浅茅が宿 五

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妻涙をとどめて、「一たび離(わかれ)れまゐらせて後、たのむの秋より前(さき)に恐(おそろ)しき世の中となりて、里人は皆家を捨てて海に漂(ただよ)ひ山に隠(こも)れば、適(たまたま)に残りたる人は、多く虎狼(こらう)の心ありて、かく寡(やもめ)となりしを便(たよ)りよしとや、言(ことば)を巧(たく)みていざなへども玉と砕(くだけ)ても瓦(かはら)の全(また)きにはならはじものをと、幾たびか辛苦(からきめ)を忍(しの)びぬる。

銀河(ぎんが)秋を告(つぐ)れども君は帰り給はず。冬を待ち、春を迎へても消息(おとづれ)なし。今は京にのぼりて尋ねまゐらせんと思ひしかど、丈夫(ますらを)さへ宥(ゆる)さざる関の鎖(とざし)を、いかで女の越(こゆ)べき道もあらじと、軒端(のきは)の松にかひなき宿に、狐(きつね)・梟(ふくろう)を友として今日までは過しぬ。今は長き恨みもはればれとなりぬる事の嬉(うれ)しく侍(はべ)り。逢(あふ)を待間(まつま)に恋(こ)ひ死なんは、人知らぬ怨みなるべし」と、又よよと泣(なく)を、「夜こそ短きに」といひなぐさめてともに臥(ふし)ぬ。

窓(まど)の紙(かみ)、松風(まつかぜ)を啜(すす)りて夜もすがら涼しきに、途(みち)の長手(ながて)に労(つか)れ熟(うま)く寝(いね)たり。五更(ごかう)の天(そら)明(あけ)ゆく比(ころ)、現(うつつ)なき心にもすずろに寒かりければ、衾(ふすま)被(かつが)んとさぐる手に、何者にやさやさやと音するに目ざめぬ。

面(かほ)にひやひやと物のこぼるるを、雨や漏(もり)ぬるかと見れば、屋根は風にまくられてあれば有明月(ありあけづき)のしらみて残りたるも見ゆ。家は扉(と)もあるやなし。簀垣(すがき)朽(くち)頽(くづれ)たる間(ひま)より、萩(はぎ)・薄(すすき)高く生出(おひい)でて、朝露うちこぼるるに、袖湿(ひじ)てしぼるばかりなり。壁(かべ)には蔦(つた)・葛(くず)延(はひ)かかり、庭は葎(むぐら)に埋(うづも)れて、秋ならねども野らなる宿(やど)なりけり。さてしも臥(ふし)たる妻はいづち行きけん見えず。狐などのしわざにやと思へば、かく荒れ果てぬれど故(もと)住みし家にはたがはで、広く造(つく)り作(なせ)し奥わたりより、端(はし)の方、稲倉(いなぐら)まで好みたるままの形(さま)なり。

呆自(あきれ)て足の踏所(ふみど)さへ失(わす)れたるやうなりしが、熟(つらつら)おもふに、妻は既(すで)に死(まかり)て、今は狐狸(こり)の住みかはりて、かく野らなる宿となりたれば、怪(あや)しき鬼(もの)の化(け)してありし形(かたち)を見せつるにてぞあるべき。若(もし)又我を慕(した)ふ魂(たま)のかへり来りてかたりぬるものか。

思ひし事の露たがはざりしよと、更に涙さへ出でず。我が身ひとつは故(もと)の身にしてとあゆみ廻(めぐ)るに、むかし閏房(ふしど)にてありし所の簀子(すのこ)をはらひ、土(つち)を積みて塚(つか)とし、雨露(あめつゆ)をふせぐまうけもあり。夜(よべ)の霊(れい)はここもとよりやと恐ろしくも且(かつ)なつかし。

現代語訳

妻は涙を抑えて、「ひとたびお別れした後、頼みにして(待っていた)秋より前に、恐ろしい世の中になって、里の人は皆家を捨てて、海に(船で)漂い(逃げたり)、山に隠れたので、たまたま残った人は、多くの人が恐ろしく残虐な心の持ち主で、このように寡になった(私を)好都合に思ってか、言葉巧みに誘惑してきましたが、玉のように(清く操を守って)死ぬことがあっても、瓦のように汚れて(不義をして)生き永らえるようなことはしまいと、何度もつらいことに耐えてきました。

天の川が秋が来たことを知らせても、貴方はお帰りにならず、冬を待ち、春を迎えても(あなたの)お便りはありません。こうなったうえは京にのぼり尋ねていこうと思いましたが、男ですら許されない関の通過を、どうして女が越える手段があろうかと、軒端の松のように待っても甲斐のないこの家で狐や梟を友として今日まで過ごしてきました。(貴方と逢えた)今では長い間の恨みも(消えて)晴れ晴れとなり嬉しくなりました。(古い歌にあるように)逢えるのを待っている間に焦がれ死にをしてしまったら(その気持ちが相手に伝わらず)恨めしいことでしょう」と、又、声をあげて泣くのを「夜は短いのだよ」と言い慰めて、一緒に床に入った。

