【夕顔 06】源氏、伊予介を謁見、なおも空蝉を思う
さて、かの空蝉《うつせみ》のあさましくつれなきを、この世の人には違《たが》ひて思すに、おいらかならましかば、心苦しきあやまちにてもやみぬべきを、いとねたく、負けてやみなんを、心にかからぬをりなし。かやうのなみなみまでは思ほしかからさりつるを、ありし雨夜の品定《しなさだめ》の後、いぶかしく思ほしなる品々あるに、いとど隈《くま》なくなりぬる御心なめりかし。
うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人《かたびと》を、あはれと思さぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしければ、まづこなたの心見はてて、と思すほどに、伊予介上《のぼ》りぬ。
まづ急ぎ参れり。舟路《ふなみち》のしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ筋に、容貌《かたち》などねびたれどきよげにて、ただならず気色よしづきて、などぞありける。国の物語など申すに、「湯桁《ゆげた》はいくつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心のうちに思し出づることもさまざまなり。ものまめやかなる大人《おとな》をかく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。げにこれぞなのめならぬかたはなべかりけると、馬頭《むまのかみ》の諫《いさ》め思し出でて、いとほしきに、つれなき心はねたけれど、人のためはあはれと思しなさる。
むすめをばさるべき人に預けて、北の方をば率《ゐ》て下りぬベし、と聞きたまふに、ひとかたならず心あわたたしくて、いま一度《ひとたび》はえあるまじきことにやと、小君《こぎみ》を語らひたまヘど、人の心を合はせたらんことにてだに、軽《かろ》らかにえしも紛《まぎ》れたまふまじきを、まして似げなきことに思ひて、いまさらに見苦しかるべしと、思ひ離れたり。さすがに、絶えて思ほし忘れなんことも、いと言ふかひなくうかるべきことに思ひて、さるべきをりをりの御答《いら》へなどなつかしく聞こえつつ、なげの筆づかひにつけたる言の葉、あやしくらうたげに目とまるべきふし加へなどして、あはれと思しぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの、忘れがたきに思す。いま一方《ひとかた》は主《ぬし》強くなるとも、変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼みて、とかく聞きたまヘど、御心も動かずぞありける。
現代語訳
さて、あの空蝉の呆れるほど冷淡なのことを、源氏の君は世間の女とは違っているとお思いになっていたが、もし空蝉が源氏に対して従順な女であったなら、一夜限りの心苦しいあやまちとして終わっていたでろうに、たいそう恨めしく、負けに終わったことを、源氏の君は心にかからない時がない。
このような平凡な身分の女まではお気にかけなさらなかったのだが、あの雨夜の品定めの後、もっと知りたいと思われる階層の女がいろいろあるので、いよいよすみずみまで、女に対する興味のつきないご性分なのであろう。
無邪気にお待ち申している様子のもう一方の女(軒端荻)を、気の毒とお思いにならないわけではないが、空蝉が、そしらぬふりで、自分と軒端荻との情事を聞いていただろうことが恥ずかしいので、まづこちら(空蝉)の心を見届けて、(軒端荻はその後にしよう)とお考えになっているうちに、伊予介が都に上ってきた。
伊予介はまっさきに源氏の君のもとに参った。船路のせいということで、すこし黒みがかってやつれている旅をしてきた者の姿は、たいそう不細工で気に入らない。
しかし、卑しからぬ血筋で、容貌なども年取っているがさっぱりしており、並々ならず風格がある、などといったようすである。
任国の物語など申すので、「伊予の湯桁はいくつか」とお聞きになりたいと思われたが、わけもなくきまりが悪くて、御心のうちに思い出されることもさまざまである。
実直な、老成した人に対してこのように思うのも、まったくおろかで、後ろめたいことであるよ。まったく、これこそ、並ひととりでなく見苦しいことというべきだった」と、馬頭の諌めを思い出されて、伊予介が気の毒なので、空蝉の冷淡な心は恨めしいが、夫のためには殊勝なことだと思い込もうとしておられる。
伊予介は娘(軒端荻)をしっかりした人に預けて、北の方(空蝉)をつれて任国に下るらしい、と源氏の君はお聞きになると、ひととおりでなく心があわただしく、もう一度空蝉と逢うことはできないだろうかと、小君に相談なさるが、女(空蝉)が心を合わせているような場合でさえも、軽々しく人目につかず密会なさることは難しいのに、まして女(空蝉)は、源氏の君を自分には似つかわしくないと思って、いまさらお逢いするのは見苦しいだろうと、思いが離れていた。
そうはいっても、女(空蝉)は、源氏の君との縁が絶えてしまって、忘れられることも、言いようもなく悲しいに違いないと思って、しかるべき折々の御返事などは親しくお送りしつつ、ちょっとした筆つかいに付け足す言葉も、不思議なほど可愛らしく源氏の君の目にとまるだろう趣を加えなどして、源氏の君に心惹かれているにちがいない女(空蝉)のようすであるので、源氏の君は、冷淡で憎らしい女ではあるが、忘れがたく思われる。
もう一人の女(軒端荻)は、もし将来しっかりした結婚相手ができたとしても、今と変わらず、自分に対して心をゆるすに決まっていると見えるようすであるのを頼みにして、あれこれ婚約の噂はお聞きになったが、御心も動かないのだった。
語句
■雨夜の品定の後 左馬頭が「世にありと人に知られず、さびしくあばれたらむ葎《むぐら》の門《かど》に、思ひの外にらうたげならん人の閉ぢられたらんこそ限りなくめづらしくはおぼえめ」といったのを受ける(【帚木 03】)。■いぶかしく 「いぶかし」は、もっとよく知りたい。見たい。聞きたい。 ■品々 さまざまな階層。 ■隈なくなりぬる あらゆる階層の女に興味をもっていること。 ■うらもなく 無邪気に。「うら」は心。 ■ふつつか 不細工。 ■湯桁 伊予の湯桁。伊予介に掛ける(【空蝉 02】)。 ■あいなく わけもなく。 ■まばゆくて 「まばゆし」はきまりが悪い。目をそむけたくなる。 ■思し出づることもさまざまなり 源氏は、伊予介の後妻である空蝉と、伊予介の娘である軒端荻を寝取った。そのことで伊予介に対して罪悪感を抱いている。 ■なのめならぬ 「なのめならず(斜めならず)」は、並ひととおりでない。格別である。 ■かたは 片端。見苦しいこと。 ■なべかりける 「なるべかりける」の音便「なんべかりける」の「ん」の無表記の形。 ■馬頭の諌め 「なにがしがいやしき諫めにて、すきたわめらむ女に心おかせたまへ。あやまちして見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」(【帚木 07】)。 ■ひとかたならず ひととおりでなく。 ■人の心を合わたらんことにてだに 人=空蝉が源氏とお互いにしめしあわせて逢おうとしているとしても。それでもむずしいのに、実際には示し合わせていないから、もっと難しいの意。 ■紛れたまふ 「紛る」は人目につかないようにすること。 ■今さらに これまで空蝉は二度、源氏を拒絶している。それなのに今さら逢おうというのは、の意。 ■なげの 「なげ」はなきにひとしい。ちょっとした。 ■主 将来の結婚相手。