蛇性の婬 六

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太郎眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、「あやし。此の国の守の下司(しもづかさ)に県(あがた)の何某(なにがし)と言ふ人を聞かず。我が家保正(をさ)なればさる人の亡(なく)なり給ひしを聞えぬ事あらじを。まづ太刀ここにとりて来よ」といふに、

刀自やがて携(たづさ)へ來るを、よくよく見をはりて、長嘘(ためいき)をつぎつつもいふは、「ここに恐ろしき事あり。近来(ちかごろ)都の大臣殿(おほいどの)の御願(ごぐわん)の事みたしめ給ひて、権現におほくの宝(たから)を奉り給ふ。さるにこの神宝(かんだから)ども、御宝蔵(みたからぐら)の中にて頓(とみ)に失(うせ)しとて、大宮司(だいぐじ)より国の守(かみ)に訴(うったへ)出で給ふ。守(かみ)此の賊(ぬすびと)を探(さぐ)り捕(とら)ふために、助(すけ)の君(きみ)文室(ふみや)の広之(ひろゆき)、大宮司(だいぐじ)の舘(たち)に来りて、今専(もっぱら)に此の事をはかり給ふよしを聞きぬ。此の太刀いかさまにも下司(したづかさ)などの帯(はく)べき物にあらず。猶父に見せ奉らん」とて、御前に持ちいきて、「かうかうの恐ろしき事のあなるは、いかが計(はか)らひ申さん」とて、いふ。

父面(おもて)を青くして、「こは浅ましき事の出できつるかな。日来(ひごろ)は一毛(もう)もぬかざるが、何の報(むくひ)にてかう良(よか)らぬ心や出できぬらん。他よりあらはれなば此の家をも絶(たや)されん。祖(みおや)の為子孫(のち)の為には、不幸の子一人惜(をし)からじ。明(あす)は訴(うつた)へ出でよ」といふ。

太郎夜の明くるを待ちて、大宮司(だいぐじ)の館(みたち)に来り、しかじかのよしを申し出でて、此の太刀を見せ奉るに、大宮司驚(おどろ)きて、「是なん大臣殿(おほいどの)の奉(たてまつ)り物なり」といふに、助聞き給ひて、「猶失(うせ)し物問ひあきらめん。召捕(めしとれ)」とて、武士(もののふ)ら十人ばかり、太郎を前(さき)にたててゆく。豊雄、かかる事をもしらで書(ふみ)見ゐたるを武士ら押(おし)かかりて捕(とら)ふ。「こは何の罪ぞ」といふをも聞き入れず縛(から)めぬ。

父母太郎夫婦も今は「浅まし」と嘆(なげき)まどふばかりなり。「公庁(おほやけ)より召給ふ。疾(と)くあゆめ」とて中にとりこめて館に追ひもてゆく。助、豊雄をにらまへて、「爾(なんじ)神宝(かんだから)を盗(ぬすみ)とりしは例(ためし)なき国津罪(くにつつみ)なり。猶(なほ)種々(くさぐさ)の財(たから)はいづちに隠したる。明らかにまうせ」といふ。豊雄漸(やや)此の事を覚(さと)り、涙を流して、「おのれ更に盗をなさず。かうかうの事にて県(あがた)の何某(なにがし)の女(め)が、前(さき)の夫(つま)の帯(おび)たるなりとて、得させしなり。今にもかの女召(めし)て、おのれが罪なき事を覚らせ給へ」。

助(すけ)いよよ怒(いか)りて、「我が下司(しっもづかさ)に県(あがた)の姓(かばね)を名のる者ある事なし。かく偽(いつは)るは刑(つみ)ますます大なり」。豊雄、「かく捕(とら)はれていつまで偽るべき。あはれかの女召して問はせ給へ」。助(すけ)、武士らに向ひて、「県(あがた)の真女児(まなご)が家はいづくなるぞ。渠(かれ)を押して捕(とら)え来れ」といふ。

現代語訳

太郎は眉(まゆ)を顰め、「それは変だ。此の国の国司の役人に県(あがた)の何某(なにがし)という人は聞いたことがない。我が家は庄屋だから、其の人がもし亡くなったのなら、そのことが耳に入らないことはない。とにかく、其の太刀を取ってここに来なさい」と言うのに、

兄嫁がすぐに持って来たのを、じっくり見て、溜息をつきながら言うには、「実は恐ろしい話がある。近頃、都の大臣が願いがかなったとのことで、熊野権現に沢山の宝物を奉納された。それなのに、これら数々の宝物が、御宝蔵の中で突然消え失せたと、大宮司が国司に訴え出たそうだ。国司がこの盗賊を探して捕えるために派遣した、次官の文室広幸が大宮司の舘に着き、今、神宝の探索にとりかかっているそうだ。この太刀はどうみても下っ端の役人が佩くような代物ではない。猶、親父様に見てもらおう」といって、父の御前に持っていき、「しかじかの恐ろしいことがあります。どうしましょう」と言った。

