白峯 十二

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いにしへより倭(やまと)・漢土(もろこし)ともに、国をあらそいて兄弟(きやうだい)敵(あた)となりし例(ためし)は珍(めずら)しからねど、罪(つみ)深(ふか)き事かなと思ふより、悪心(あくしん)懺悔(ざんげ)の為にとて写しぬる御経(きやう)なるを、いかにささふる者ありとも、親しきを議(はか)るべき令(のり)にもたがひて筆の跡だも納(い)れ給はぬ叡慮(みこころ)こそ、今は久しき讐(あた)なるかな。

所詮(しょせん)此の経を魔道(まだう)に回向(ゑかう)して、恨(うらみ)をはるかさんと、一すぢに思ひ定(さだめ)て、指(ゆび)を破(やぶ)り血(ち)を持て願文(ぐわんもん)をうつし、経とともに志(し)戸(と)の海(うみ)に沈(しづめ)てし後は、人にも見(まみ)えず深く閉(とぢ)こもりて、ひとへに魔王(まわう)となるべき大願(たいぐわん)をちかひしが、はた平治(へいぢ)の乱(みだれ)ぞ出できぬる。

まづ信頼(のぶより)が高き位(くらゐ)を望む驕慢(おごり)の心をさそうて義(よし)朝(とも)をかたらはしむ。かの義朝こそ悪(にく)き敵(あた)なれ。
         
父の為義(ためよし)ををはじめ、同胞(はらから)の武士(もののべ)は皆朕(わが)ために命(いのち)を捨(すて)しに、他(かれ)一人(ひとり)朕(われ)に弓を挽(ひ)く。

為朝(ためとも)が勇猛(ゆうまう)、為義(ためよし)・忠(ただ)政(まさ)が軍配(たばかり)に贏(かつ)目(いろ)を見つるに、西南の風に焼討(やきうち)せられ、白河の宮を出でしより、如意(にょい)が獄(みね)の険(けは)しきに足を破(やぶ)られ、或(あるい)は山賤(やまがつ)の椎(しひ)柴(しば)をおほいて雨露を凌(しの)ぎ、終(つひ)に擒(とら)はれて此の島に謫(はぶ)られしまで、皆義(よし)朝(とも)が姦(かだま)しき計(た)策(ばかり)に困(くるし)められしなり。

これが報(むく)ひを虎狼(こらう)の心に障化(しゃうげ)して、信頼(のぶより)が陰謀(いんぼう)にかたらはせしかば、地祗(くにつがみ)に逆(さか)ふ罪(つみ)、武(ぶ)に賢(さと)からぬ清(きよ)盛(もり)に逐討(おひうた)る。

且(かつ)父の為義を弑(しい)せし報(むく)ひ窮(せま)りて、家(いへ)の子(こ)に謀(はか)られしは、天神(あまつがみ)の祟(たた)りを蒙(かうむ)りしものよ。

現代語訳

昔から日本・中国ともに、国を争って兄弟が敵となる例は珍しくはないけれど、今回は私が罪を犯した立場であることよと思っていたが、悪心を懺悔するためにといって写した御経文であるのに、いかに遮る者があったといっても、帝の近親者であることを考慮に入れるべきで法令にも逆らって、筆の跡さえもお受け取りにならない、後白河院の御心こそ、今は永き怨みであることよ。

いっそこの経を魔道に捧げ、怨みを晴らそうと、一筋に思いを定めて、指を食いちぎって血でもって願文を写し、経とともに志戸の海に沈めて後は、人にも会わず深く閉じこもって、ひとえに魔王となるべき大願を誓ったが、はたして平治の乱が起こったのだ。

まず藤原信頼が高い位を望む驕りの心をさそって源義朝と手を組ませ謀反を起こさせた。かの義朝こそ憎き敵であるよ。父の為義をはじめ、同胞の武士たちは皆朕のために命を捨てたのに、あやつ一人朕に弓を引いた。

