蛇性の婬 十一
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明(あけ)の日大倭(やまと)の郷(さと)にいきて、翁が恵(めぐ)みを謝(かへ)し、且美濃絹(かつみのぎぬ)三疋(みむら)筑紫綿(つくしわた)二屯(ふたつみ)を遺(おく)り来り、「猶此の妖災(もののけ)の身禊(みそぎ)し給へ」とつつしみて願ふ。翁これを納(をさ)めて、祝部(はふり)らにわかちあたへ、自(みずから)は一疋一屯をももとめずして、豊雄に向ひ、「畜(かれ)爾(なんじ)が秀麗(かほよき)にたはけて爾(なんじ)を纏(まと)ふ。爾又畜(かれ)が仮(かり)の化(かたち)に魅(まど)はされて丈夫心(ますらをごころ)なし。今より雄気(をとこさび)してよく心を静(しづ)まりまさば、此らの邪神(あしきかみ)を逐(やら)はんに翁が力(ちから)をもかり給はじ。ゆめゆめ心を静まりませ」とて実(まめ)やかに覚(さと)しぬ。豊雄夢の覚めたるここちに、礼言尽(ゐやことつき)ずして帰り来る。金忠にむかひて、「此の年付き畜(かれ)に魅(まど)はされしは己(おの)が心の正しからぬなりし。親兄の考(つかへ)もなさで、君が家の羈(ほだし)ならんは由縁(よし)なし。御恵(めぐみ)いとかたじけなけれど、又も参りなん」とて、紀の国に帰りける。
父母太郎夫婦、此の恐ろしかりつる事を聞きて、いよよ、豊雄が過(あやまち)ならぬを憐(あはれ)み、かつは妖怪(もののけ)の執(しふ)ねきを恐れける。「かくて鰥(やむを)にてあらするにこそ。妻(つま)むかへさせん」とてはかりける。芝の里に芝の庄司なるものあり。女子(むすめ)一人もてりしを、大内の采女(うねめ)にまゐらせてありしが、此の度いとま申し給はり、此の豊雄を婿(むこ)がねにとて、某氏(なかだち)をもて大宅が許へいひ納(いる)る。よき事なりて即(やがて)因(ちなみ)をなしける。かくて都へも迎(むかひ)の人を登(のぼ)せしかば、此の采女富子(とみこ)なるものよろこびて帰り来る。年来(としごろ)の大宮仕(づか)へに馴(なれ)こしかば、万(よろづ)の行儀(ふるまひ)よりして、姿(かたち)なども花やぎ勝(まさ)りけり。豊雄ここに迎へられて見るに、此の富子がかたちいとよく万(よろづ)心に足(たら)ひぬるに、かの蛇(をろち)が懸想(けそう)せしこともおろおろおもひ出づるなるべし。
はじめの夜は事なければ書(かか)ず。二日の夜、よきほどの酔(ゑひ)ごこちにて、「年来(としごろ)の大内住(うちずみ)に、辺鄙(ゐなか)の人ははたうるさくまさん。かの御わたりにては、何の中将、宰相の君などいふに添ひぶし給ふらん。今更にくくこそおぼゆれ」など戯(たはむ)るるに、富子即(やがて)面(おもて)をあげて、「古き契を忘れ給ひて、かくことなる事なき人を時めかし給ふこそ、こなたよりまして悪(にく)くあれ」といふは、姿こそかはれ、正しく真女児が声なり。聞くにあさましう、身の毛もたちて恐ろしく、只あきれまどふを、女打ちゑみて、「吾(わが)君な怪(あや)しみ給ひそ。海に誓ひ山に盟(ちか)ひし事を速くわすれ給ふとも、さるべき縁(え)にしのあれば又もあひ見奉るものを、他(あだ)し人のいふことをまことしくおぼして、強(あながち)の遠ざけ給はんには、恨(うら)み報(むく)ひなん。紀路の山々さばかり高くとも、君が血をもて峰より谷に灌(そそ)ぎくださん。あたら御身をいたづらになし果(はて)給ひそ」といふに、只わななきにわななかれて、今やとらるべきここちに死に入りける。屏風のうしろより、「吾君いかにむつかり給ふ。かうめでたき御契なるは」とて、出づるはまろやなり。見るに又胆(きも)を飛(とば)し、眼(まなこ)を閉(とぢ)て伏向(うつぶさ)に臥(ふ)す。和(なご)めつつ驚(おど)しつかはるがはる物うちいへど、只死に入りたるやうにて夜明けぬ。
