【竹河 15】帝のご不満に近衛中将、母玉蔓を責める 大君、懐妊

内裏《うち》には、故|大臣《おとど》の心ざしおきたまへるさまことなりしを、かくひき違《たが》へたる御宮仕を、いかなるにかと思して、中将を召してなんのたまはせける。「御気色よろしからず。さればこそ、世人《よひと》の心の中《うち》もかたぶきぬべきことなりと、かねて申ししことを、思しとる方|異《こと》にて、かう思したちにしかば、ともかくも聞こえがたくてはべるに、かかる仰せ言《ごと》のはべれば、なにがしらが身のためもあぢきなくなんはべる」と、いとものしと思ひて、尚侍《かむ》の君を申したまふ。「いさや。ただ今、かうにはかにしも思ひたたざりしを、あながちに、いとほしうのたまはせしかば、後見なきまじらひの、内裏わたりは、はしたなげなめるを、今は心やすき御ありさまなめるにまかせきこえてと思ひよりしなり。誰も誰も、便《び》なからむ事は、ありのままにも諫《いさ》めたまはで、今ひき返し、右大臣も、ひがひがしきやうにおもむけてのたまふなれば、苦しうなん。これもさるべきにこそは」と、なだらかにのたまひて、心も騒がいたまはず。「その昔の御宿世は目に見えぬものなれば、かう思しのたまはするを、これは契《ちぎ》り異なるともいかがは奏しなほすべき事ならむ。中宮を憚りきこえたまふとて、院の女御をばいかがしたてまつりたまはむとする。後見や何やとかねて思しかはすとも、さしもえはべらじ。よし、見聞きはべらん。よう思へば、内裏は、中宮おはしますとて、こと人《びと》はまじらひたまはずや。君に仕うまつることは、それが心やすきこそ、昔より興あることにはしけれ。女御は、いささかなる事の違《たが》ひ目ありてよろしからず思ひきこえたまはむに、ひがみたるやうになん、世の聞き耳もはべらん」など、二ところして申したまへば、尚侍《かむ》の君、いと苦しと思して、さるは、限りなき御思ひのみ月日にそへてまさる。

七月《ふみづき》より孕《はら》みたまひにけり。うち悩みたまへるさま、げに、人のさまざまに聞こえわづらはすもことわりぞかし、いかでかはかからむ人をなのめに見聞き過ぐしてはやまん、とぞおぼゆる。明け暮れ御遊びをせさせたまひつつ、侍従もけ近う召し入るれば、御|琴《こと》の音などは聞きたまふ。かの梅が枝に合はせたりし中将のおもとの和琴《わごん》も、常に召し出でて弾《ひ》かせたまへば、聞きあはするにもただにはおぼえざりけり。

現代語訳

帝(今上帝)は、故大臣(髭黒太政大臣)が、大君を参内させようと決めていらした様子は格別であったのに、こうしてまったく違う形で大君が冷泉院に宮仕えすることになったことを、どうしたことかとおぼしめされて、中将(左近中将)を召して、苦言を仰せなるのだった。(中将)「帝のご機嫌はよろしくありません。だからこそ、世間の人も不審に思うに違いないことですよと、あらかじめ申し上げていたのです。それを、別なようにお考えになって、こうして大君を冷泉院に参院させるとお決めになったのですから、とやかく申し上げにくうございますが、帝からのこうした仰せ言がございますなら、私どもの出世のさしさわりとなります」と、ひどく不愉快に思って、尚侍の君(玉蔓)に対して不平を申し上げる。

(玉蔓)「さてさて、たった今、こうやって急に思い立ったわけではないものを、冷泉院が、熱心に、大君のことを愛しいと仰せになったのです。それで大君を、後ろ盾もなく宮中あたりで他の女御更衣と交際させるのも、気が引けることになりそうなので、今は冷泉院もご隠居なさって安心できるご様子であるようだから、帝ではなく冷泉院に大君をお任せ申し上げようと、思いついたのです。誰も誰も、不都合なことは、はっきりと私をお諌めにもならないで、今になって手の平を返して、右大臣(夕霧)も、憎々しげに当てつけて文句をおっしゃっているらしいのが、心苦しいことですよ。これもこうなるべき運命だったのでしょう」と、遠回しにおっしゃって、落ち着きはらっていらっしゃる。