為朝が勇猛、為義・忠政の軍略に勝利の色が見えたのに、西南の風に焼き討ちにされ、白河の宮を逃れ出てからは、如意ヶ岳の険しい山路に足をけがして、あるいは木こりの作った椎柴を背負って雨露をしのぎ、ついに捕らわれてこの島に遠く流されるまで、皆義朝のけしからん策略に苦しめられたのだ。

この報復として祟って義朝を暴虐残忍な心に変えて、信頼の陰謀に加担させたので、国つ神に逆らう罪によって、たいして武勇にすぐれているわけでもない清盛によって追討されたのだ。

かつ父の為義を殺した報いが迫って、家の子にだまし討ちにされたのは、天つ神の祟りを被ったものであるよ。

語句

■悪心(あくしん)懺悔(ざんげ)-「悪心」は、ここでは帝位を争って兄弟相争うこと。「懺悔」はその悪心が罪深いことを悟りそれを悔い改めようとすること。■ささふる-障ふる」。さまたげる。妨害する。■親しきを議(はか)るべき令(のり)-議親法を指す。大宝令で定められた天皇・皇后・皇太后・太皇太后の親族は減刑と言う法令。■筆の跡だも-筆跡さえも。「だも」は「だにも」の略で、さえも、すらもの意。■今は久しき讐(あた)-今となっては永久に忘れられない怨み。「今は」は今となっては。■魔道-仏道に対して障害を与える悪魔の世界。■回向-本来は功徳を施すことだが、ここでは魔道に経を手向け、魔力の助けを祈ること。■はるかさん-「はるかす」は「はらす」と同じで、それに意志の助動詞「ん」がついた。「はらさん」と同じ。■願文-ここでは誓い状。『源平盛衰記』に天下を乱さんという趣旨の新院願文が見える。■志(し)戸(と)の海-香川県大川郡志度町の志度浦。史実に反するが「霊場記」によった。■はた-「はた」を「果たして」の意に用いる秋成独特の語法。『保元物語』など、平治の乱を新院怨念のしわざとみる。■信頼(のぶより)-藤原信頼。後白河帝の寵臣。近衛大将を望んで信西に妨げられ、「平治の乱」を起こした。■義(よし)朝(とも)-源義朝。保元の乱での行賞不平から反乱。■かたらはしむ-味方につけた。崇徳院の怨念が信頼をそそのかして、義朝を味方に引き入れたこと。 ■為義(ためよし)-保元の乱で院に味方。敵に回った長男義朝の手で切られる。■同胞(はらから)の武士(もののべ)-義朝の六人の弟たち■為朝(ためとも)-鎮西八郎為朝。義朝の弟、伊豆大島流罪。■忠(ただ)政(まさ)-平忠政。甥の清盛に切られる。■贏(かつ)目(いろ)を見つるに-勝目が見えたのに。「に」は逆接の接続助詞。■白河の宮-白河北殿。院の本陣。今の京都市中京区丸太町にあった。もとは白河法皇の御所であったが、保元の乱のとき、崇徳上皇はここに御幸し、保元元年七月十一日脱出して如意(にょい)が獄(みね)に入った。■如意(にょい)が獄(みね)-京都東山の主峰。■山賤-木こり、猟師など山里に住む身分の賤しい者。■椎柴-木こりの刈った椎の柴。■姦しき計策-心のねじけた陰険な計略。白河院を焼き討ちしたこと。■虎狼(こらう)の心-暴虐残忍な心■障化-祟り変ずること。義朝の邪欲をそそり破滅へ導くことを指す。 ■地祗(くにつがみ)-「天つ神」に対する「地の神」で、国土を守護する神。天皇。 ■家(いへ)の子(こ)に謀(はか)られし-敗走した義朝は尾張の国野間の家臣長田忠致(おさだただむね)を頼ったが、その長田に謀殺された。

保元の乱における敵味方関係
保元の乱における敵味方関係

又、少納言信西(しんぜい)は、常に己(おのれ)を博士(はかせ)ぶりて、人を拒(こば)む心の直(なほ)からぬ、これをさそうて信頼(のぶより)・義(よし)朝(とも)が讐(あた)となせしかば、終(つひ)に家を捨てて宇治山(うぢやま)の坑(あな)に竄(かく)れしを、はた探(さが)し獲(え)られて六条河原に梟首(かけ)らる。

