蛇性の婬 十

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何某(なにがし)の院(ゐん)はかねて心よく聞えかはしければここに訪(とむ)らふ。主(あるじ)の僧迎へて、「此の春は遅(おそ)く詣(まうで)給ふことよ。花もなかばは散り過ぎて鶯の声もやや流(なが)るめれど、猶(なほ)よき方にしるべし侍らん」とて、夕食(ゆうげ)いと清くして食(くは)せける。明けゆく空いたう霞みたるも、晴れゆくままに見わたせば、此の院は高き所にて、ここかしこ僧房(そうぼう)どもあらはに見おろさるる。山の鳥どももそこはかとなく囀(さへづ)りあひて、木草の花色々に咲きまじりたる、同じ山里ながら目さむるここちせらる。「初詣(うひまうで)には滝ある方(かた)こそ見所(みどころ)はおほかめれ」とて、彼方(かなた)にしるべの人乞(こひ)て出でたつ。

谷を巡りて下りゆく。いにしへの行幸(いでまし)の宮ありしは所は、石はしる滝つせのむせび流るるに、ちひさき鮎どもの水に逆(さか)ふなど、目もあやにおもしろし。檜破子(ひわりご)打ち散(ちら)して喰(くひ)つつあそぶ。

岩がねづたひに来る人あり。髪は積麻(うみそ)をわがねたる如くなれど、手足いと健(すこ)やかなる翁(おきな)なり。此の滝の下(もと)に歩み来る。人々を見てあやしげにまもりたるに、真女児もまろやも此の人を背(そがひ)に見ぬふりなるを、翁、渠(かれ)二人をよくまもりて、「あやし。此の邪神(あしきかみ)、など人をまどはす。翁がまのあたりをかくても有るや」とつぶやくのを聞きて、此の二人忽ち踊り立ちて、滝に飛び入ると見しが、水は大虚(おほぞら)に湧(わき)あがりて見えずなるほどに、雲摺墨(するすみ)をうちこぼしたる如く、雨篠(しの)を乱してふり来る。

翁人々の慌忙惑(あわてまど)ふをまつろへて人里にくだる。賤(あや)しき軒にかがまりて生(いけ)るここちもせぬを、翁、豊雄にむかひ、「熟(つらつら)そこの面を見るに、此の隠神(かくれがみ)のために悩(なや)まされ給ふが、吾救(すく)はずばつひに命をも失(うしな)ひつべし。後よく慎(つつし)み給へ」といふ。豊雄地に額着(ぬかづき)て、此の事の始めよりかたり出でて、「猶命得させ給へ」とて、恐れみ敬(うや)まひて願ふ。翁、「さればこそ。此の邪神(あしきかみ)は年経たる大蛇(をろち)なり。かれが性(さが)は婬(みだり)なる物にて、牛と孳(つる)みては麟(りん)を生(う)み、馬とあひては竜馬(りょうめ)を生(うむ)といへり。此の魅(まど)はせつるも、はたそこの秀麗(かほよき)に姦(たはけ)たると見えたり。かくまで執(しふ)ねきをよく慎み給はずば、おそらくは命を失ひ給ふべし」といふに、人々いよよ恐れ惑(まど)ひつつ、翁を崇(あが)まへて、「遠津神(とほつがみ)にこそ」と拝みあへり。

翁、打ち笑(ゑみ)て、「おのれは神にもあらず。大倭(やまと)の神社に仕へまつる当麻(たぎま)の酒人(きびと)といふ翁なり。道の程(ほど)見たてまゐらせん。いざ給へ」とて出でたてば、人々後(あと)につきて帰り来る。

現代語訳

吉野の何某の寺とはかねてから親しく交際していたのでここを訪ねた。主の僧が出迎えて、「今年の春は遅く来られましたね。花も半は散り落ちて鶯の声もすこし乱れていますがまだよい所へご案内しますよと歓迎し、さっぱりした夕食をもてなした。明けていく空は、かなり霞んでいるが、晴れていくのを見渡すと、この寺は高い所に位置しており、あちこちに僧房などをはっきりと見下ろすことができた。山の鳥たちは、どこかしら囀りあって、木や草は色々な色に咲き誇り、同じ吉野の里ながら目が覚める心地がした。「初めての入山には滝のある方が見所が多いよ」とそこの地理に詳しい人を道案内にして出発した。

