白峯 六

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西行(さいぎやう)此の詔(みことのり)に涙(なみだ)をとどめて、「こは浅(あさ)ましき御こころばへをうけ給はるものかな。君はもとよりも聡明(そうめい)の聞えましませば、王道(わうだう)のことわりはあきらめさせ給ふ。こころみに討(たづ)ね請(まう)すべし。そも保(ほう)元(げん)の御謀叛(ごむほん)は天(あめ)の神(かみ)の教(をしえ)給ふことわりにも違(たが)はじとておぼし立たせ給ふか。
又みづからの人(にん)欲(よく)より計(たば)策(かり)給ふか。詳(つばら)に告(のら)せ給へ」と奏(まう)す。

其の時院の御けしきかはらせ給ひ、「汝聞け。帝位(ていゐ)は人の極(きはみ)なり。若(も)し人道上(にんだうかみ)より乱(みだ)す則(とき)は、天の命(めい)に応(おう)じ、民(たみ)の望(のぞみ)に順(したが)うて是を伐(う)つ。

抑(そもそも)永(えい)治(ぢ)の昔、犯(をか)せる罪(つみ)もなきに、父(ちち)帝(みかど)の命(みこと)を恐(かしこ)みて、三歳の體(とし)仁(ひと)に代(よ)を禅(ゆず)りし心、人(にん)欲深(よくふか)きといふべからず。
      
體(とし)仁(ひと)早世(さうせい)ましては、朕(わが)皇子(みこ)の重仁(しげひと)こそ国しらすべきものをと、朕(われ)も人も思ひをりしに美(び)福門院(ふくもんいん)が妬(ねた)みにさへられて、四ノ宮の雅(まさ)仁(ひと)に代(よ)を簒(うば)はれしは深き怨(うらみ)にあらずや。

現代語訳

西行はこの御言葉に涙を留めて、「これは浅ましい御こころむきをお聞きしたものですな。君は生前から聡明の評判がございましたので、徳をもって天下を治める、王道のことわりはご存知であらせられます。

こころみに尋ねうかがいましょう。そもそも保元のご謀反は天の神の教えにも違わないつもりで思い立たれたのか。あるいは自らの私欲から計画されたのか。はっきりとおっしゃってください」と申し上げた。

その時、崇徳院のご様子がお変わりになり、

「汝聞け。帝位は人として最上の極みである。もし人の道を上に立つ天子が乱せば、天命に応じて、民の望みにしたがってこれを討つ。

そもそも永治の昔、朕は罪を犯したわけでもないのに、父帝(鳥羽院)のご命令を畏み受けて、三歳の体仁親王(近衛天皇)に位を譲った心を見ても、朕が私欲が深いなどと言うべきでない。

体仁が早世して後は、わが皇子、重仁こそ国を治めるべきものをと、朕も人も思っていた時に、美福門院の妬みに邪魔されて、四の宮の雅仁(後白河天皇)に位を奪われたのは、深き怨みでないことがあろうか。

