浅茅が宿 六
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水向(みずむけ)の具(ぐ)物せし中に、木の端(はし)を刪(けづ)りたるに、那須野紙(なすのがみ)のいたう古(ふる)びて、文字もむら消(ぎえ)して所々見定めがたき、正(まさ)しく妻の筆の跡なり。法名(ほふみやう)といふものも年月もしるさで、三十一字に末期(いまは)の心を哀れにも展(のべ)たり。
さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か
ここにはじめて妻(め)の死(しし)たるを覚(さと)りて、大(おほ)いに叫びて倒(たふ)れ伏す。去(さり)とて何(なに)の年(とし)何(なに)の月日(つきひ)に終(をは)りしさへしらぬ浅ましさよ。人はしりもやせんと、涙をとどめて立ち出づれば、日高くさし昇(のぼ)りぬ。
先(ま)ずちかき家に行きて主(あるじ)を見るに、昔見し人にあらず。かへりて「何国(いづく)の人ぞ」と咎(とが)む。勝四朗礼(ゐや)まひていふ。「此の隣なる家の主(あるじ)なりしが、過活(わたらひ)のため京(みやこ)に七とせまでありて、昨(きそ)の夜帰りまゐりしに、既に荒廃(あれすさみ)て人も住(すま)ひ侍らず。妻(め)なるものも死(まかり)しと見えて塚(つか)の設(まうけ)も見えつるが、いつの年にともなきにまさりて悲しく侍り。しらせ給はば教(をしへ)給へかし」。主(あるじ)の男いふ。「哀れにも聞え給ふものかな。我(わが)ここに住むもいまだ一とせばかりの事なれば、それよりはるかの昔に亡(うせ)給ふと見えて、住み給ふ人のありつる世はしり侍らず。すべて此の里の旧(ふる)き人は兵乱(ひやうらん)の始(はじめ)に逃失(にげうせ)て、今住居する人は大かた他(ほか)より移り来たる人なり。只一人(ひとり)の翁(おきな)の侍(はべ)るが、所に旧(ひさ)しき人と見え給ふ。時々(をりをり)あの家にゆきて、亡(うせ)給ふ人の菩提(ぼだい)を弔(とぶら)はせ給ふなり。此の翁こそ月日をもしらせ給ふべし」といふ。
勝四郎いふ。「さては其の翁の栖(すみ)給ふ家は何方(いづべ)にて侍るや」。主(あるじ)いふ。「ここより百歩ばかり浜の方に、麻(あさ)おほく種(うゑ)たる畑の主(ぬし)にて、其所(そこ)にちひさき庵(いほり)して住ませ給ふなり」と教ふ。
勝四郎よろこびてかの家にゆきて見れば、七十可(ななそぢばかり)の翁の、腰は浅ましきまで屈(かがま)りたるが、庭竈(にはかまど)の前に円座敷(わらうだしき)て茶を啜(すす)り居(を)る。翁も勝四郎と見るより、「吾主(わぬし)、何とて遅く帰り給ふ」といふを見れば、此の里に久しき漆間(うるま)の翁(おきな)といふ人なり。
現代語訳
供えてあった手向(たむ)け水の器の間に、塔婆がわりの木片の端を削ったものに、古びた那須野紙を張り付けた物が見え、文字もところどころ消えて、はっきりと読めない状態であるが、(よくよく見ると)正に妻の筆の跡である。法名も死去した年月も書かれず、三十一文字の短歌に死ぬ間際の心を悲しく述べている。
さりともと
(それでもいつかは帰って来ると待ちわびる、その我が心に欺かれ、よくも今日まで生き永らえてきたものよ)
(勝四郎)は、その歌を詠んだとき、(その悲しみが伝わって)はじめて妻の死を如実に覚り、大声で叫び哭き倒れた。それにしても(妻が)死んだ時期もわからず情ない。しかし、知っている人もあるだろう、その人に尋ねてみようと思い、涙をぬぐい、(その場から)外に出ると、日は(すでに)高く昇っていた。
まづ近くの家を訪ねて、主を見ると、昔住んでいた人ではなかった。反対に「(貴方は)何処の国の方か」と聞き返される。勝四郎は丁寧に挨拶をして、「ここの隣に住んでいた者ですが、渡世のため、京に七年居りましたが、昨晩帰って来て見ますと、家は荒廃し、人も住んでおらず、妻は死んだと見えて塚が築かれているのですが、いつの年に死んだのかわからずいっそう悲しんでおります。ご存じであれば教えていただきたい」と言う。