(左近中将)「その昔からのご運命というものは目に見えないものですから、主上があのようにおぼしめしになり、またおっしゃることを、「大君のご縁はそれとは違います」とどうしてあらためて奏上できましょうか。中宮(明石の中宮)にご遠慮申し上げるといっても、院の女御(弘徽殿女御)をどうお扱い申し上げるおつもりですか。後ろ盾やら何やら前もって合意していたとしても、これからはそうもいかなくなりましょう。まあいいです。今後を拝見させていただきましょう。よく考えてみると、主上には、中宮(明石の中宮)がいらっしゃるからといっても、他の女御更衣の御方々も遠慮なくご交際なさっているわけです。主君にお仕え申し上げることは、安心してお仕えできることこそが、昔からそれが楽しいこととしたのです。女御(弘徽殿女御)は、些細なすれ違いでもあって、よろしからず思い申し上げられるようなことでもあったら、こうした宮仕えは間違いであったかのように、世間も取り沙汰するでしょう」などと、二人(左近少将と藤侍従)して申し上げなさる。それで尚侍の君(玉蔓)は、ひどく心苦しくお思いになるが、その実、院の大君に対する限りないご寵愛は、月日のたつに従って大きくなる。

七月から大君はご懐妊になられた。妊娠で具合を悪くしていらっしゃるご様子は、なるほど、世間の人がさまざまに口さがないことを申し上げて院の御気持ちをわずらわせるのも道理である、どうやったらこういう素晴らしい御婦人(大君)を並々に見聞きして過ごすだけで終わってしまえるだろう、と思われる。冷泉院は明け暮れ管弦の御遊びをおさせになっては、侍従(薫)も近くに召し入れるので、侍従(薫)は、御琴の音などはお聞きになる。かの「梅が枝」に合わせていた中将のおもとの和琴も、常に召し出してお弾かせになるので、侍従(薫)はその音を聞き合わせるにつけても、並々ならぬお気持ちになるのだった。

語句

■故大臣の… 髭黒は姫君の入内を望んでいた(【竹河 03】)。 ■かくひき違へたる御宮仕 大君が帝にではなく冷泉院に参院したこと。 ■いかなるにか 帝の要請を無視して大君を冷泉院に参らせるのは非常識。 ■かたぶきぬべし 頭を傾けるから不審に思うの意。 ■かねて申しし 玉葛の息子たちは以前から大君の参院には反対であった(【竹河 04】)。 ■かう思したたちにしかば 玉葛が、大君を冷泉院に参院させようと決めたこと。 ■なにがしらが身のためにもあぢきなく 出世にさしさわりが出るというのである。 ■尚侍の君を この「を」は「…に対して」の意。 ■あながちに 「院よりは、御消息日々にあり」(【竹河 10】)とあった。 ■今は心やすき御ありさま 冷泉院はすでに退位しているので後宮が荒れることもなかろうとの判断。 ■ありのままにも諌めたまはで 息子たちは「ありのままに」諌めていた(【竹河 09】)のだが、玉蔓は都合よく記憶を書き換えている。 ■右大臣も、… 夕霧夫婦が愚痴をもらいしていたのが人づてに玉蔓の耳に入ったのだろう。 ■これもさるべきにこそは 運命論を持ち出してうやむやにしてしまう。 ■なだらかにのたまひて 玉蔓は自分のかわりに大君を差し出す意図があったが、さすがにそうとは言えない。 ■中宮を憚りきこえたまふとて 帝には明石の中宮がいるので遠慮したというなら、冷泉院にも弘徽殿女御がいるの同じように遠慮すべきだろうという論。 ■後見や何やと 弘徽殿女御は大君の伯母。それで後見だの何だのといっていた(【竹河 05】)。 ■さしもえはべらじ 冷泉院が大君を寵愛したら弘徽殿女御との関係が悪くなると左近少将は危惧している。 ■こと人はまじらひたまはずや 帝の後宮には多くの女御更衣がいることをいう。 ■げに 大君が美人なので冷泉院が寵愛するのも当然だと世間は噂する。 ■御琴の音 大君の琴の音を御簾ごしに聞く。 ■梅が枝 「梅が枝に、来ゐる鶯、や、春かけて、はれ、春かけて、鳴けどもいまだ、や、雪は降りつつ、あはれ、そこよしや、雪は降りつつ」(催馬楽・梅が枝)。 ■中将のおもと 大君つきの女房。 ■ただにはおぼえざりけり 薫もそれなりに大君に懸想していたので恋心をかきたてられる。

朗読・解説:左大臣光永