現代語訳
次の日、大和の里に行き、老人の恩に謝し、そのうえ美濃絹三疋筑紫綿二屯を贈り「その上に此の妖怪の払いをお祓い願います」と慎んで願う。老人はこれを受け取り、神官らに分け与え、自らは一疋一屯も取らず、豊雄に向い「あの畜生はそなたの美貌に淫欲を覚え、纏わりついているのだ。そなたも又畜生の仮の姿の美しさに魅了されて、男らしいしっかりした気性を失っているのだ。これからは雄々しい気持ちを持ち、よく心を静めるなら、これらの邪神を追い払うのに老人の力を借りる必要はないでしょう。つとめて心を静めることです。といって、こまごまと説き諭した。豊雄は夢から覚めたように事態が理解できたので繰り返しお礼を述べて帰った。(その後、豊雄は)金忠夫婦に向い「この数年畜生に惑わされていたのは、自分の心が正しくなかったからです。両親や兄への孝行もしないで、貴方の家の厄介者になっている理由はございません。御恩はとてもありがたいと思っておりますが、又来ることにいたしましょう」と言って紀の国へ帰って行った。
両親と兄夫婦は、此の恐ろしい話を聞いて、豊雄の過ちではなかったことを、ますます不憫がり、かつ妖怪の執念深さに震えあがった。「こうして独身でいるから魔物に取りつかれるのであろう。嫁取りさせよう」といって、思案を巡らした。芝の里に芝の庄司というものがいて、娘が一人いたのを、采女(うねめ)として朝廷に参内させてあった、このたび、暇(いとま)をいただき、此の豊雄を婿にしたいと、仲人を立て、大宅家へ申し入れてきた。話しがうまく進み、まもなく婚約が取り結ばれた。そこで都へ迎の者を送ると、采女であった此の富子という娘も喜んで帰って来た。長年の宮仕えに磨かれたため、立ち居振る舞いをはじめ、姿形も華やかで優雅であった。婿入りした豊雄から見ても、富子は姿形も美しく、すべてに満足であったにつけて、あの大蛇が自分に恋をしたことなども少しづつ思い出さないでもなかった。
初めの夜は何もなかったので省略する。二日目の夜、ほどよい酔いかげんで、「長年のはなやかな宮廷で、女官として生活をされてきた貴方には、私のような田舎者はやはりおいやでしょう。あちらでは何の中将、宰相などという人たちと寝たこともおありでしょう。今更ながらねたましいことです」と戯言を言うと、富子はきっと顔を上げて、「前からの古い仲をお忘れになって格別美しいということもない人を可愛がられるのは貴方にも増してこの人が憎うございます」と言うのは、姿は富子に変わっていても正しく真女児の声であった。それを聞くなり、ぞうっとなり、恐ろしさに身の毛もよだちあきれ惑うだけであったが、女は微笑んで、「あなた、あやしむことはありませんよ。いつまでも変わるまいと海山に堅く約束したことを早くもお忘れになったとしても、前世からの因縁があれば、再び三度とお逢いするのです。