谷を巡りながら下っていく。むかしたびたび行幸のあった吉野離宮があった所は、滝が石の間を割って流れ、小さな鮎どもが水に逆らって登るなど、目にもあざやかで面白い。弁当箱を広げて食べながら河原に遊ぶ。

其の時、岩がね伝いにちらへやって来る人がいた。髪は麻糸を束ねたような乱れ髪だが、手足はかなり頑強そうな老人である。やがて、老人は此の滝の下まで歩いて来た。この滝のふもとまでやってきて、一行を不思議そうに眺めまわした。真女児とまろやは此の人とは後ろ向きになって見ないふりをしていた。老人は、二人をじっと見つめ、「けしからぬ。此の邪神め、どうして人をたぶらかすのか。私の目の前でもやり通すつもりか」とつぶやく。二人はそれを聞いて、いきなり踊り立って、滝に飛び込んだと思うと、その水しぶきが大空に湧き上がり、何も見えなくなった。雲は墨汁をこぼしたように黒々と広がり、雨がしのつくように降りだしてきた。

老人は人々が慌て惑うのをなだめ導いて人里まで下った。みすぼらしい家の軒先に身をかがめて生きる心地もしないでいるのに、老人は豊雄に向い、「よくよくその人相を見ると、此の隠神のために悩まされていたようだが、私が救わなかったら最後には命をも失っていたであろう。後慎み深くしていることじゃ」と言う。豊雄は地に頭を押し付けて拝礼し、此の事の一部始終を話して、「この後も、命を長らえさせてください」といって、老人を恐れみながらも敬って願った。老人は、「そうであったか。此の邪神は年を経た大蛇である。彼の性質は淫らで、牛と交尾しては麟(りん)を生み、馬と交尾しては竜馬を生むと言われているのじゃ。このたび、そなたをたぶらかしたのも、結局そなたの美貌に魅かれて淫欲を尽したものと思われる。これほど執念深いのだから、よく慎まないと、おそらく命を失うことになるであろう」と言うのに、人々はますます恐れ惑いつつ、老人を崇まって「生神様である」と拝み合った。

老人は笑って、「私は神様ではない。大和の神社に仕える当麻(たぎま)の酒人(きびと)というものだ。お帰りの道を先導してあげる。さあ、参られよ」と歩き出すと、人々は後ろについて戻り着いた。

語句

■かはす-互いにやりとりする。通じあう。■花やぎて-はなやかに装って。■流るめれど-晩鶯で声が乱れるのである。■僧房-僧侶の宿所。■山里-この「山里」は吉野であろう。■初詣-初めての入山。■行幸の宮-たびたび行幸のあった吉野離宮。今の吉野町宮滝のあたりといわれる。■石はしる-滝の枕詞。水流の形容を兼ねる。■むせび流るる-水流の岩に堰(せ)かれ、音を立てて流れるさまの形容。■ちひさき鮎-春は鮎はまだ小さいのである。■檜破子(ひわりご)-檜の薄板で作ったまげ物の弁当箱。■打ち散して-一面に広げて。■岩がね-岩そのものをいう。■積麻(うみそ)-長く撚りつないだ麻糸。■まもりたるに-目を守るの意。■背(そがひ)に-後ろ向きに。■大虚(おほぞら)-大空。■摺墨(するすみ)-墨汁。黒雲があっという間に空を覆う形容。■篠(しの)-小竹。■篠(しの)を乱してふり来る-雨がにわかに激しく降る形容。■まつろふ-統率する。■かがまりて-小さくなってかがみ込んで。■熟(つらつら)-よくよく。■隠神-ここは蛇の精霊。正統的な神仏に対し、異端的な悪霊として「隠神」といった。■額着く-頭を地に着けて拝礼する。■孳(つる)む-交尾する。■麟(りん)-中国古代の想像上の動物で、形は鹿に似て大きい。■竜馬(りようめ)-やはり想像上の動物で、大きな俊足の馬。■魅はせつる-「つる」は完了で、下に事を省いた形。■姦(たはけ)たる-不義に交わった。■遠津神-凡人の境界を遠く離れた神、の意。■大倭(やまと)の神社-大和(おおやまと)神社。天理市新泉町にある。古い大社。■当麻(たぎま)の酒人(きびと)-架空の人物であろう。■道の程御たてまゐらせん-帰り道が安全なように先導して。

備考・補足

朗読・解説:左大臣光永

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