語句

■こは-これは。「こ」は崇徳院の言葉をあら合わす。■王道(わうだう)のことわり-覇道(武力による国政)に対し、特によって国を治める君主の道をいう。
■あきらめさせ給ふ-よくご承知になっておいでである。■討(たづ)ね請(まう)す-「討」は「尋」と同意。「請」は、願う意だが、ここでは、申すの意。 ■そも-そもそも。■保元の御謀反-保元の乱。近衛天皇の崩御に際し、雅(まさ)仁(ひと)親王(後の後白河天皇)の擁立に不満を持っていた崇徳上皇は鳥羽法皇の崩御を機会に後白河天皇と争った。結局、上皇方は敗れ讃岐に流された。■天の神-天照大神。■おぼし立たせ給ふか-思い立たれたのでありますか。■人欲-私欲■御けしきかはらせ給ひ-お顔色を変えられて。「御けしき」は御気色で、お顔の様子。西行の言葉を聞いて不機嫌な顔色になったのである。■人の極(きはみ)-人の最高の地位■「則」-「即(すなは)ち」と同意。■永(えい)治(ぢ)の昔-永治元年(1141)、崇徳院二十三歳の時、父の鳥羽上皇の一方的な命によって異母弟のわずか三歳の体仁(近衛天皇)に譲位したこと。■父(ちち)帝(みかど)-第七十四代鳥羽天皇。保元元年(1156)七月二日崩御。■恐(かしこ)みて-慎み受けること■體(とし)仁(ひと)-近衛天皇。鳥羽天皇と美福門院の間に生まれ、永治元年(1141)即位、在位十四年。久寿二年(1155)十七歳で崩御。■早世ましては-早死に。夭折。■重仁-崇徳天皇の第一皇子。近衛天皇が久寿二年(1155)七月に崩御の後、時に十六歳で世の信望もあり、聡明の評判もあって、当然皇位を継承するものと考えられていたが、崇徳天皇の実の弟雅(まさ)仁(ひと)(後白河天皇)が予想を裏切って即位した。重仁親王は保元の乱の後、仁和時の僧となった。■国しらすべきものをと-国を治めるべきものと。■美福門院-鳥羽院の皇后。名は得子。中納言藤原長実の娘。近衛帝母近衛帝の夭折を崇徳の呪詛のためと誤解、崇徳を仇敵視したとされる。■さへられて-妨げられて。■四ノ宮-鳥羽第四皇子、後白河天皇。崇徳の同母弟。■代(よ)-天皇の治世。

重仁(しげひと)国しらすべき才あり。雅(まさ)仁(ひと)何らのうつは物ぞ。

人の徳を選ばずも、天(あめ)が下の事を後宮(こうきゅう)にかたらい給ふは父帝(みかど)の罪なりし。されど世にあらせ給ふほどは孝(かう)信(しん)をまもりて、勤(ゆめ)色(いろ)にも出ださざりしを崩(かくれ)させ給ひてはいつまでありなんと、武(たけ)きこころざしを発(おこ)せしなり。
  
臣として君を伐(うつ)すら、天に応じ民の望(のぞみ)にしたがへば、周(しう)八百年の創業(そうげふ)となるものを。
       
まして知るべき位(くらゐ)ある身にて、牝(ひん)鶏(けい)の晨(あした)する代(よ)を取(とっ)て代(かは)らんに、道を失(うしな)ふといふべからず。
          
汝家を出でて仏(ほとけ)に婬(いん)し、未来(みらい)解脱(げだつ)の利欲(りよく)を願(ねが)ふ心より、人道(にんだう)を持て因果(いんぐわ)に引入れ、堯(ぎゃう)舜(しゅん)のをしへを釈門(しゃくもん)に混(こん)じて朕(われ)に説(と)くや」と、御声(みこゑ)あららかに告(のら)せ給ふ。

現代語訳

重仁は国を治める才がある。雅仁に何の器があるだろう。徳のある人物を選ばず、天下の事を後宮の女たちに相談なさったのは、父帝(鳥羽院)の罪であった。

しかしご存命の時は子として果たすべき孝信をまもって、まったく顔色にも出さなかったのだが、お隠れになってからはいつまでもこのままでいるものかと、猛々しい気持ちを起こしたのである。

臣下の立場で君を討つことすら、天命に応じて民の望みにしたがえば、周王朝八百年の創業ともなるのに。まして天下を治めるべき位のある身で、女の差し出口によって滅ぼされようという世を取って代わろうとするのを、道を失うと言うべきでない。

お前は家を出て仏に溺れ、来生に解脱しようと願う心から、現世の人の道を、仏法の解く因果論の中に引き入れて、堯舜(古代中国の理想的な天子)の教えを釈迦の門下の教えにまぜて朕に説くのか」と、御声も荒々しく仰せになった。

