第四十九段 老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。

■『徒然草』朗読音声の無料ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽(たちま)ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬるかたのあやまれる事は知らるなれ。あやまりといふは、他の事にあらず、速(すみや)かにすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。

人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり。さらば、などかこの世の濁りも薄く、仏道をつとむる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、人来りて自他の要事をいふ時、答へて言はく、今火急の事ありて、既に朝夕(ちょうせき)にせまれりとて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。心戒(しんかい)といひける聖は、あまりにこの世のかりそめなる事を思ひて、しづかにいゐけることだになく、常はうずくまりてのみぞありける。

口語訳

年老いてから初めて仏道修行をしようなどと待っていてはいけない。古い墓の多くは年若い人の墓なのだ。不慮の病にかかって、にわかに、この世を去ろうとする時に、始めて過ぎてしまった過去の、誤りは思い知るものであるよ。誤りというのは、他でもない、急いでやるべき事をゆっくりやり、ゆっくりやるべき事を急いで過ぎてしまったことの悔しさである。その時悔いても、どうにもならない。

人はただ、無常が身に迫っていることを心にしっかりと思いかけて、つかの間も忘れてはならない。そうすれば、どうしてこの世の濁りも薄くならないことがあろう。仏道を勤める心も誠実にならないことがあろう。

昔いたという徳の高い僧は、人が来てお互いの用事を言う時、答えて言うことに、今、さしせまった火急の事があって、すでに目の前に迫っていると言って、耳を塞ぎ念仏して、ついに往生を遂げた」と、禅林寺中興の祖の書かれた『往生十因』にございます。

心戒という徳の高い僧は、あまりにこの世がはかない事を思って、しづかに膝をついている時さえなく、いつもうずくまってばかりいたということだ。

語句

■道を行ず 仏道修行をする。 ■まめやかなり 誠実だ。 ■聖 徳の高い僧。 ■人来りて… 「伝へ聞く、聖有り。念仏を業と為し、専ら寸分を惜しむ。若し人来りて自他の要事を謂へば、既に旦暮(たんぼ)に逼(せま)れりと。耳を塞ぎて念仏し、終に往生を得たりと」(往生十因)による。 ■自他 お互いの。 ■朝夕に 目の前に。この朝、もしくは夕のように、ごく近い将来。 ■禅林の十因 禅林寺中興の祖・永観の書『往生十因』のこと。禅林寺は京都市左京区にある寺。 ■心戒 平宗盛の養子宗親。屋島から平家一門のもとを離れて高野山に入った。『発心集』七・十二、延慶本『平家物語』六末・三十四に記述が見える。 ■ついゐける 「つきゐける」の音便。膝をついて座る。または「腰をおろす」という説も。

メモ

■飲み会には行くな。友達は作るな。就職はするな。
■禅林寺は浄土宗。秋は紅葉の永観堂。
■見返り阿弥陀

朗読・解説:左大臣光永

■『徒然草』朗読音声の無料ダウンロードはこちら
■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル