【薄雲 16】帝、源氏に譲位したき意向を漏らす 源氏、恐れ入って辞退 秘密漏洩を王命婦に質す

原文

秋の司宮《つかさめし》に太政大臣になりたまふべきこと、うちうちに定め申したまふついでになむ、帝、思し寄する筋のこと漏らしきこえたまひけるを、大臣、いとまばゆく恐ろしう思して、さらにあるまじきよしを申し返したまふ。「故院《こゐん》の御心ざし、あまたの皇子《みこ》たちの御中に、とりわきて思しめしながら、位を譲らせたまはむことを思しめし寄らずなりにけり。何か、その御心あらためて、及ばぬ際《きは》には上《のぼ》りはべらむ。ただ、もとの御|掟《おき》てのままに、朝廷《おほやけ》に仕うまつりて、いますこしの齢《よはひ》重なりはべりなば、のどかなる行ひに籠りはべりなむと思ひたまふる」と、常の御|言《こと》の葉に変らず奏したまへば、いと口惜しうなむ思しける。太政大臣になりたまふべき定めあれど、しばしと思すところありて、ただ御位添ひて、牛車《うしぐるま》聴《ゆる》されて参りまかでしたまふを、帝、飽かずかたじけなきものに思ひきこえたまひて、なほ親王《みこ》になりたまふべきよしを思しのたまはすれど、「世の中の御|後見《うしろみ》したまふべき人なし。権中納言、大納言になりて右大将かけたまへるを、いま一際《ひときは》上《あが》りなむに、何ごとも譲りてむ。さて後に、ともかくも静かなるさまに」とぞ思しける。

なほ思しめぐらすに、故宮の御ためにもいとほしう、また、上のかく思しめし悩めるを見たてまつりたまふもかたじけなきに、誰かかる事を漏らし奏しけむとあやしう思さる。命婦《みやうぶ》は、御匣殿《みくしげどの》のかはりたるところに移りて、曹司《ざうし》賜はりて参りたり。大臣|対面《たいめん》したまひて、この事を、もし物のついでに、つゆばかりにても漏らし奏したまふことやありし、と案内《あない》したまへど、「さらに。かけても聞こしめさむことをいみじきことに思しめして、かつは、罪得ることにやと、上《うへ》の御ためをなほ思しめし嘆きたりし」と聞こゆるにも、ひとかたならず心深くおはせし御ありさまなど、尽きせず恋ひきこえたまふ。

現代語訳

秋の司召に、源氏の君が太政大臣になられるべきことを内々にお決め申し上げられたついでに、帝は、おぼしめされている筋のこと(譲位したき旨)をお口に出してお話申し上げなさったところ、源氏の大臣は、ひどく目もくらむほど恐ろしいことにお思いになって、まったくもってあってはならないことという旨を申してご辞退なさる。

(源氏)「故院の御意向は、多くの皇子たちの御中に、私のことをとりわけ大切にお思いになりながら、位をお譲りになることはお思いよらずじまいだったのです。どうしてその御意志にそむいて、今さら、及びもつかぬ御位に上りましょうか。ただ、もとの御意向のままに、朝廷にお仕え申し上げて、もうすこし年齢が重なりましたら、のんびりと自邸に籠もって勤行いたしたいと存じます」と、いつもの御言葉に変わらず奏上なさるので、帝はひどく残念におぼしめすのであった。

源氏の君が太政大臣におなりになるべきご沙汰があるが、もうしばらく今のままで、とお思いになるところがあって、ただ御位だけ昇進して、牛車の宣旨を賜って宮中にお出入りされるだけであることを、帝は物足りなく、勿体ないものにおぼしめして、やはり親王におなりになるようにと仰せになるが、(源氏)「世の中の御後見をなさるべき人がいない。権中納言が、大納言になって右大将を兼任しておられるが、もう一段昇進なさったら、何ごともお譲りしよう。その後に、とにかくのんびりした暮らしに入ろう」とお思いになるのだった。

やはりあれこれお考えになってみると、故宮の御ためにもお気の毒で、また、帝がこうしてお思い悩んでいらっしゃるのを拝見なさるのも畏れ多いので、誰がこんなことをお漏らし申し上げたのだろうと不審にお思いになる。

命婦は、御匣殿の別当が転じた後に移って、局をいただいてお仕えしている。それに大臣は対面なさって、「故宮は、この事を、もしかして何かのついでに、ほんの少しでもお漏らし申し上げなさったことがあるのだろうか」と探りをお入れになるが、(命婦)「まったくそのようなことは。宮さまはどんなことがあっても、その事を帝のお耳にお入れ申し上げることをとんでもない事におぼしめして、また一方で、それが帝にとって罪を得ることになりはしまいかと、帝の御ためをやはりお案じあそばして、嘆いていらっしゃいました」と聞くにつけても、源氏の君は、「並々でなく思慮深くていらした故宮(藤壺)のお人柄よ」などと、どこまでも恋慕し申し上げなさる。

語句

■司召 京官(中央官吏)の人事発表。秋(八月)の行事。地方官の人事発表は「県召《あがためし》」といって春(正月)にある。司召と県召を総称して除目という。 ■故院の御心ざし 故桐壺院の御意志(【桐壷 11】【賢木 09】)。 ■太政大臣になりたまふべき定め これまでは内々の取り決めであったが、公卿詮議によって正式に太政大臣になるべきご沙汰が下されたのである。 ■しばしと思すところありて 摂政・関白・太政大臣などの重職は再三断ってから受けるのが通例であった。源氏は一年後の太政大臣に就任する。 ■御位添ひて 太政大臣は従一位相当。左右内大臣はニ位相当。 ■牛車聴されて 牛車の宣旨を賜ること。牛車に乗ったまま建礼門までの出入りが許可される。 ■親王になりたまふべき 臣下の身分から親王にもどれというのである。親王は皇子のうち親王宣下を受けた者。 ■権中納言 葵の上の兄。もとの頭中将。源氏の親友にしてライバル。 ■いま一際上りなむに 内大臣になること。少女巻で実現する。 ■静かなるさま 政界を引退し仏事中心の暮らしに入ること。 ■なほ思しめぐらすに 源氏は帝の態度から、出生の秘密を知ったのだと察知した。 ■故宮のためにもいとほしう 藤壺があの世で冷泉帝出生の秘密が本人に知れたことを知ったら成仏できないだろうと。 ■かかる事 冷泉帝出生の秘密。 ■命婦 王命婦。源氏と藤壺の密通のなかだちをした女房。 ■御匣殿 御匣殿の別当(長官)。もとは帝の装束裁縫を扱う役所の長官だったが後に天皇の侍妾にようになる。王命婦は御匣殿別当の後任となったということであるが、すでに出家している(【賢木 29】)ので本来、宮中にいないはず。 ■この事を、もし物いでに… 主語は書かれていないが「奏したまふ」と敬語なので王命婦ではなく故宮(藤壺)と知れる。源氏は王命婦を疑っているのだが、露骨にそう切り出すことを憚って、いちおうは藤壺を疑っているように質問して、探りを入れているのである。

朗読・解説:左大臣光永

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