その家の主が言う。「それは御気の毒な話です。私はここに住んで一年足らずしか経たず、(隣の人は)それより以前に亡くなられたと見えて其の人の生前の事はわかりません。すべて、此の里の古い人は兵乱が始まったときに逃げてしまい、今居る人はほとんどがほかの国から移り住んだ人ですよ。只一人の老人がおられますが、この人なら昔のことをご存知でありましょう。この土地に長く住んでいる人と見えて、時々、あの家(勝四郎が住んでいた家)に行って、亡くなった人の菩提を弔っておられますよ。此のご老人なら(貴方の妻の)亡くなられた月日を(貴方に)教えていただけるでしょう」と言う。
勝四郎は言う。「それでは、その老人の住んでおられる家はどちらですか」と、主言う。「ここから百歩ほどいった浜の方に麻を多く植えた畑(がありますが、そ)の持ち主で、そこに小さな庵を作って住んでおいでです」と教えた。
勝四郎は喜び、その家に行って見ると、腰が驚くほど曲がった七十歳ほどの老人が、庭竈の前に円座を敷いてお茶を飲んでいる。老人も勝四郎を見るやいなや、「そなた、どうしてこんなに遅く帰って来たのじゃ」と言う(その)人を見ると、此の里に長く住んでいる漆間の翁という人であった。
語句
■水向(みずむけ)の具(ぐ)-墓前に供える水の容器。■物せし-供えてある。「物す」は、物事をする、ある動作をする、の意の代動詞というべきもので、ここは「供ふ」の意。■木-塔婆(墓標)がわりの木片。■那須野紙(なすのがみ)-栃木県那須野地方烏山から産する和紙で、紙質が厚く丈夫である。■むら消して云々-ところどころ消えてはっきり読めない状態。■所々見定めがたき-那須野紙の様子をいったもので、「見定めがたきものなるが、それは」の意味に考えてよい。■三十一字-短歌。五・七・五・七・七の歌体。■末期(いまは)-「今は限り」の意で死に際。■「さりともと」の歌。「さりとも」は、それにしても。夫は秋には帰ってくると言って出かけて行ったが、ついに帰って来なかった。それにしても、の意。「はかられて」は「欺かれて、の意。自分が自分に欺かれたのである。「世にも」は「この世にも」の意と副詞「いかにも」を掛けた表現。■ここに-この歌を見て。■はじめて妻の…-勝四郎にはまだ現とも夢ともつかず、事の実相が判断できぬ気持であった。妻の遺筆を見て、やっと妻の死を実感したのである。■去(さり)とて-それにしても。■人は知りもやせんと-知っている人もあるだろうと。此の後に「その人に尋ねてみようと思って」の意を補って訳す。「や…ん」は係結び。■過活(わたらひ)-渡世。生計。生業。■礼(ゐや)まひて-丁寧に挨拶をして。「ゐやまふ」は「うやまふ」の古語。■いつの年にともなきに-いつの年死んだとも記されていないので。■教へ給へかし-教えていただきたい、「かし」は、強意の終助詞で、一度文や句につづけて念を押すときに用いる。■主の男-隣の家の主人のこと。■哀れにも聞え給ふものかな-「聞え」は「言う」の丁寧語。お気の毒な事をおっしゃるものですなぁ。■ありつる世-生きていた時。生前。■所に旧しき-この土地に長く住んでいる人。■給ふべし-ここの「べし」は文法上は「べけれ」となるのが正しいが、秋成はたびたび文法上の決まりを無視してこのように終止形で結んでいる。秋成の特殊語法の一つとみてよい。■菩提-煩悩を断って悟り得た無上の境地。仏果を得て極楽往生すること。■百歩-一歩は約六尺(一間)ゆえ、約180メートル。■庵して-庵を作って。「庵」は小屋くらいの意。■浜-昔、真間は真間山の下まで海が来ている入り江であった。この物語でも「浜」が近いことを予定して書かれている。■麻-下総は、古来、麻の産地であった。■浅ましきまで-びっくりするほど。■庭竈(にはかまど)-ここでは土間に設けられた竈。「庭」は「土間」。■円座-藁(わら)や藺(い)・菅(すげ)などを渦型に、丸く平たく編んだ敷物。普通、板敷の室内で使い、「えんざ」とも。■見るより-見るやいなや。■吾主(わぬし)-対象代名詞。そなた、あなた。■漆間-架空の人物だが、作者秋成がよく知っていた神崎の遊女塚伝説に因んで法然上人の俗姓「漆間氏」を利用したとも考えられる。別に「うるま」は琉球の意を持つことに着想を得たとの説や、加藤宇万伎の紀行文にある「うるま」から得たとする説がある。
備考・補足
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雨月物語 現代語訳つき朗読