「今夜だけはやむをえない道理だと、お許しくださいましょうね。今後の訪れが途絶えるようなら、わが身ながら愛想を尽かすことでしょうよ。またそうはいっても、あの院(朱雀院)のお耳に入ることが気がかりで」と思い悩んでいらっしゃる御心の中は苦しげである。上(紫の上)は、すこしほほ笑んで、「ご自分の御心でさえ、やむをえない事かどうか定めかねていらっしゃるようですのに、まして私には道理かどうかなどわかりかねます。しまいにはどこに行き着くのでしょうか」と、言っても仕方ないというふうにおあしらいになるので、院(源氏)は、決まりの悪ささえお感じになり、頬杖をおつきになって物に寄りかかって横になられるので、上(紫の上)は、硯を引き寄せて、

(紫の上)目に遠く……

(目のあたり近く変われば変わる貴方との関係でしたのに、それを行く先長いことと頼みにしていたことですよ)

それに古い歌などかき混ぜていらっしゃるのを、殿(源氏)は取って御覧になり、何ということもない言葉ではあるが、まことにそのとおりと、当然にお思いになられて、

(源氏)命こそ……

(命こそ絶えるとしても、この無常の世の中にあっても特別な私たち夫婦の契りは、永遠に絶えることがないのですよ)

殿(源氏)が、すぐには女宮の方にご出発になられないので、(紫の上)「ひどく具合の悪いことですよ」とお促し申しあげなさると、いい具合にゆったりとしたお召し物で、何ともいえない美しさでご出発になられるのを、お見送りになられるにつけても、上(紫の上)のご心中はまことにおだやかでない。

長年の間には、もしかしたらそういうこともあるだろうかと思った事もたびたびあったが、今はもう浮気などということはすっかり離れていらっしゃるので、ならばもう私の立場も安泰だと、安心していたところに、あげくのはて、こうして世間に聞かれてはひどく具合の悪い事が起こってしまうとは。安心していられる夫婦仲ではなかったのだとわかってみれば、今後のことも心配におなりになるのであった。そのように何でもないようにお紛らわしなさっているが、お仕えする女房たちも、「予想外なことが起こる世ですこと。多くの御方が殿のご愛顧を期待していらっしゃるようですが、どなたも、みなこちらの女君(紫の上)のご威勢には一歩譲って遠慮しているようにしてお過ごしになっていらっしゃるからこそ、何事もなく平穏にすんでいるのに、あちら様のあれほど強引なおやりように、黙っておいでになることはありますまい。また、そうかといって、些細なことにつけておもしろくない事が起こる折々は、必ず多くの面倒事が起こってくるでしょう」など、めいめい語り合って悲しそうにしているのを、上(紫の上)は、まったく気づかないように、まことにご機嫌よく、お話などなさりつつ、夜が更けるまで起きていらっしゃる。

上(紫の上)は、このように女房たちが並々でないこととして言ったり思ったりするのも、聞きづらいとお思いになられて、(紫の上)「こうして誰それと御方々がたくさんいらっしゃるようですが、殿の御心にかなうような華やかで優れた身分の方もないと、お見馴れになって物足りないとお思いになっていらしたところに、この宮(女三の宮)がこうしておいでになられたことは結構なことでした。私は今でも童心が抜けないのでしょうか、親しくお付き合いさせていただきたいのですが、こちらが変に隔てを作っているように世間の人々は取り沙汰しようとしているのでしょうか。自分と同じくらいの、もしくは劣った身分だと思う人であれば、心おだやかでなく、耳をそばだてることも自然と出でくるものですが、あちらさまは、畏れ多く、おいたわしいご事情でおありのようですから、どうにかして心安くしてさしあげたいと思います」などとおっしゃると、中務、中将の君などといった女房たちは目配せをしては、「あまりにも過ぎたお心遣いでございますこと」などと言っているようだ。これらの女房たちは、昔は、六条院(源氏)が、並々ならぬほどに、いつもお使いになっていらした人たちであるが、ここ数年はこの御方(紫の上)にお仕えして、みなお味方し申しあげているようだ。

他の御方々からも、「上(紫の上)は、どうお思いでいらっしゃるのでしょうか。はじめから諦めております私どもは、かえって気楽ですが」などと、こちらの気を引きがてらお見舞い申しあげなさる方もあるが、(紫の上)「このように慮る人のほうが、かえって私より辛いのだ。夫婦仲はまことに無常のものであるのだから、どうしてあの御方々のように思い悩んでいられよう」などとお思いになる。

(紫の上)「あまり夜遅くまで起きているのも例にないことで、女房たちが不審がるだろう」と、気がとがめて、寝床にお入りになると、御夜具をお召しにはなられたが、まことに隣に殿がいないことが寂しい夜々を過ごしてきたことから、やはり心穏やかではいられないお気持ちであるが、あの須磨のお別れの折などをお思い出しになられるので、「これが最後と、殿が遠くに行ってしまわれるとしても、ただ同じこの世の中にご無事で生きていらっしゃると、お聞き申しあげることさえできれば、とわが身のことまではさておき、殿の御身を、惜しく、悲しく思ったことだった。もしあの時、あの騒ぎに紛れて、私も殿も命がもたなくなってしまっていれば、今、何のかいもない二人の仲になっていたろうに」とお思いなおしになられる。風が吹いている夜の気配は冷ややかで、すぐには寝つかれずにいらっしゃるのを、近くにお仕えする女房たちが妙に思いはしないかと、身じろぎひとつなさらないのも、やはりひどく苦しげである。真夜中に鶏の声が聞てくるのも、しみじみと胸にせまるものがある。