これ経をかへせし諛(おも)言(ねり)の罪を治(をさ)めしなり。

それがあまり応(おう)保(ほう)の夏(なつ)は美(び)福門院(ふくもんゐん)が命(いのち)を窮(せま)り、長寛(ちやうくわん)の春は忠道(ただみち)を祟(たた)りて、朕(われ)も其の秋世をさりしかど、猶(なほ)嗔火(しんくわ)熾(さかん)にして尽(つき)ざるままに、終(つひ)に大魔王(だいまおう)となりて、三百余類(よるい)の巨魁(かみ)となる。

朕(わが)けんぞくのなすところ、人の福(さひはひ)を見ては転(うつ)して禍(わざはひ)となし、世の治(をさま)るを見ては乱(みだれ)を発(おこ)さしむ。

只清盛が人果(にんくわ)大にして、親族(うから)氏族(やから)ことごとく高き官位につらなり、おのがままなる国政(まつりごと)を執行(とりおこな)ふといへども、重森(しげもり)忠義をもて輔(たす)くる故いまだ期(とき)いたらず。

汝見よ。平氏もまた久しからず。雅(まさ)仁(ひと)朕(われ)につらかりしほどは終(つひ)に報(むく)ふべきぞ」と、御声(みこえ)いやましに恐ろしく聞えへけり。

西行いふ。「君、かくまで魔界(まかい)の悪行(あくごふ)につながれて、仏土(ぶつど)に億万里を隔(へだ)て給へばふたたびいはじ」とて、只黙してむかひ居たりける。

現代語訳

また少納言信西は、常に己を学者ぶり、人を拒む心が素直でない。これを誘って信頼・義朝の敵となしたので、ついに家を捨てて宇治山の穴に隠れていたのを、はたして探し出されて捕らわれ、六条河原に首をさらされた。

これは経を押し返した讒言の罪をさばいたのである。その勢いのままに応保の夏は美福門院の命を縮め、長寛の春は藤原忠通を祟って殺し、朕もその秋世を去ったけれど、死後もなお、憤りの炎がさかんにして尽きぬままに、ついに大魔王となって、魔界の眷属三百余類の首領となる。わが眷属のなすところ、人の幸いを見ては転じて禍とし、世の治まるを見ては乱れを起こさせる。

ただ清盛の前世からの果報は大きく、親族がことごとく高い官位につらなり、わがやりたい放題の国政を執り行っているが、嫡男の重盛が義をもって補佐しているのでいまだ滅びの時が来ていない。

汝見よ。平氏もまた久しくはない。雅仁(後白河院)が朕につらく当たった程度にはついに報いてやるぞ」と、御声いやましに恐ろしく聞こえた。西行は言う。

「君、ここまで魔界の悪業につながれて、仏土に億万里もの遠い距離を隔てられては、もう二度と言いません」といって、ただ黙って向かい合っていた。

語句

■清盛-平清盛。忠盛の子。平相国と称し、保元の乱、平治の乱で勝利をおさめ、太政大臣となり、安徳天皇の外祖父となるなど、平家一門の繁栄を築き上げた。■博士-博学の士。学者。■宇治山(うぢやま)の坑(あな)-『平治物語』によれば、信西は都を逃げ宇治の木幡山(宇治川のあたりの山)中に穴を掘って隠れたが、発見されて首を打たれ、六条河原(京都六条辺りの賀茂川の河原で、当時は刑場であった。)に梟首(拷問にかけられさらし首になること)された。■諛(おも)言(ねり)-追従。へつらい。 ■諛言の罪-へつらいの罪。崇徳上皇の写経を天皇にへつらって呪詛と奏上したことを指す。■応保の夏-門院の薨は正しくは永暦元年。「応保元年、冬十一月美福門院薨ス」(本朝通紀)■長寛の春-長寛二年(1164)二月。藤原忠通は後白河帝擁立の中心人物。 ■其の秋-長寛二年八月六日(二十六日説もある)。四十六歳。■嗔火-怒りの炎。■大魔王-善を妨げる悪鬼の頭領。 ■三百余類(よるい)の巨魁(かみ)-天狗の眷属(配下の悪鬼)の概数。したがって首領という意味の「巨魁」は、ほぼ大天狗と考えてよい。 ■人果-その人に前世から約束づけられたこの世での果報・勢威。■忠義-国家・朝廷に対する「忠義」だが、「輔」けたのは清盛の「人果」■親族(うから)氏族(やから)-「親族」は血縁の者。「士族」は一門。■重盛-平重盛。清盛の長子。忠孝の心厚く、父清盛の横暴を戒めた。治承三年(1179)八月一日没。■雅仁-後白河帝。■悪行-悪い因縁。逃れられないくびき(自由を束縛するもの)。 ■仏土-ここでは極楽浄土。妄執を持つ者の堕ちる魔道は、浄土に最も遠い所。 ■見るみる-見る間に。またたく間に。