語句

■何らのうつはものぞ-どれだけの才能があるというのだ。とうてい重仁の比ではないという意味が込められている。■人の徳を選ばずも-人の徳のあるなしを見極めもしないで。■天(あめ)が下の事-天下の政治の事であるが、ここでは皇位継承の問題を指す。 ■後宮- 后妃の住む奥御殿。ここでは美福門院。■勤(ゆめ)-決して。少しも。■色(いろ)にも出ださざりしを-(不平不満を)そぶりにも見せなかったが。「色」はそぶり、表情。「を」は逆接の接続助詞。■武(たけ)きこころざし-武勇の心。勇猛心。この心を起こすことは、武力に訴えて挙兵することをいう。■臣-ここでは、殷(いん)の紂(ちゅう)王(おう)の部下であった周の武王をさす。■臣として君を伐(うつ)-臣下でありながら主君を討つこと。■周-周王朝は三十余代、八百七十年続き、紀元前256年に滅びた。■周(しう)八百年の創業(そうげふ)となるものを-周王朝が八百年も続く基となったのに。■しるべき位ある云々-「しる」は統治する。治める。■牝(ひん)鶏(けい)の晨(あした)する-めんどりがときをつくること。 美福門院の差し出口を指す。■家を出でて-出家して。■仏に婬(いん)し-仏道に耽(ふけ)り惑溺すること。崇徳院が西行の出家したことを非難したもの。■未来(みらい)解脱(げだつ)の利欲(りよく)-現世の煩悩を去って、来世で救われたいと願う欲望。■人道(にんだう)を持て云々-一種の倒立表現で「因果を持て人道に引き入れ」と同意。■因果-仏教で説く、過・現・未の三世にわたる善悪応酬の理論。■堯(ぎゃう)舜(しゅん)の教え-仁・徳をもって世を治めた二人の中国上代の伝説的帝王。「をしへ」は儒教。■釈門(しゃくもん)-釈迦の門弟。僧。ここは仏説をいう。

西行、いよよ恐るる色もなく座をすすみて、「君が告(のら)せ給ふ所は、人道(にんだう)のことわりをかりて欲(よく)塵(ぢん)をのがれ給はず。遠く辰(もろ)且(こし)をいふまでもあらず、皇(くわう)朝(てう)の昔誉田(ほんだ)の天皇(すめらみこと)、兄の皇子(みこ)大(おほ)鷦鷯(ささぎ)の王(きみ)をおきて、季(すゑ)の皇子(みこ)宇治の王(きみ)を日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)となし給ふ。

天皇崩御(かみがくれ)給ひては、兄弟(はらから)相譲(あひゆず)りて位に昇(のぼ)り給はず。

三とせをわたりても猶(なほ)果(は)つべくもあらぬを、宇治の王(きみ)深く憂(うれひ)給ひて、『豈(あに)久しく生(いき)て天(あめ)が下を煩(わずらは)しめんや』とて、みづから宝算(よはひ)を断(たた)せ給ふものから、罷事(やんごと)なくて兄の皇子(みこ)御位(みくらゐ)に即(つか)せ給ふ。

是天業(これてんげふ)を重んじ孝悌(かうてい)をまもり、忠(まこと)をつくして人(にん)欲(よく)なし。
            
堯(ぎゃう)舜(しゅん)の道といふなるべし。本朝(ほんてう)に儒教(じゆけう)を尊(たふと)みて専(もはら)王道(わうだう)の輔(たすけ)とするは、宇治の王(きみ)、百済(くだら)の王(わ)仁(に)を召(めし)て学(まな)ばせ給ふをはじめなれば、此の兄弟(はらから)の王(きみ)の御心(みこころ)ぞ、即(やがて)漢土(もろこし)の聖(ひじり)の御心ともいふべし。

現代語訳

西行は少しも恐れる様子もなく、座を進めて、

「君が仰せになりましたことは、人の道のことわりを借りて私欲の塵を免れてはおりません。

遠く中国の例を言うまでもない、わが国の王室に昔、誉田の天皇(応神天皇)は、兄の皇子大鷦鷯(おほささぎ)の王(仁徳天皇)をさしおいて、末の皇子菟道の君(ウジノワキイラツコ)を皇太子とされました。