窓の(障子の)隙間から、松をわたる風が吹き込んで、一晩中涼しく、(勝四郎は)長い道中の疲れでぐっすりと寝入った。明け方の空が白んでくるころ、夢心地にもなんとなく寒かったので、夜具を肩に被ろうと探る手に、何かがさやさやと音がするので目が覚めた。

顔にひやひやとしたものがこぼれ、雨が漏るのであろうかと見ると、屋根は風にまくられており、(そこから)有明の月が白んで残っているのが見える。家は扉があるのかないのかわからない(ような荒れよう)である。簀垣が朽ち崩れている隙間から、萩や薄が高く生え出しており、それについた朝露がこぼれ、絞れるほど袖を濡らしていた。壁には蔦や葛などが這いかかって、庭は葎(むぐら)に埋もれ、秋でもないのに、さながら草深い野辺の家の様であった。それにしても傍に寝ているはずの妻はどこへ行ったのか見当たらない。狐などの仕業かと思ってみても、このように荒れ果ててはいるが元のままの我が家に間違いはなく、広々と造った奥の間から端の方の稲倉まで自分の好みで作ったままの形である。

唖然として(自分が)どこにいるか忘れてしまいそうに途方に暮れてしまったが、つくづく考えてみると、妻は既に死んでおり、元の家もいまでは狐や狸の住処に変り、このように野辺の家になっているので、怪しい物が化けて(妻が)生きているときの姿をして見せたのであろうか。私を慕う(亡妻の)魂が(あの世から)帰って来て(夫婦の)語らいをしたのだろうか。

それなら予想していたことと全く違ってはいなかったことよと、涙も出ない。「わが身ひとつはもとの身にして」と家の内を歩き回る。むかし寝室があった所の簀子を払うと、土を積み上げて塚とし、雨露を凌ぐ設けもしてある。昨夜の亡霊はここから(現れたの)かと(思うと)恐ろしくもあるが同時に懐かしくもある。

語句

■離(わかれ)れまゐらせて-お別れしたのち。「まゐらせ」は謙譲の補助動詞。■たのむの秋-逢うことを頼みにして待っていた秋、の意。宮木は、秋には帰るという夫の言葉を頼みにして一人で暮らしていたのである。■虎狼(こらう)の心-恐ろしく残忍な心。■寡(やもめ)-寡婦。やもめ。■便り-都合のよいこと。都合のよい機会。■よしとや-「よし」は形容詞の終止形。「と」は係助詞、「や」は係助詞(係ことば)(結びの省略)■玉と砕(くだけ)ても瓦(かはら)の全(また)きにはならはじものを-玉のように清く操を守って死ぬことがあっても、瓦のように汚れて不義をして生き永らえるようなことはしまい。「ものを」は感動を表す。■辛苦(からきめ)を忍(しの)びぬる-つらいことに耐えてきた。■銀河(ぎんが)秋を告(つぐ)れども-天の川が秋の来たことを知らせても。「銀河」は「天の川」。■丈夫さへ-男ですら。「さへ」は類推を表す副助詞。■軒端(のきは)の松に-「松」に「待つ」を掛ける。-軒端の松のように待っても。■逢(あふ)を待間(まつま)に恋(こ)ひ死なんは-逢うのを待っている間に恋死にをしてしまったら■人しらぬ恨みなるべし-その気持ちが相手に伝わらず恨めしいことでしょう。■よよと-(副)しゃくりあげて泣くさま。おいおい。■ともに臥(ふし)ぬ-夫婦の交情があったとみるのが自然であろう。■松風(まつかぜ)を啜(すす)りて-風の吹きこむ表現。■長手(ながて)-「ながち(長道)」と同じ。長く遠い道のり。遠路。■五更-午前四時~六時。■すずろに-なんとなく。■雨や降りぬるか-雨が漏るのであろうか。「や」は疑問の係助詞であるが、下の「か」も疑問の意を表すから、感動の意と考えてよい。■有明月-夜が明けてもまだ空に残っている月。■扉(と)もあるやなし-戸があるのかないのかわからないようである。■簀垣(すがき)-簀子状に竹・板を並べた床。■蔦(つた)・葛(くず)-蔦と葛だが、ここでは蔓草(つるくさ)のいろいろを指す。■葎(むぐら)-あかね科の草で八重葎などの総称だが、前項同様ここでは雑草一般。■野ら-野と同じ。■さてしも-それにしても。「しも」は強意の副助詞。■広く造り作せし-広々と造った。「し」は過去の助動詞。■好みたるままの-自分の好みで作ったままの。■奥わたり-奥の間あたり。■稲倉-稲を収める倉庫。■呆自(あきれ)て足の踏所(ふみど)さへ失(わす)れたるやうなりし-唖然として突っ立っている表現。■ありし形-生前の妻の姿。■かたりぬるものか-単に「話した」というだけでなく、夫婦の情を交したことをさす。■更に涙さえ出でず-「更に」は下に打消しの語を伴って、全くの意。■我が身ひとつは故の身にして-自分の身体だけはもとのままでいて、愛する人はすでにいない。「して」の「し」は本来サ変動詞であったが、すでにこの語の動詞としての内容が認められないときは、「して」を一語と考え、接続助詞として扱う。■閏房(ふしど)-寝室。■簀子-竹を並べた縁のことであるが、ここは板敷の床。■塚-土を高く盛って築いた墓。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永

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