【紅梅 08】匂宮、宮の御方に執心 真木柱は心すすまず
宮の御方は、もの思し知るほどにねびまさりたまへれば、何ごとも見知り、聞きとどめたまはぬにはあらねど、人に見え、世づきたらむありさまは、さらにと思し離れたり。世の人も、時による心ありてにや、さし向かひたる御方々には、心を尽くしきこえわび、いまめかしきこと多かれど、こなたはよろづにつけ、ものしめやかに引き入りたまへるを、宮は御ふさひの方に聞き伝へたまひて、深う、いかで、と思ほしなりにけり。若君を常にまつはし寄せたまひつつ、忍びやかに御文《おほむふみ》あれど、大納言の君深く心かけきこえたまひて、さも思ひたちてのたまふことあらば、と気色とり、心まうけしたまふを見るに、いとほしう、「ひき違《たが》へて、かう思ひ寄るべうもあらぬ方にしも、なげの言の葉を尽くしたまふ、かひなげなること」と、北の方も思しのたまふ。
はかなき御返りなどもなければ、負けじの御心そひて、思ほしやむべくもあらず。何かは、人の御ありさま、などかは、さても見たてまつらまほしう、生ひ先遠くなどは見えさせたまふになど、北の方思ほしよる時々あれど、いといたう色めきたまうて、通ひたまふ忍び所多く、八の宮の姫君にも、御心ざし浅からで、いと繁う参《ま》うで歩《あり》きたまふ。頼もしげなき御心の、あだあだしさなども、いとどつつましければ、まめやかには思ほし絶えたるを、かたじけなきばかりに、忍びて、母君ぞ、たまさかにさかしらがり聞こえたまふ。
現代語訳
宮の御方は、分別がおつきになるご年齢にご成長なさったので、何事も見知り、お聞きとどめにならないわけではないが、男の人と結婚し、世間並みに人妻となることは、けしてするまいとお考えになって、ご興味をお持ちでない。世間の人も、その時々で権勢盛んなものにこびへつらう気持ちがあるからだろうか、本妻腹の御方々(大君と中の君)には、心を尽くして言い寄って、華やかなことが多いけれど、こちらの姫君(宮の御方)は、万事において、しめやかに引きこもっていらっしゃるので、宮(匂宮)は、ご自分にふさわしい方だと人づてにお聞きになって、心底から、どうにかして手に入れたい、と思うようになられた。
匂宮は、若君(大夫の君)を、いつも側にお近づけになっては、こっそりと宮の御方にお手紙をさしあげるが、大納言の君(紅梅大納言)は宮(匂宮)を中の君の婿にと強く望んでいらして、宮がそのように決心しておっしゃることがあれば、と様子をごらんになって、心の準備をしていらっしゃる。それを見るにつけ、北の方(真木柱)も不憫に思って、(真木柱)「強引に、こんな思いを寄せるはずもない方(宮の御方)に、虚しい言葉をお尽くしになるのは、かいのなさそうなこと」と、お思いになりまたそうおっしゃる。
宮の御方から、ほんの少しの御返事などもなかったので、匂宮は、負けるものかという御気持ちが加わって、御方に対する御執心がやみようもなくていらっしゃる。北の方(真木柱)は、「何の遠慮がいるものでしょうか。宮(匂宮)のお人柄は、どうにかして、夫としてお世話申し上げたいと、将来の望みのある方とお見受けされるのだから」などと、北の方(真木柱)はお考えおよびになることが時々ある。しかし匂宮は、実にたいそう色めいたことがお好きでいらして、お通いになっていらっしゃる秘密の場所が多く、八の宮の姫君にも、御執心浅からぬものがおありで、たいそう頻繁に参りつづけていらっしゃる。そうした匂宮の頼りなさげな御気持ちの、浮気性なところなども、いっそう気がすすまないので、北の方(真木柱)は、本気で二人を結婚させようという気持ちはなくなっていらっしゃるのだが、匂宮に対する畏れ多い気持ちだけはあるので、こっそりと、時々おせっかいを焼いて文を代筆して差し上げていらっしゃる。
語句
■さらに 下に「せじ」を補い読む。 ■時による心 その時権勢盛んな者に接近する心。日和見心。 ■さし向ひたる御方々 本妻腹の御方々。大君と中の君。 ■御ふさひ 「ふさひ」は「ふさふ(釣り合う)」の連用形が体言化したもの。 ■いかで 下に「見む」などを補い読む。 ■深く心かけたまひて 中の君の婿として匂宮を迎えたいと。 ■さも思ひたち 「さ」は匂宮が中の君の婿になるということ。 ■ひき違へて 強引に。無理やり。下の「尽くしたまふ」にかかる。主語を匂宮、「思ひ寄るべうもあらぬ方」を宮の御方ととったが、主語を大納言、「思ひ寄るべうもあらぬ方」を匂宮と取っても意味は通じる。主語を書かないことの弊害。 ■なげの言葉 むだな言葉。 ■何かは 下に「遠慮することがあろうか」の意を補い読む。 ■さても見たてまつらまほしう 宮の御方を婿として世話したいの意。 ■八の宮 宇治の八の宮。桐壺帝の第八皇子。源氏の異母弟。 ■姫君 宇治の中の君。匂宮は【椎本 01】【同 02】で宇治を訪れ、【総角 10】で中の君と結婚する。 ■いとどつつましければ 宮の御方の保護者として匂宮の好色さは容認できない。 ■思ほし絶えたる 匂宮を宮の御方の婿とすることはすっかり気持ちが離れている。 ■かたじけなきばかりに とはいえ匂宮は今上帝の皇子であり、敬うべき存在ではあるので。 ■さかしらがり… おせっかいを焼いて手紙を代筆すること。