時に峰も谷ゆすり動いて、風が林を倒すがごとく、砂や小石を空に巻き上げる。見る見る一団の青白い炎が君の膝の下から燃え上がって、山も谷も昼のように明るくなった。

光の中によくよくご様子を拝見すると、朱にそまった御顔に、乱れた髪が、膝にかかるまで乱れ、白眼をつり上げ、熱い息をくるしげにおつきになっている。

御衣は柿色のたいそうすすけたものを召され、手足の爪は獣のように生えのびて、さながら魔王の姿、あさましくも恐ろしい。

空に向かって、「相模、相模」とお呼びになる。「あ」と答えて、鳶のような異形の鳥が来て、前に伏して御言葉をまつ。

現代語訳

その時、峰も谷も揺れ動き、烈風は林を吹き倒さんばかりに吹き、砂や小石を空に巻き上げた。と思うとみるみるうちにひとかたまりの鬼火が新院の膝(ひざ)の下から燃え上がり、山も谷も昼間のように明るくなった。

光の中でよくよく(崇徳院の)ご様子を拝見すると、怒りで真っ赤に染まったお顔に、くしけずらず、ぼうぼうと乱れた髪が膝にかかるほど長くまつわり、(人を睨み付けた)白い目を吊り上げ、熱い吐息を苦しそうについておられる。御衣(ぎょい)は柿色のひどくすすけたのを召され、手足の爪は獣のように長く延びて、さながら魔王そのもののお姿は情けなく又恐ろしい。

空に向って「相模、相模」とお呼びになる。「はっ」と答えて鳶(とび)のような怪しい鳥が飛んで来て、新院の前にひれ伏し、お言葉を待つ。

語句

■一段の隠火-ひとかたまりの鬼火。 ■沙石-真砂。細かい砂。■朱をそそぎたる-怒りで顔が真っ赤になること。■竜顔-天使の顔の敬称。■荊の髪-くしけずらず乱れている髪。■白眼-人を憎んで睨みつける時の顔つき。■柿色の-茶褐色の修験者の衣の色。柿の渋色。■いたう-たいそう。■すすびたるに- すすけているその上に。「に」は添加の意の格助詞。■相模-三井寺の僧相模阿闍梨勝尊。保元の乱で崇徳上皇方について、後白河天皇を呪詛した。天狗になって白峰に棲みついた。現在でも白峰山に相模坊が祀られている。 ■化鳥-変化の鳥。怪しい鳥。天狗の姿が鳶に似ることは古くからの伝承。

崇徳院は、かの異形の鳥に向かわれ、「どうして早く重盛の命を奪って、雅仁・清盛を苦しめないのか」異形の鳥は答えて言う。「上皇の幸いはいまだ尽きていません。重盛の忠信は近づきがたいです。

今より干支をひとめぐり待てば、重盛の寿命はすでに尽きているはずです。彼が死ねば平家一門の幸いはここに滅ぶに違いありません」

崇徳院は手を打ってお喜びになり、「かの憎き敵どもは、ことごとく、この前の海に沈めつくすべし」と、御声、谷に峰に響いて、その凄まじさは言葉にいいあらわす事もできない。