父は真っ青になり、「これは浅ましいことが起きてしまった。(豊雄め、)日来は(他人から)一毛も抜かないのに、何の因果でこんな悪い出来心を起こしたのだろうか。他から発覚したら此の家は一家断絶になろう。先祖の為、子孫の為には、出来の悪い子が惜しいことはない。明日は(国司に)訴えて出なさい」と言う。

太郎は夜が明けるのを待って、大宮司の舘に行き、しかじかの事柄を申し出て、此の太刀を見せると、大宮司は驚き、「これこそ確かに大臣様が献上された物だ」と言う。次官の文室広幸はこれを聞き、「なお、そのほかの盗品を問いただすのだ。(その男を)召捕れ」と命じ、十人ほどの武士が太郎を案内役にして大宅家へ向かった。
豊雄はこのようなことが起きていることもしらず、書物を読んでいたのを武士たちが押し重なって捕えた。「これは何の罪ですか」と言うのを聞き入れず縛り上げた。

父母、太郎夫婦も今は、「浅ましい」と嘆き悲しむばかりであった。「お守の命令により召し捕える。早く歩け!」と、武士たちは豊雄を真ん中に取り囲んで舘に追いたてていく。(舘では)次官は豊雄をにらみつけて、「汝、神宝を盗み取るとは、前例のない大罪である。そのうえ、ほかの数々の宝はどこに隠したのだ。はっきりと申し立てよ!」と言う。豊雄は、次第に事の重大さを覚りはじめ、涙を流して「私は決して盗みなどしておりません。しかじかの事で、県の何某の妻が、前夫の持っていたものですといって私にくれたものなのです。今すぐにでもあの女を召捕り、私が無実であることを確かめてください」。

次官はますます怒って、「自分の下役に県の姓を名のる者がいたことはない。そのように偽りを重ねるとますます罪が大きくなるぞ」。豊雄は、「このように捕えられていつまで嘘をつきましょうか。ああどうかあの女を呼んで聞いてください」。次官は武士らに向って、「県の真女児の家はどこか。その女を無理にでも捕えて参れ」と命令する。

語句

■保正(をさ)-庄屋、里の長。■聞えぬ事あらじを-耳に入らないこと。「あらじ」で二重否定の語法。■長嘘をつぎつつも-嘆息しながら。困った様子の形容。■みたましめ給ひて-「満たす」。願いのかなうこと。■権現-ここでは新宮速玉神社を指す。熊野権現。■御宝蔵-史実上は新宮には独立した宝物殿は近世以前にはなかったという。■大宮司(だいぐじ)-神社の神官の長。■国の守(かみ)-朝廷任命の一国地方官の長。真女児が言った「受領」と同じ。■助(すけ)-正しくは「介」。国司の次官。■文室(ふんや)-架空の人物であろう。文屋宮田麻」など「文屋」姓は古代官僚に多い。■館(たち)-やかた。■此の事-神宝盗賊の探索。■いかさまにも-どう見ても。■御前に-父の。■あなる-「あるなる」の約。■一毛をもぬかざる-少しも盗みをしないことの比喩。■他(ほか)より-家族以外の他人の口から。■あらはれ-露呈する。■絶(たや)されん-神社に対する破壊・盗みは大罪。連座制により本人だけでなく、家までが断絶することを指す。■不幸の子-豊雄のこと。「家」の存続を至上とするのが家父長制度であり、そのためには進んで権力に子弟を売り渡すのもやむを得なかった。■是なん-これこそ確かに。「是なん」の結びは「なる」が普通。■問ひあきらめん-糾明しよう。■押かかりて-捺し重なって。重大犯だから手厳しく逮捕したのである。■公庁-国司の役所。■追いもてゆく-追いたてて行く。■国津罪-本来は「天津罪」に対する語であるが、その罪の範囲は明らかではない。ここでは国法を犯した罪ぐらいの意であろう。■漸(やや)此の事を覚(さと)り-次官に責められて次第に事情がわかってきたのである。■今にも-今すぐにでも。■姓(かばね)-「姓」は古代では、家筋、職名を示すもの。ここでは、家名を意味する「氏」と同意に用いている。■ある事なし-「ありし事なし」の意。■あはれ-悲鳴の効果を持たせながら、ここでは懇願の意を表す語。■かれ-「かの女」を指す。豊雄を指すとする説もある。■押して-無理やり。

備考・補足

■豊雄の危機を通して、あまりにも甘美であった真女児とのめぐり逢いは、一挙に不吉なものとして印象付けられる。容易に理解されないにもかかわらず、豊雄には必死に事実を述べて弁解するしかない。彼にはこの受難も半は自らが招いたものであることすら気がつかない。

朗読・解説:左大臣光永

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