蛇性の婬 五

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豊雄、「財(たから)を費(つひや)して買(かひ)たるにもあらず。きのふ人の得(え)させしをここに置(おき)しなり」。太郎、いかでさる宝をくるる人此の辺(あたり)にあるべき。あなむつかしの唐言(からこと)書(かき)たる物を買ひたむるさへ、世の費(つひえ)なりと思(おも)へど、父の黙(だま)りておはすれば今までもいはざるなり。其の太刀帯(たちおび)て大宮(おほみや)の祭(まつり)を練るやらん。いかに物に狂(くる)ふぞ」といふ声の高きに、父聞きつけて「従者(いたづらもの)が何事をか仕出(しい)でつる。ここにつれ来よ、太郎」と呼(よぶ)に、「いづちにて求ぬらん、軍将等(いくさぎみら)の佩(はき)給ふべき輝々(きらきら)しき物を買ひたるはよからぬ事、御目(おま)のあたりにて召(めし)て問ひあきらめ給へ。おのれは網子(あご)どもの怠るらん」と言ひ捨てて出でぬ。

母豊雄を召(めし)て、さる物何の料(れう)に買ひつるぞ。米も銭も太郎が物なり。吾主(わぬし)が物とて何をか持ちたる。日来(ひごろ)は為(なす)ままにおきつるを、かくて太郎に悪(にく)まれなば、天土(あまつち)の中に何国(いづく)に住むらん。賢(かしこ)き事をも学(まな)びたる者が、など是ほどの事わいだめぬぞ」といふ。豊雄、「実(まこと)に買ひたる物にあらず。さる由縁(ゆゑ)有りて人の得(え)させしを、兄の見咎(みとがめ)てかくの給ふなり」。

父、「何の誉(ほまれ)ありてさる宝(たから)をば人のくれたるぞ。更におぼつかなき事。只今所縁(いはれ)かたり出でよ」と罵(ののし)る。豊雄、「此の事只今は面俯(おもてぶせ)なり。人伝(ひとづて)に申し出で侍らん」といへば、「親兄にいはぬ事を誰にかいふぞ」と声あららかなるを、太郎の嫁の刀自(とじ)傍(かたへ)にありて、「此の事愚(おろか)なりとも聞き侍らん。入らせ給へ」と宥(なだ)むるに、つひ立ちていりぬ。

豊雄、刀自にむかひて、「兄の見咎(みとがめ)め給はずとも、密(みそか)に姉君をかたらひてんと思ひ設(まうけ)けつるに、速(はや)く責(さい)なまるる事よ。かうかうの人の女(め)のはかなくてあるが、『後見(うしろみ)してよ』とて賜(たま)へるなり。己(おの)が世しらぬ身の、御赦(ゆるし)さへなき事は重(おも)き勘当(かんだう)なるべければ、今さら悔(くゆ)るばかりなるを、姉君よく憐(あはれ)み給へ」といふ。

刀自(とじ)打ち笑(ゑみ)て、「男子(をのこご)のひとり寝(ね)し給ふが、兼ねていとほしかりつるに、いとよき事ぞ。愚也(おろかなり)ともよくいひとり侍らん」とて、其の夜太郎に、「かうかうの事なるは幸(さいはひ)におぼさずや。父君の前をもよきにいひなし給へ」といふ。

現代語訳

豊雄は、「金銭を使って買ったものではございません。昨日、他人がくれたものをここに置いておいたのです」。太郎、「どうしてこんな宝物をくれる人が此の辺りにいるものか、しち難しい漢字で書いた本を買い揃えるのでさえ、浪費ではないかと思うのだが、父上が何もおっしゃらないので今まで何も言わなかったのだ。其のうえにこの太刀だ。其の太刀を帯て大宮の祭りを練り歩くつもりか。何という分別の無いことをする」といって叱りつける声が高かったのを、父は聞きつけ、「厄介者が何をしでかしたのだ。ここに連れてきなさい。太郎」と呼ぶのに、(太郎は)、「どこで手に入れたのでしょうか。武将たちが佩くような太刀を買ったのは、もってのほか。どうか目の前に呼び付けて、問いただしてください。私は網子たちが怠けるので浜に行きます」と言い捨てて出て行った。

