菊花の約 八

【GW中も好評配信中】最後の将軍・徳川慶喜~明治を生きたラストエンペラー ほか

  
月の光も山の際(は)に陰(くら)くなれば、今はとて戸(と)を閉(たて)て入らんとするに、ただ看(みる)、おぼろなる黒影(かげろひ)の中にありて、風の随(まにまに)來(く)るをあやしと見れば赤(あか)穴(な)宗(そ)右(う)衛門(ゑもん)なり。
      
躍(をど)り上がるここちして、「小弟(せうてい)疾(はや)くより待ちて今にいたりぬる。盟(ちかひ)たがはで来(きた)り給ふことのうれしさよ。いざ入らせ給へ」といふめれど、只点頭(うなづき)て物をもいはである。

左門前(さき)にすすみて、南の窓(まど)の下(もと)にむかへ座につかしめ、「兄(この)長(かみ)来り給ふことの遅(おそ)かりしに、老母も待ちわびて、翌(あす)こそと臥所(ふしど)に入らせ給ふ。寤(さま)させまゐらせん」といへるを、赤(あか)穴(な)又頭(かしら)を揺(ふり)てとどめつも、更(さら)に物をもいはでぞある。

左門云ふ。「既に夜を続(つぎ)て来(こ)し給ふに、心も倦(うみ)足も労(つか)れ給ふべし。幸(さいはい)に一杯(はい)を酌(くみ)て歇(やす)息(ませ)給へ」とて、酒をあたため、下物(さかな)を列(つら)ねてすすむるに、赤(あか)穴(な)袖をもて面(おもて)を掩(おほ)ひ其の臭(にほ)ひを嫌(いみ)放(さく)るに似たり。     

左門いふ。「井(せい)臼(きう)の力(つとめ)はた款(もてな)すに足(たら)ざれども、己(おの)が心なり。いやしみ給ふことなかれ」。赤(あか)穴(な)猶(なほ)答へもせで、長(ながき)嘘(いき)をつぎつつ、しばししていふ。       

「賢弟(けんてい)が信(まこと)ある饗応(あるじぶり)をなどいなむべきことわりやあらん。欺(あざむ)くに詞(ことば)なければ、実(じつ)を持て告(つぐ)るなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は陽(うつ)世(せみ)の人にあらず、きたなき霊(たま)のかりに形を見えつるなり」。
    
左門大いに驚きて、「兄長何ゆゑにこのあやしきをかたり出で給ふや。更に夢ともおぼえ侍らず」。
    

現代語訳

月の光も山陰に入って暗くなってきたので、今となっては仕方がないと思い、戸を閉めて家に入ろうとして、ふと見ると、ぼんやりとかすんだ黒い影の中に人の姿があって、風に吹かれてこちらにやってくるのを、不審に思って見ると、赤穴宗右衛門であった。

(左門は)うれしさのあまり躍り上がりたい気分で、「私は早くから(あなたが)来るのを待っていて、今になりました。約束を破らず、来てくれてありがとうございます。どうぞ、中に入ってください」と言うのに、赤穴はただうなずいて言葉を発しない。

左門は前へ進んで、座敷の窓際の座席に座らせ、「兄上が来られるのが遅かったので、母も待ちわびて、明日には来られるだろうと寝所に入りました。起こしてまいりましょう」と言うのに、赤穴は又頭を横に振って止めようとするが更に言葉を発しない。

左門が言う、「(これまで)夜を日に継いでおいでになり、心労もたまり、足もお疲れでしょう。まずは、一杯飲んで休んでください」と言って、酒を温め、肴を並べて準備をするのに、赤穴は袖で顔を隠し、その臭いを嫌い遠ざける様子であった。

左門が言う、「粗末な手料理は、おもてなしをするには、とてもじゅうぶんではありませんが、私の真心からのものです。どうか卑しいものと思わないでください」。赤穴はそれでも答えもしないで、長い吐息をついて、しばらくしてから言うには、「あなたの真心のこもったもてなしをどうして拒むことがありましょう。(あなたを)欺くにも言葉がありませんから真実を告白します。決して怪しまないでください。私は現世の人ではなく、穢れた死霊が仮の姿となって(この世に)現れたのです。

左門は大変驚き、「兄上はどうしてそんなおかしなことをいいだすのですか。(私には)少しも夢だとは思われません」。

語句

■今はとて-もうこれまでと思って。「とて」は「と思って」の略。■ただ看る-ふと見る。■黒影-「かげろひ」と読んで「陽炎」。ここは、ぼんやりかすんだ黒い影のこと。■隋-まにまに。■小弟-兄、先輩などに対する謙遜の自称。■いふめれど-いうけれども。「めれ」は推量の助動詞。婉曲表現によって、左門のうわずり、夢中な発語を表現。■点頭-うなずく。■南の窓の下-南面した座敷の窓下。すなわち、客室の正席。■兄長(このかみ)-兄上。■遅かりしに-遅かったので。■寤(さま)させまゐらせん-起こしてまいりましょう。■下物(さかな)-「さかな」は「酒魚(さかな)」「酒菜(さかな)」で肴。「な」は「菜」で副食物。■嫌(いみ)放(さく)るに似たり-嫌い遠ざける様子である。ここは現世の人ではなく、死霊であるからなまぐさいものを嫌う様子をするのである。■井(せい)臼(きう)の力(つとめ)-自分で井戸の水を汲み臼で米をつくことから、自分で煮炊きした粗末な手料理をいう。■はた-決して。■夜を続(つぎ)て-昼夜兼行で。■幸(さいはい)に-願わくば、の意。■歇息-漢語。休息、休憩のこと■袖で顔を隠し-魚の生臭い匂いを嫌うさま。■饗応-もてなし。馳走。■必ずしもあやしみ給ひそ-決して怪しまないでください。「そ」は禁止の終助詞。普通は「な…そ」と呼応するがここでは「そ」だけで禁止を表している。■陽(うつ)世(せみ)の人-現世の人。■きたなき-穢(けが)れたの意。■更に-全然、決して、全く、少しも。「更に…打消し」の形で。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永

【GW中も好評配信中】最後の将軍・徳川慶喜~明治を生きたラストエンペラー ほか