西行は、魔道のあさましきありさまを見て涙を抑えることができない。ふたたび一首の歌に仏に帰依する心をおすすめする。

よしや君…

(わが君よ、いったい昔は玉の床の上に帝位を保たれていたとはいえ、このようなみすぼらしい山奥で魔物に成り果ててからは、それが何になるのですか)

「死んだ後は王族も土民も変わらないものを」と、心あまって高らかに歌った。

現代語訳

新院はその怪鳥に向って、「どうして重盛の命を早く奪って、雅仁・清盛らを苦しめないのか」。

怪鳥は答えて言った。「後鳥羽上皇の幸運(さいわい)はまだ尽きておりませぬ。重盛の忠義と誠実さには、まだ近づきがたいのです。あと十二年ほど待てば、重盛の寿命はもう終わっているはずです。彼さえ死ねば平氏一族の運は一気に亡ぶはずであります」。

新院は手を打って喜ばれ、「彼ら仇敵どものすべてを、ここの前の海で死に絶えさせてしまえ」と、その御声は谷や峰に響き合って、その凄まじさは口で語れそうにもない。

西行は魔道の恐ろしくあさましいありさまを見て、涙を抑えることができず、もう一度、一首の歌を捧げて仏縁帰依の御心をお勧めした。

よしや君…

(君主(おかみ)よ、たとえ昔は立派な玉座におられたとしても、お隠れになった今、それが何になりましょう。ただひたすらにご成仏を祈り上げるのみです)

「王族も土民も死後は皆同じでありますものを」と、感情が高まり(涙を)溢(あふ)れさせ、声高らかに吟(ぎん)じ上げた。

語句

■支干-正しくは「干支」。普通その一周は六十年。ここでは十二支の一周の意で、仁安三年より十三年目は治承四年(1180)■重盛が命数-重盛の死は治承三年八月。 ■亡ぶべし-平家滅亡は寿永四年(1185)。 ■此の前の海-広く瀬戸内海を指すが、とりわけ平家が源氏のために致命的な敗戦を受けた屋島の海は、白峰の東方八キロメートルである。。■隨縁-仏縁につながること。「隨縁のこころ」は、仏縁への恭順を勧める心、の意であろう。■よしや君云々-原歌は「山家集・下」ただし、ここでは 「四国遍礼霊場紀」引用歌を利用。■刹利-古代インドの四階級の第二位、王族及び武士の階級。 ■須陀-「首陀」とも。同じく第四位の農人・田夫の階級。■心あまりて-感動で胸が一杯になって。感きわまって。■吟(うたひ)ける-「吟けり」とあるべきところ。連体形止め。

此の言葉を聞(きこ)しめして感(めで)させ給ふやうなりしが、御面(みおもて)も和(やは)らぎ、陰火(いんくわ)もややうすく消(きえ)ゆくほどに、つひに竜体(みかたち)もかきけちたるごとく見えずなれば、化(け)鳥(てう)もいづち去(ゆき)けん跡もなく、十日あまりの月は峰に隠れて、木(こ)のくれやみのあやなきに、夢路(ゆめぢ)にやすらふが如し。

ほどなくいなのめの明けゆく空に、朝(あさ)鳥(とり)の音(こゑ)おもしろく鳴(なき)わたれば、かさねて金剛(こんがう)経(きょう)一巻(いっくわん)を供養(くやう)したてまつり、山をくだりて庵(いほり)に帰(かへ)り、閑(しづか)に終夜(よもすがら)のことどもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息(せうそく)、年月のたがひなければ、深く慎(つつし)みて人にもかたり出でず。

其の後、十三年を経(へ)て治承(ぢしやう)三年の秋、平(たひら)の重盛病(しげもりやまひ)に係(かか)りて、世を逝(さり)ぬれば、平(へい)相国(さうこく)入道、君をうらみて鳥羽(とば)の離宮(とつみや)に籠(こめ)たてまつり、かさねて福原(ふくはら)の茅(かや)の宮に困(くるし)めたてまつる。