母は豊雄を呼び付け、あの刀何をするために買い込んだのですか?米も銭も財産はすべて太郎の物。おまえの物と言って何があります。日頃、好きなようにさせているのに、こんなことで太郎に恨まれたら、この広い世の中のどこにおまえの住む場所があるというのですか。儒学をも学んだ利口者が、どうしてこのように分別がないのですか」と言う。豊雄、「本当に買ったものではございません。あるわけがあって人がくれた物を、兄上が見咎めてお叱りになったのです」。

父、「どんな手柄を立てて、あの宝物を他人がくれたというのだ。まったく理解に苦しむことだ。さあ、この場でその次第を語ってみよ」と大きな声を出す。豊雄、「この事は、今ここで言うのは恥しいです。人伝に申し上げます」と言うと、「親や兄にも言わぬことを誰に向って言うつもりだ」と声を荒げるのを、ちょうど兄嫁が傍に居て、「此の事、愚かな事とは思いますが私が伺いましょう。こちらにお入りなさい」と仲をとりなし、豊雄は急いで別室に入った。

豊雄は兄嫁に向い、「兄上に見咎められなくてもこっそり義姉上(あねうえ)にご相談したいと思っておりましたのに、さっそくに叱られてしまいました。実はかくかくしかじかの素性の人の未亡人で心細く暮らしている人が、『夫となって世話をしてほしい』といって贈られたのを受け取ってしまったのです。ひとり立ちもしていない身で赦しのない夫婦約束は、重い勘当に値することでしょうから、今更悔やむばかりですが、姉上どうかお察しください」と言う。

義姉は笑って、「成人した男子のひとり寝は、前々から気の毒に思っていたので、とても結構な事ではありませんか。ふつつかですが私がうまく言ってあげましょう」と言って、その晩太郎に、「かくかくしかじかのことですが、まあもっけの幸いとは思いませんか。父上のまえでもよろしく取り計らってくださいませ」と言う。

語句

■財(たから)-金銭。■得させし-くれた。■唐言書きたる物-漢字を書いた本、漢籍。家業一点張りの無教養な兄の性格を表す。■大宮(おほみや)-新宮速玉神社を「大宮様」と言う。その大祭は旧暦九月十五日。■練る-練り歩く。■従者(いたづらもの)-何の役にも立たない者。無用者。次男豊雄の家族内の位置がわかる。■太郎-長男の意だが、それを人名のように使用している。■軍将(いくさぎみ)-武将。■何の料(れう)に-何にするために。■米も銭も太郎が物なり-長子家督相続制である。長子相続性は中世以降の家族制度。■賢(かしこ)き事-儒学。■わいだめる-わきまえる。弁別する。■由縁(ゆゑ)-理由。■誉(ほまれ)-手柄。■所縁(いはれ)-理由。■罵(ののし)る-声を荒くして言うの意。■刀自(とじ)-主婦の称。「家の内第一の女をさして、戸自(とじ)といへり。それより転じて女の通称となれり」(雨夜物語たみことば)。■面俯(おもてぶせ)-(名)面目ないこと。不名誉。恥しいこと。■宥(なだ)むる-親の怒りをなだめ、豊雄との間をとりもったことをさす。■つひ-動詞に添う接頭語。「急いで」の意。■かうかうの-かくかくしかじかの。真女児の素性について説明したのである。■己が世しらぬ-独立した一家を持てない親がかりした状態。■御赦(ゆるし)さへなき事-親の許可なしでの婚姻。■勘当-親の認めぬ婚姻は、「密通」「私通」とされ、親権者の制裁の対象とされるのが、作者の時代の一般的常識であった。「勘当」は、近世では子弟の放逐を言うが、本篇の世界では厳しい叱責を意味する。■悔(くゆ)るばかり-後悔するばかり。豊雄の意志の弱い、無定見な若さ、幼さが現われている。■男子-単なる「男子」なのではなく、成人して嫁を迎える年齢に達した男をいう。■幸に-好機、の意。もっけのさいわい。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永

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