【竹河 14】薫、蔵人少将 それぞれの落胆

源《げん》侍従の君をば、明け暮れ御前に召しまつはしつつ、げに、ただ昔の光る源氏の生ひ出でたまひしに劣らぬ人の御おぼえなり。院の内には、いづれの御方にもうとからず馴れまじらひありきたまふ。この御方にも、心寄せあり顔にもてなして、下《した》には、いかに見たまふらむの心さへそひたまへり。

夕暮のしめやかなるに、藤《とう》侍従と連れて歩《あり》くに、かの御方の御前近く見やらるる五葉《ごえふ》に藤のいとおもしろく咲きかかりたるを、水のほとりの石に苔を蓆《むしろ》にてながめゐたまへり。まほにはあらねど、世の中恨めしげにかすめつつ語らふ。

手にかくるものにしあらば藤の花松よりまさる色を見ましや

とて花を見上げたる気色など、あやしくあはれに心苦しく思ほゆれば、わが心にあらぬ世のありさまにほのめかす。

むらさきの色はかよへど藤の花心にえこそかからざりけれ

まめなる君にて、いとほしと思へり。いと心まどふばかりは思ひいられざりしかど、口惜しうはおぼえけり。

かの少将の君はしも、まめやかに、いかにせましと、過《あやま》ちもしつべくしづめがたくなんおぼえける。聞こえたまひし人人、中の君をと移ろふもあり。少将の君をば、母北の方の御恨みにより、さもや、と思ほして、ほのめかしきこえたまひしを、絶えて訪れずなりにたり。院には、かの君たちも、親しくもとよりさぶらひたまへど、この参りたまひて後《のち》、をさをさ参らず、まれまれ殿上の方《かた》にさしのぞきても、あぢきなう、逃げてなんまかでける。

現代語訳

源侍従の君(薫)を、冷泉院は明け暮れ御前近くにお召しになっては、実際、ひたすら昔の光る源氏がお育ちになった時とも劣らぬ侍従の君への御寵愛なのである。

源侍従の君(薫)は、院の内では、どの御方にも親しくしていただいて、いつも何かと交流を持っていらっしゃる。この御方(大君)に対しても、ただ一般的な好意を持っているかのようにふるまって、内心では、この私をどうご覧になっておられるのだろうかという気持ちも懐いていらっしゃった。

夕暮れのしっとりした頃に、源侍従(薫)は藤侍従と連れ立ってうろうろしていると、大君のお部屋の御前近くに見やられる五葉松に藤がたいそう風情ありげに咲きかかっているのを、水のほとりの石に苔を筵にしてぼんやり物思いに沈んで眺めていらっしゃる。はっきりそれとおっしゃるわけではないが、大君が院に嫁いだことを恨めしげにからませつつ、藤侍従と話し合う。

(薫)手にかくる……

(手に取って見れるものなら、藤の花の、松よりも美しいその色を見たいものだ)

といって花を見上げている様子など、妙に風情があり心苦しいものと藤侍従には思われるので、大君の身が自分の希望どおりにならなかった件について、ほのめかす。

(藤侍従)むらさきの……

(紫の色は通っていても(肉親ではあっても)、私は藤の花(大君)を心のままにはできませんでした)

この藤侍従は誠実な若君なので、源侍従(薫)のことを気の毒に思っている。源侍従(薫)はひどく心乱すほど大君に思い入れがあるわけではなかったが、大君が冷泉院に参院したことを残念には思っているのだった。

かの少将の君(蔵人少将)はというと、真剣に、どうしようかと、間違いも犯してしまいそうなほど、自分を抑えがたく感じていたのだ。大君の冷泉院への参院をお耳にされた人々は、それでは中の君をと心移りする者もある。尚侍の君(玉蔓)は、少将の君(蔵人少将)を、母北の方(雲居雁)が恨み言を言っていたために、中の君をおすすめしようかとお思いになって、それとなく申し上げていたのだが、少将(蔵人少将)は玉蔓邸にまったく訪れなくなってしまった。院(冷泉院)には、右大臣家の若君たち(夕霧の子息たち)も、もともと親しくお仕えになっていたが、この大君が冷泉院に参院されてからというもの、少将はめったに参らず、ごくまれに院の殿上の間に顔を出しても、苦々しく思い、逃げんばかりに退出するのだった。

語句

■明け暮れ御前に 薫は冷泉院の対屋に曹司を持ち、秋好中宮の養子格。 ■昔の光る源氏の生ひ出でたまひし 光源氏が桐壷帝の寵愛を受けて成長したこと。 ■いづれの御方 秋好中宮、弘徽殿女御、そのほかの方々。 ■心寄せあり顔にもてなして… 一般的な好意を寄せているだけと見せて、その実懸想心を隠している。 ■藤侍従 玉蔓腹の第三子。 ■かの御方 大君の居所。 ■苔を筵にて 苔を敷物として。 ■世の中 大君が冷泉院に嫁いだこと。 ■手にかくる… 「藤の花」は大君。「まつよりこゆる」とする本も。その場合「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(古今・東歌 読人しらず)を引く。「藤波」の縁で「こゆる」。 ■わが心にあらぬ 藤侍従は姉の大君が老人である冷泉院に参ったのが不満。 ■むらさきの… 「むらさき」は縁者。「かかる」は「花が垂れかかる」と「心にかかる」の意をかける。 ■過ちもしつべく 前に「ゆるしたまはずは盗みも取りつべく、…」(【竹河 03】)とあった。 ■さもや 中の君を蔵人少将に嫁がせようかと。 ■ほのめかしきこえたまひし 前に玉蔓が雲居雁に「このほどを思ししずめて、…」(【竹河 10】)と伝えたこと。 ■殿上の方 冷泉院の殿上の間。

朗読・解説:左大臣光永

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