菊花の約 七

           
五十(いそぢ)あまりの武士(もののべ)、廿(はたち)あまりの同じ出立(いでたち)なる、「日和(には)はかばかりよかりしものを、明石(あかし)より船もとめなば、この朝びらきに牛窓(うしまど)の門(と)の泊(とま)りは追(おふ)べき。若き男(をのこ)は却(けく)物(もの)怯(おびえ)して、銭おほく費(つひ)やすことよ」といふに、「殿(との)の上(のぼ)らせ給ふ時、小豆(あづき)島(じま)より室津のわたりし給ふに、なまからきめにあはせ給ふを、従(みとも)に侍(はべ)りしもののかたりしを思へば、このほとりの渡りは必ず怯(おびゆ)べし。な恚(ふくつみ)給ひそ。魚が橋の蕎麦(くろむぎ)ふるまひまうさんに」といひなぐさめて行く。

口とる男(をのこ)の腹(はら)だたしげに、「此の死(しに)馬(うま)は眼(まなこ)をもはたけぬか」と、荷(に)鞍(ぐら)おしなほして追ひもて行く。午(ひ)時(る)もややかたふきぬれど、待ちつる人は来らず。

西に沈(しづ)む日に、宿り急(いそ)ぐ足のせはしげなるを見るにも、外(と)の方(かた)のみまもられて心酔(よゑ)るが如し。老母左門を呼びて、「人の心の秋にはあらずとも、菊の色こきはけふのみかは。帰りくる信(まこと)だにあらば、空(そら)は時雨(しぐれ)にうつりゆくとも何をか怨(うら)むべき。入りて臥(ふし)もして、又翌(あす)の日を待つべし」とあるに、否(いな)みがたく、母をすかして前(さき)に臥(ふさ)しめ、もしやと戸(と)の外(そと)に出でて見れば、銀河(ぎんが)影きえぎえに、氷(ひよう)輪(りん)我のみを照(てら)して淋しきに、軒(のき)守(まも)る犬の吼(ほゆ)る声すみわたり、浦浪の音ぞここもとにたちくるやうなり。

現代語訳

五十くらいの武士が、二十くらいの同じ出で立ちの者に、「海の表面は、これほど穏やかなのに、明石から船に乗っていたら、この朝はやく船出して、今頃は牛窓港に向かっていたに違いない。若い男はかえって怖がって、銭を多く費やすことになるよなあ」というのに、「殿が上洛された時、小豆島から室津に渡られた時、海が荒れて酷い目にお遭いになったのを、お供に仕えていた者が語ったのを思えば、このあたりを渡る時は、必ず怯えるべきものです。お恨みなさいますな。魚が橋で蕎麦をふるまい申しましょう」と言って慰めて行く。

馬の口とる馬子は腹立たしげに、「この死に馬は眼も開けないのか」と、荷物を押し直して、馬を追いゆく。正午も少し過ぎたけれど、待っている人は来ない。西に沈む日に、宿へ急ぐ足のせわしげであるのを見るにつけても、外にばかり目が行って、心は酔っているようである。

老母が左門をよんで、「あの人の心変わりでさえなければ、菊の色の濃いのはなにも今日だけというわけではないよ。帰ってくる誠意さえあれば、空は時雨にうつりゆくとも、何を怨むことがあるかね。家に入って横になって、また明日を待ちなさい」というのを拒み難く、母を説得してさきに横にならせ、もしやと戸の外に出て見れば、銀河の光がところどころ消えて、冷ややかな月が自分のみを照らして寂しげな中、軒を守る犬のほえる声がすわたり、海岸の波の音がここまで押し寄せて来るようである。

語句

■日和(には)-海面、海上■出立(いでたち)なる-みなり。服装。「なる」(連体形)の下に「武士」の語を補って訳す。■朝びらき-朝早く船出すること。■牛窓の門-今の岡山県邑久郡牛窓町。「門」は海峡。■追ふべき-船を進める。■若き男-前の「廿(はたち)あまりの同じ出立(いでたち)なる」武士を指す。■却(けく)-かえって。■物(もの)怯(おびえ)して-こわがって。「物」はあることを漠然という。■わたり-渡海。渡船。■なまからきめ-手いどい目。さんざんな目。「なま」は接頭語。■従(みとも)に侍(はべ)りしものの-お供をした者。■必ず怯(おびゆ)べし-きっとこわがるでしょう。「べし」は推量の助動詞。■な恚(ふくつみ)給ひそ-怒ってはいけません。「な…そ」は禁止の表現。■「くろむぎ」は蕎麦(そば)の古名。■ふるまひまうさんに-ご馳走しますから。■口とる男-馬子。馬方。■死馬-つまずいたり、よろめいたりする馬を罵っていった言葉。ばか馬。■はたけ-大きくあける。馬がつまずいたりよろめいたのを居眠りでもしていたせいだと、眼を大きくあけろと罵ったのである。■荷(に)鞍(ぐら)-荷物を積むのに用いる鞍。■追ひもて行く-追いながら行く。■午(ひ)時(る)-正午。■まもられて-「目(ま)守(も)る」。目が行って。■心酔(よゑ)るが如し-心は酔ったように上の空である。■人の心の秋にはあらずとも-人の心が変りやすい秋の空のように、変ったのではなくとも。「秋」に「飽き」が掛詞になっている。■菊の色こきは-菊の花の色濃く咲くのは。「色こき」は「色こき日」の略で約束の堅いこと。■信だにあらば-誠実な心さえあれば。■「空は…うつる」は時候の推移をいう。■時雨-初冬、侘しく定めなく降る雨。「まこと」と「時雨」は縁語。■入りて臥しもして-家の中に入ってやすんで。「も」は強意の係助詞。■とあるに-といわれたので。■すかして-いいなだめて。一応は母に従うように見せて、母を安心させ先にやすませたのである。■銀河影きえきえに-「銀河」は天の川。「影」は、光で、星の光。天の川の星の光がいまにも消えそうに弱まった状態をいう。■氷(ひよう)輪(りん)- 月の異名。■浦浪の音ぞここもとにたちくるやうなり-夜分の静寂の中で、波の音がやたらに大きく聞こえるさま。

備考・補足

■小豆(あづき)島(じま)-香川県小豆島(しょうどしま)。■室津-今の兵庫県揖保郡御津町の南端にある港。瀬戸内海航路の要衝であった。■魚が橋-兵庫県高砂市阿弥陀町にあった古い宿駅。■加古の街道筋を行く旅人たちの会話・情景は、本筋に何の関係もないが、これを描くことで、赤穴を待ちながら、しだいに高まってゆく左門の心理・焦燥を効果的に述べる。

朗読・解説:左大臣光永


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