天皇がご崩御された後は、兄弟は互いに譲って位にお昇りになりませんでした。三年経ってもやはり決着がつきそうもないので、菟道の君は深くお嘆きになって、「どうして長く生きて天下を煩わせようか」といって、自ら命をお絶ちになったので、やむをえず、兄の皇子が御位におつきになられました。

これは万世一系の帝位を重んじ、年上を敬う孝悌の心を守り、誠意を尽くしていることです。人の私欲から出たことではありません。これこそ古代中国の聖天子、堯舜の道というべきです。

わが国に儒教を尊んでもっぱら王道のたすけとするのは、菟道の王が百済の王仁博士から学ばれたことをはじめとしますので、この兄弟の王の御心こそ、そのまま中国の聖人の御心ともいうべきです。

語句

■いよよ-「いよいよ」の略。副詞。■座をすすみて-「すすめて」とあるべきところ。
■欲(よく)塵(ぢん)-「五欲六塵」の略語。五欲は色・声・香・味・食の欲望。此の欲望で眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が汚されることを六塵。人間世界の煩悩や欲望をいう。私欲。■辰(もろ)且(こし)-正しくは「震旦」。中国の異称。■皇(くわう)朝(てう)の昔-「■皇(くわう)朝(てう)」は日本。■誉田(ほんだ)の天皇(すめらみこと)-第十五応仁天皇。■大(おほ)鷦鷯(ささぎ)王子(みこ)-第十六代仁徳天皇。応神天皇の第四皇子。■宇治の王(きみ)-正しくは宇治の稚郎子(わきいらつこ)。応仁の末の皇子。■日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)-皇太子。■宝算(よはひ)-天子の年齢。ここでは寿命。命。■給ふものから-本来「のに」「けれども」の意の逆接の接続助詞であるが、順接の意にも用いて「であるから」「であるので」の意。■罷事(やんごと)なくて-やむをえずして。仕方なく。■天業-天子のご事業。政治。 ■孝悌(かうてい)-「孝」は真心をもって父母に仕えること、「悌」は兄に仕えて仲のよいこと。■儒教-孔子、孟子の教え。■王道-仁義、仁徳をもって治世する儒教の理想的な政治理念。■王(わ)仁(に)-百済の学者。応仁天皇十六年に『論語』10巻、『千(せん)字(じ)文(もん)』1巻を携えて来朝し、帰化した。

又、『周(しう)の創(はじめ)、武(ぶ)王(わう)一たび怒(いか)りて天下の民を安くす。臣として君を弑(しい)すといふべからず。仁(じん)を賊(ぬす)み義を賊(ぬす)む、一夫(いっぷ)の紂(もう)を誅(ちゅう)するなり』といふ事、孟子(まうし)といふ書にありと人の伝(つた)へに聞き侍(はべ)る。

されば漢土(もろこし)の書は経典(けいてん)・史(し)策(さく)・詩文(しぶん)にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子(まうし)の書ばかりいまだ日本に来らず。此の書を積みて来たる船は、必ずしも暴風(あらきかぜ)にあひて沈没(しづむ)よしをいへり。

それをいかなる故ぞととふに、我が国は天(あま)照(てら)すおほん神の開闢(はつぐに)しろしめししより、日嗣(ひつぎ)の大王(きみ)絶(たゆ)る事なきを、かく口(くち)賢(さか)しきをしへを伝えなば、末の世に神孫(しんそん)を奪(うば)うて罪(つみ)なしといふ敵(あた)も出(いづ)べしと八百(やほ)よろづの神の悪(にく)ませ給うて、神風を起(お)こして船を覆(くつがへ)し給ふと聞く。