頼朝(よりとも)東風(とうふう)に競(きそ)ひおこり、義(よし)仲(なか)北雪(ほくせつ)をはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に漂(ただよ)ひ、遂(つひ)に讃岐(さぬき)の海志(し)戸(と)、八島(やしま)にいたりて、武(たけ)きつはどもおほく鼇(ごう)魚(ぎょ)のはらに葬(はぶ)られ、赤間(あかま)が関(せき)、壇(だん)の浦(うら)にせまりて、幼主(えうしゆ)海に入らせたまへば、軍将(いくさぎみ)たちものこりなく亡(ほろ)びしまで、露たがはざりしぞ、おそろしくあやしき話柄(かたりぐさ)なりけり。

其の後、御廟(みべう)は玉もて雕(ゑ)り、丹青(たんせい)を彩(ゑど)りなして、稜(み)威(いつ)を崇(あが)めたてまつる。かの国にかよふ人は、必ず幣(ぬさ)をささげて斎(いは)ひまつるべき御神(おんあみ)なりけらし。

現代語訳

この言葉をお聞きになってお感じになれれた様子で、御顔も和らぎ、青い炎もややうすく消えゆくうちに、ついに御姿もかき消えたるように見えなくなったので、異形の鳥もどこへ去った跡もなく、10日過ぎの月は峰にかくれて、木下闇の何も見えない中、夢路にさまよっているようである。

ほどなく明けゆく空に、鶏の声がおもしろく鳴きわたれば、かさねて金剛経一巻を読経して供養申し上げ、山を下って庵に帰り、しずかに昨夜のいろいろなことを思い出すに、平治の乱からはじめて、人々の消息、年月の違うところが無いので、深く慎んで人に話すこともなかった。

その後13年を経て治承三年の秋、平重盛が病にかかって世を去ると、平相国入道清盛は、後白河院を恨んで鳥羽の離宮に幽閉申し上げ、次には福原の茅の宮に拘束申し上げた。

頼朝が東風に競うように旗上げして、義仲が北国の雪をはらって出る出るに及んで、平氏の一門はことごとく西の海に漂い、ついに讃岐の海志戸(しと)、屋島にいたって、武勇にすぐれた武士たちが多く大亀や魚の餌となってその腹に葬られ、赤間が関、檀ノ浦に迫って、幼主安徳天皇が海にお入りになられると、武将たちも残りなく亡ぶまで、まったく崇徳院の亡霊の御言葉に違わなかったのが、恐ろしくも奇妙な語り草であったよ。

その後、讃岐の崇徳院の御廟は、玉をちりばめ、美しい絵の具で彩りなして、崇徳院のご高徳を崇め申し上げた。讃岐に通う人は、必ず神に捧げる幣帛を捧げて拝み申し上げなくてはならない御神であるということである。

語句

■聞しめし-「聞く」の尊敬体「聞しめす」の連用形。■感(めで)させ-心を動かされる。よしとお思いになる。■竜体-「玉体」と同じく、天使の身体をいう。■あやなきに-「あや」は「彩」。物の色目、模様もはっきり見えないこと。 ■、十日あまりの月-十日過ぎの月で、満月に近い。その月が隠れたのは夜明け近いことになる。■木のくれやみ-木が生い茂って暗い状態をいう。■あやなきに-物の文目もはっきりしないので。■いなのめの-「明く」の枕詞。 ■朝鳥-早朝にねぐらを飛び立つ鳥。特定の鳥ではない。■金剛経-『金剛般若葉波羅密多経』。悪魔に勝ち、煩悩を断つ功徳のある経。 ■消息-崇徳院が口にした人物の有様。■君をうらみて云々-「清盛上皇を以て鳥羽離宮に遷す」(本朝通紀)。■鳥羽の離宮-京都市伏見区鳥羽にあった鳥羽殿で、「城南(せいなん)離宮」と言われた。■茅の宮-神戸市兵庫区福原町に清盛が建設した新都。「茅の宮」は茅葺の粗末な御殿。『平家物語』には、清盛が後白河院をここに幽閉したとある。「(治承四年)夏六月清盛京を摂州福原に遷す」(本朝通紀)