他人の言うことだけを真に受けて、しいて私をお遠ざけになるならば、恨みをお報いしないではいられません。紀州の山々がどんなに高くても、貴方の血をもって峰から谷に注ぎ下しますよ。あたらせっかくの命を無駄になさいますな」と言うので、その恐ろしさに震えに震えるだけで今にも取り殺されるかと気も失わんばかりであった。屏風の陰から、「旦那様、どうしてそんなにおむずかりになるのですか。こんなにめでたいご縁ですのに」と言って、出てきたのは「まろや」であった。見るなり又胆を潰し、目を閉じてうつむけに倒れ伏した。(二人は)宥(なだ)めたり脅(おど)したりしながらかわるがわる語り掛けるが、(豊雄は)ただ死んだようになって過しているうちに夜が明けた。
語句、
■大倭(やまと)の郷(さと)-旧山辺郡の大和神社のあたりの里。■美濃絹-美濃国産の上質の絹。■疋(むら)-帛布(きぬぬの)や巻物を数える単位。鯨尺で幅九寸、長さ二丈八尺の布をもって一反とし、二反で一疋とした。■筑紫綿-九州産の綿。■屯(つみ)-綿を計る量目の単位。古くは四両をもって一屯とした。■妖災-ここでは、奇怪な祟りの意で、「もののけ」という和訓をあてた。■身禊(みそぎ)-お祓(はら)い。■祝部(はふり)-神官。■畜(かれ)-畜生。蛇の精とわかった真女児を指す。■たはく-ふしだらな行為をする。■丈夫心(ますらをごころ)-男性的なしっかりした気性。■雄気(をとこさび)して-雄々しい気性をもって。■逐(やら)ふ-追い払う、の意。■ゆめゆめ-秋成の特殊語法。本来は下に打消し語を伴うが、これを「努(ゆめゆめ)」(妙義抄)、「努力(ゆめ)慎歟(ゆめ)」(神武記)の字意をとって別用したもの。■羈(ほだし)-厄介者。■過(あやまち)ならぬを憐(あはれ)み-豊雄にとっては災難であって、彼の責任ではなかったと、親・兄は憐れんだのである。■執(しふ)ねき-執念深さ。真女児がどこまでも豊雄を追いまわしているからである。■鰥(やむを)-独身者。■芝の里-諸説あるが、古代の熊野道(中辺路)に添う旧芝村と考えたい。和歌山県西牟婁郡中辺路町。道成寺伝説の舞台でもあった。■芝の庄司-同じ地域の真砂(まさご)の「まなごの荘司」(謡曲道成寺)からヒントを得た架空の人物。■大内-朝廷。■采女-古代、諸国の郡領官以上の家の娘を、宮廷後宮の下級女官として差し出す制があり、それを采女といった。■婿がね-婿の候補者。■富子-架空の人物。命名の根拠は不明。■ここに迎へられて-「芝」の家に婿入りしたのである。■心に足ひぬるに-不足がないこと。豊雄は「都風たる事を好む」性格であった。■懸想せしこと-恋をしたこと。■おろおろおもひ出づるなるべし-物の不十分な形容。富子の美しさにつけて、おぼろげに真女児を思い出したのである。これは、次の真女児の登場を呼び出す伏線になる。■大内住-はなやかな宮廷女官としての生活。■かの-「大内」を指す。■中将-近衛府の次官。■宰相-参議の唐名を言う。共に特定の人をさすわけではない。高い家柄の貴公子は早くこうした官につく。そのような貴公子の誰かれと、の意。■にくくこそおぼゆれ-寝物語に戯れているのである。■かくことなる事なき人-格別美しいということもない人。■こなた-両用に解することができる。「こなた」は、普通、第一人称だが、中世以降、会話中の第二人称となることがある。今までは、この「こなた」は、当方、自分、の意に解されることが多かった。■海に誓ひ山に盟(ちか)ひし事-いつまでも変るまいと堅く約束したこと。■さるべき縁(え)にし-前世からの因縁。■吾君いかに云々-「吾君」は真女児を指すという説も成り立ちうる。■胆を飛ばし-大いに驚く様。
備考・補足
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雨月物語 現代語訳つき朗読