されば他国(かのくに)の聖(ひじり)の教(をしへ)も、ここの国土(くにつち)にふさわしからぬことすくなからず。

現代語訳

また「周王朝建国の時、武王が一度怒って(叛乱を起こし)天下の民を安心させた。これは臣下が君に反逆したというべきものではない。仁を盗み義を盗む、一人のろくでなし、紂という男をこらしめたのだ」という事が、孟子という書にあると、人伝えに聞いてございます。

なので中国の書は儒教の経典、歴史書、詩文に至るまで渡っていないものはないのに、かの孟子の書だけがいまだ日本に渡り来ていません。

この書を積んで来た船は、必ず嵐にあって沈むということを言います。それをなぜかと問えば、我が国は天照大神が開闢なさってから、直系の子孫が絶えた事がないのを、このような口達者なだけの曲がった教えを伝えてしまえば、末の世に天つ神の子孫の命を奪って罪はないという敵も出るに違いないと、八百よろづの神がお憎みになって、神風を起こして船をひっくり返しなさると聞きます。

であれば中国の聖の教えも、わが国土にふさわしくないことが少なくないのです。

語句

■武王一たび怒りて云々-武王が義憤によって紂王を討ったこと。■弑(しい)す-臣子が君父を殺すこと。■賊(ぬす)み- 出典(孟子)によった語で「害」の意。■一夫(いっぷ)の紂(もう)-無頼漢としての紂王。殷の最後の王で、暴悪無道で知られる。■経典-儒教の経義を説いた書。史策は「史記」などの歴史書。詩文は詩集・文集などの文学書。渡さざるはなきに-「渡さざる書はなきに」の略。■必ずしも-「必ず」の強調。■開闢しろしめし-初めて国をお治めになる。■日嗣(ひつぎ)の大王(きみ)-代々の天皇。■小賢(こざか)しい教え-口先で言いくるめた、小ざかしい教え。■神孫-天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)の血脈を受けた子孫■敵-悪者。「あた」と清音。■八百万(やおよろず)の神々-非常に多くの神々。■他国(かのくに)の聖(ひじり)の教(をしへ)-中国の聖人の教え。儒教の教え。

且(かつ)、詩(し)にもいはざるや、『兄弟(けいてい)牆(うち)に鬩(せめ)ぐとも外(よそ)の侮(あなど)りを禦(ふせ)げよ』と。

さるを、骨肉(こつにく)の愛(あい)をわすれ給ひ、あまさへ一院崩御(かみがくれ)給ひて、殯(もがり)の宮に肌(みは)膚(だへ)もいまだ寒(ひえ)させたまはぬに、御旗(みはた)なびかせ弓(ゆ)末(すゑ)ふり立て宝祚(みくらゐ)をあらそひ給ふは、不幸(ふかう)の罪(つみ)これより劇(はなはだ)しきはあらじ。

天下は神器(じんき)なり。人のわたくしをもて奪(うば)ふとも得(う)べからぬことわりなるを。

たとへ重仁王(しげひとぎみ)の即位(みくらゐ)は民の仰(あふ)ぎ望(のぞ)む所なりとも、徳を布(しき)、和(くは)を施(ほどこ)し給はで、道ならぬみわざをもて代(よ)を乱(みだ)し給ふ即(とき)は、きのふまで君を慕(した)ひしも、けふは忽(たちまち)怨敵(あた)となりて、本意(ほい)をも遂(とげ)たまはで、いにしへより例(あと)なき刑(つみ)を得給ひて、かかる鄙(ひな)の国の土(つち)とならせ給ふなり。

ただただ旧(ふる)き讐(あた)をわすれ給うて、浄土(じゃうど)にかへらせ給はんこそ願(ねがは)まほしき叡慮(みこころ)なれ」と、はばかることなく奏(まをし)ける。