語句

■三日がほど 婚儀は三日間つづくのがふつう。 ■さもならひたまはぬ 「さ」は源氏が女三の宮のもとで床を共にすること。 ■などて 源氏は女三の宮の幼稚なさまを見て幻滅し、あらためて紫の上のすぐれているのを見出して、後悔する。 ■あだあだしく心弱く 女三の宮を迎えたのは自分の好色心と、朱雀院の願いを断りきれなかった気の弱さからであると見て、反省する。 ■中納言をば 源氏は、夕霧が雲居雁に一筋なようす(【若菜上 04】【同 07】)を見て、女三の宮の婿として朱雀院にすすめることはしなかった。それを今になって後悔している。こんなことなら夕霧をすすめておけばよかったと。 ■今宵ばかりは 婚儀は三日目の夜がもっとも重要だから。 ■さりとて たとえ女三の宮を疎遠にして紫の上と親密にするとしても。 ■みづからの御心ながらだに 貴方自身、女三の宮のもとに出かけるか、ここに留まるか決めかねているのにの意。 ■ことわりも何も 源氏自身さえ定めかねているのに、紫の上としては、道理だともそうでないとも、判断しかねる。 ■目に近く 「秋荻の下葉につけて目に近くよそなる人の心をぞみる」(拾遺・雑秋 貫之に贈る女の詠)。 ■古言 同じ内容の古歌をいくつか一緒に書いたのだろう。 ■命こそ… 「とも…め」は文意の強調。「貴方に裏切られた」という紫の上の歌に対し「そんなことはない。私たちの間は永遠だ」と返す。 ■とみにも渡りたまはぬ 源氏は紫の上が気になりすぐに女三の宮のもとに向かうことができない。 ■いとかたはらいたき 紫の上は、自分が引き止めて遅くなったと人に見られることを警戒する。 ■なよよかに 衣類がやわらかくゆったりしていること。 ■えならず匂ひて 衣に焚きしめた薫りが。前に「御衣どもなど、いよいよたきしめさせたまふものから」とあった。 ■さもやあらむ 源氏が他の女に愛情を移すことがあるのではないか。朝顔の姫君との一件など(【朝顔 02】)。 ■今は 今となっては源氏は他の女に気を向けないの意。 ■さらばかくにこそ 源氏が浮気をやめた今となっては自分(紫の上)の地位は盤石だ、の意。 ■ありありて 結局。あげくのはて。 ■世の聞き耳もなのめならぬ事 女三の宮の降嫁。 ■思い定むべき世のありさま 「世」は源氏と紫の上の仲。 ■おし立ちて 女三の宮側のやりようを言う。 ■つゆも見知らぬやうに 紫の上は女房たちにも内心の動揺を隠そうとする。 ■夜更くるまで 婚礼の最終日なので、自分も起きていて祝っている体裁をとる。 ■あまた 六条院の源氏の愛妾たち。 ■目馴れて 源氏の愛妾は臣下の位の者ばかりで釣り合わないという話が前にあった(【若菜上 05】)。 ■この宮のかく渡りたまへるこそめやすけれ 女三の宮が源氏の正妻となったことは好都合だの意。虚勢も入っていよう。 ■なほ童心の失せぬにやあらむ 若い女三の宮と童心に帰って遊びたいの意。女房たちに対する虚勢。 ■あいなく隔てあるさまに 世評を批判する体で、口さがない女房たちの口を前もってふさぐ。 ■等しきほど… 女三の宮が自分より格上であることを宣言し、張り合おうとする女房たちの口を塞ぐ。 ■かたじけなく心苦しき御こと 「かたじけない」は女三の宮が皇女であること。「心苦しき」は朱雀院が出家に際して後見人のいない女三の宮を源氏に託したことをいう。 ■心おかれたてまつらじ 「心置く」は気兼ねをする。女三の宮が気兼ねをしないように取り計らいましょうの意。 ■中務中将の君 中務と中将の君はかつて源氏の召人であったが、源氏の須磨下向に際し、紫の上に仕えるようになった(【須磨 05】)。 ■言ふべし 「べし」は推量。 ■昔は 源氏の須磨下向以前は。 ■心寄せきこえたる 「心寄す」は味方する。 ■他御方々 紫の上以外の源氏の愛妾たち。明石の御方や花散里。 ■もとより思ひ離れたる人々 もともと源氏からの愛情を受けることを諦めている私どもの意。 ■なかなか苦しけれ 前に「なかなか心やすきを」とあったのに対応。 ■げにかたはらさびしき 前に「なかなか苦しけれ」と言ったのに対応。 ■今は 源氏が須磨に下向した折のこと(【須磨 01】)。 ■聞きたてまつりましかば 下に「うれしからまし」を補い読む。 ■わが身までのことはうちおき 紫の上は須磨に下向する源氏に「惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしかな」と詠んだ(【須磨 10】)。 ■その紛れに 須磨下向当時の、あの騒ぎに紛れての意。 ■風うち吹きたる夜のけしき 紫の上のわびしい心情を暗示。 ■夜深き鶏の声の聞こえたる 紫の上は一晩中眠れなかった。このあたり「嘆きつつ一人寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る」(小倉百人一首五十三番 右大将道綱母)の心がただよう。

朗読・解説:左大臣光永