■頼朝-1源頼朝。義朝第三子。伊豆国蛭島(ひるがしま)に流されていたが、治承四年八月以仁王(もちひとおう)の令旨を受けて挙兵した。■東風に競ひおこり-東国の風雲に乗じて兵を挙げ。頼朝は関東で挙兵したから「東風」といった。■義仲-木曽義仲。源義賢(よしかた)(義朝の弟)の第二子。寿永元年(1182)平家討伐の兵を北陸道に進める。■北雪をはらうて出づる-「北雪」は北国の雪。降りしきる雪をついて挙兵した。 ■八島-香川県高松市の東北にある半島。平家は寿永四年、ここで義経に敗れた。■鼇魚-大亀や魚。■赤間が関-山口県下関付近の旧称。■壇の浦-関門海峡の東北部。下関市東端の海上。■幼主-八十一代安徳天皇。高倉亭第一子。母は清盛の娘徳子(建礼門院)。寿永四年三月壇ノ浦で入水。八歳。■軍将-平家一門の武将たち。■露たがはざりしぞ-崇徳院の言葉と少しも違わなかった。「露」は下に打消しの語を伴って、少しも、全くの意。■あやしき話柄-不思議な話の種。崇徳院の言葉がことごとく的中したのに驚き「あやしき」といった。■御廟-崇徳院没後二十七年の建久二年(1191)、後白河院の建立した廟院。頓証寺(とんしょうじ)という。■玉もて雕り-玉でもって飾り。■雕(ゑ)り-ちりばめる。■丹青-赤と青の絵具。■稜威-尊いご威光。■かの国-讃岐の国。■幣-神に祈るときに供える紙や布。また単に神への供え物。■斎う-慎んで神を祀ること。■なりけらし-「なり」は断定の助動詞。「けらし」は「けるらし」の略で「らし」は推量であるが、ここでは其の意味はなく、「ける」に添えて余情を持たせている。

参考文献一覧

本資料作成にあたり以下の文献を参考にしました。

・英草紙 西山物語・雨月物語・春雨物語

  一九九五年十一月十日 第一版第一冊発行
  ニ〇〇三年七月二〇日第一版第三冊発行
  発行所 小学館

・古典新釈シリーズ25 雨月物語

  一九七八年四月二十五日 初版発行
  ニ〇〇余年       重版発行
  著者 太刀川 清
  
・三省堂 全訳 読解古語辞典

  二〇十三年一月十日 第一冊発行

・完訳 日本の古典 第五十七巻 雨月物語 春雨物語

  昭和58年9月30日初版発行
  発行所 小学館

・マンガ 日本の古典 雨月物語

  一九九六年十二月十日初版印刷
  一九九六年十二月二十日初版発行
  著者 木原敏江
  発行所 中央公論社  

・図説日本の古典17 上田秋成   

  一九八九年八月二十三日 新装第一刷発行
  著者代表 松田 修
  発行所 株式会社 集英社

・雨月物語

  一九七六年三月三十日 初版発行
  一九九七年四月十日  5版発行
  原本所蔵者 国立国会図書館
  発行者   池嶋洋次
  発行所   (株)勉誠社

・日本の名作映画集28 雨月物語
 
  監督 溝口 健二
  出演 京マチ子/森雅之

・雨月物語(上)

  著者 青木政次
  1981年6月10日 第1冊発行
  1994年12月20日 第21冊発行
  発行所 株式会社講談社

・改訂版雨月物語

  発行者 青木誠一郎
  発行所 角川学芸出版
  平成十八年七月二十五日 初版発行
  平成十九年十月十五日  三版発行
  
・雨月物語

  校訂者 高田 衛・稲田篤信
  発行所 株式会社 筑摩書房
  一九九七年十月九日 第一刷発行

・雨月物語精読

  編者 稲田篤信
  発行所 勉誠出版(株)
  ニ〇〇九年四月一日 初版発行

朗読・解説:左大臣光永

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