現代語訳

また詩経にも言うではないですか。『兄弟が内に争っていても外からの軽蔑に対しては協力して防げ」と。

そうであるのに、骨肉の愛をお忘れになり、あまつさえ父鳥羽法皇さまがお隠れになられて、殯の宮(遺体を一時安置しておく宮)にみ肌もいまだ冷たくなられないのに、御旗をなびかせ弓の先をふり立て、御位を争はれるのは、不孝の罪、これよりひどいものはありません。

天下は神の定めた器ものです。人のわたくしをもっては奪おうとしても得ることはできないことわりでありますものを。

たとえ重仁親王の御即位は民の仰ぎ望むことであるといっても、徳のある政治を行い、和を施されるのでなく、道ならぬやり方で世を乱されるなら、昨日まで君をお慕いしてた者も、今日はたちまち敵となって、ご本意を遂げられないで、いにしえより例のない罪を得られて、このような鄙びた国の土とおなりになったのです。

ただただ昔の憎しみをお忘れになって、浄土にお返りなさるこそ、君が願うべき御心なのです」と、はばかることなく申し上げた。

語句

■いはざるや-「いはずや」とあるのが正しい。「や」は反語の係助詞。■牆(うち)に鬩(せめ)ぐ-「牆(うち)」は内輪。「 鬩(せめ)」は恨み争うの意。■外(よそ)の侮(あなど)りを禦(ふせ)げよ-外部から侮りを受けたなら一緒になってこれを防げ。■さるを-それなのに。■骨肉(こつにく)の愛(あい)-肉親の愛。■あまさへ-そのうえ。「あまつさへ」に同じ。以下同。■一院- 鳥羽法皇。崇徳院を新院というのに対して言う。■殯(もがり)の宮-貴人の遺体を治めた棺を、本葬までの間、安置しておく仮殿。「あらきの宮」とも。■肌(みは)膚(だへ)もいまだ寒(ひえ)させたまはぬに-亡くなられてまだ肌の温もりが残っている状態で。死後いくらも経っていない状態で。ここでは鳥羽院の崩ぜられて間もないこと。■御旗(みはた)なびかせ-挙兵すること。「旗」は軍旗の意。■弓(ゆ)末(すゑ)ふり立て-武力をふるって。「弓末」は弓の上端で「弓(ゆ)筈(はず)」ともいう。■天下は神器(じんき)なり-天下は神の定めた器であって、人のどうすることもできないものである。(老子二十九章)■人のわたくし-人間の私欲。「わたくし」は「わたくしごと」の意で名詞。■徳を布(しき)、和(くは)を施(ほどこ)し給はで-人徳による政治を行わず、平和の恵みを施すことをなされないで。■前例のない刑罰。ここは崇徳院が讃岐に配流になったことを指す。■奏(まをし)ける-「奏(まをし)けり」とあるべきところ。連体形止めで強意と余情表現。

院長(ながき)嘘(いき)をつがせ給ひ、「今、事を正(ただ)して罪を問ふ、ことわりなきにあらず。されどいかんせん。

この島に謫(はぶら)れて、高遠(たかとほ)が松山の家に困(くるし)められ、日に三(み)たびの御膳(おもの)すすむるよりは、まゐりつかふる者もなし。
     
只天(あま)とぶ雁(かり)の小夜(さよ)の枕におとづるるを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、暁(あかつき)の千鳥の洲崎(すさき)にさわぐも、心をくだく種(たね)となる。烏(からす)の頭(かしら)は白くなるとも、都(みやこ)には還(かへ)るべき期(とき)もあらねば、定(さだめ)て海(あま)畔(べ)の鬼とならんずらん。
        
ひたすら後世(ごせ)のためにとて、五部(ごぶ)の大乗(だいじょう)経(ぎやう)をうつしてけるが、貝(かひ)鐘(がね)の音(ね)も聞えぬ荒磯(ありそ)にとどめんもかなし。

せめては筆の跡ばかりを洛(みやこ)の中(うち)に入れさせ給へと、任和寺(にんわじ)の御室(みむろ)の許(もと)へ、経にそへてよみておくりける、

浜千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音(ね)をのみぞ鳴(な)

しかるに少納言(せうなごん)信西(しんぜい)がはからひとして、若(もし)呪詛(じゅそ)の心にやと奏(そう)しけるにより、そがままにかへされしぞうらみなれ。

現代語訳

崇徳院は長いため息をおつきになり、

「今、お前は事を正してわが罪を問うた。ことわりが無いわけではない。しかしどうすればいいのだ。この島に遠く流されて、松山の高遠邸に閉じ込められ、日に三度の食事をすすめるほかは、参り仕える者もなかった。

ただ空飛ぶ雁が夜の枕辺に訪れるのを聞けば、都に行くのだろうかと懐かしく、暁の千鳥の洲崎にさわぐも、心をくだく種となる。

たとえ烏の頭が白くなっても、都には還れる時もないので、きっとこの海辺で死霊となるに違いない、だからひたすら後世のためということで、五部の大乗経を書写したが、法螺貝も釣り鐘もない(寺ひとつ建っていない)荒海にとどめ置くのも悲しい。

せめては筆の跡だけでも都の内に入れさせ給えと、仁和寺の御室のもとへ、経にそえて詠み送った。

浜千鳥…

(浜千鳥が都に飛び通うように、筆の跡だけは都に通うとしても、この身は松山に声をあげて泣くばかりだ)

しかるに少納言信西のはからいとして、もし呪詛の念がこもっているのではないかと奏上されたので、大乗経はそのまま返されたのが恨めしいことであった。

語句

■長(ながき)嘘(いき)-中国小説の頻用語。激情やや収まっての長嘆息。■事を正して-ものごとの善悪の道理をはっきりさせて。■罪を問ふ-罪過を咎(とが)める。■いかにせん-どうにもならない。■謫(はぶら)れて-流刑にされて。■高遠-「高遠」は讃岐国綾歌郡の名家。「保元物語」では松山の津、「在庁師太夫高遠が御堂」に新院を入れたとある。■御膳(おもの)すすむる-お食事を給仕するもの。■天(あま)とぶ雁(かり)-雁が手紙を届けたという漢臣蘇武の故事をふむ表現。■暁(あかつき)の千鳥の-「暁の千鳥の洲崎にさはぐも御心をくだく種となる」(保元)■州崎-「洲」は土砂が堆積して、水面に出ているとところ。「州崎」は、その洲が長く水中に出ているところ。■心をくだく種-心を苦しめる原因。もの思ひに沈む原因。■烏(からす)の頭(かしら)は白くなるとも云々-帰郷不可能な事のたとえ。『史記』刺客列伝注が出所だが、直接には「烏の頭が白くなるとも帰京の斯を知らず」(保元)による。この辺の文章は、流布本「保元物語」が直接の典拠。■定めてうんぬん-「定めて望郷の鬼といでならんずらん」{保元}。「鬼」は命を失ってその地の死霊となること。■五部(ごぶ)の大乗(だいじょう)経(ぎやう)-大乗に属する、華厳・大集・大品般若・法華・涅槃の五経をいう。■貝(かひ)鐘(がね)-法螺貝と釣鐘。寺院の存在を示す。■洛(みやこ)の中(うち)に入れさせ-「都の内に納させ」(霊場記)■任和寺-京都市右京区の真言宗の名刹。■御室-御室門跡。歴代法親王が住す。当時は新院の弟、覚性(かくしょう)法親王の代で、ここではその人。■浜千鳥跡はみやこに-出典は『保元物語』の「新院御経沈付崩御事」。「浜千鳥」「かよふ」「松山」「音」「鳴く」と一連の縁語で構成されている。■少納言信西-藤原通憲の入道名。新院の敵対者で後白河帝の権臣。■若(もし)呪詛(じゅそ)の心にや云々-「若し呪詛の心にやあらん」の略。新院の写経が、世を呪い、君を呪うためのものであると考えたのである。

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朗読・解説:左大臣光永


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