【薄雲 17】源氏、斎宮の女御に恋情を打ち明けるも反応が悪いのですぐに紛らわす

斎宮《さいぐう》の女御《にようご》は、思ししも著《しる》き御後見にて、やむごとなき御おぼえなり。御用意、ありさまなども、思ふさまにあらまほしう見えたまへれば、かたじけなきものにもてかしづききこえたまへり。

秋のころ、二条院にまかでたまへり。寝殿の御しつらひ、いとど輝《かかや》くばかりしたまひて、今は、むげの親ざまにもてなして扱ひきこえたまふ。秋の雨いと静かに降りて、御前の前栽《せんざい》の色々乱れたる露のしげさに、いにしへの事どもかきつづけ思し出でられて、御袖も濡れつつ、女御の御方に渡りたまへり。こまやかなる鈍色《にびいろ》の御|直衣姿《なほしすがた》にて、世の中の騒がしきなどことつけたまひて、やがて御|精進《さうじん》なれば、数珠《ずず》ひき隠して、さまよくもてなしたまへる、尽きせずなまめかしき御ありさまにて、御簾《みす》の中《うち》に入りたまひぬ。御几帳ばかりを隔てて、みづから聞こえたまふ。「前栽どもこそ残りなく紐《ひも》ときはべりにけれ。いとものすさまじき年なるを、心やりて時知り顔なるもあはれにこそ」とて、柱に寄りゐたまへる夕映《ゆふば》えいとめでたし。昔の御事ども、かの野宮《ののみや》に立ちわづらひし曙《あけぼの》などを聞こえ出でたまふ。いとものあはれと思したり。宮も、「かくれば」とにや、すこし泣きたまふけはひいとらうたげにて、うち身じろきたまふほども、あさましく柔かになまめきておはすべかめる、見たてまつらぬこそ口惜しけれと、胸のうちつぶるるぞうたてあるや。「過ぎにし方、ことに思ひ悩むべき事もなくてはべりぬべかりし世の中にも、なほ心から、すきずきしきことにつけて、もの思ひの絶えずもはべりけるかな。さるまじきことどもの心苦しきがあまたはべりし中に、つひに心もとけずむすぼほれてやみぬること、二つなむはべる。一つは、この過ぎたまひにし御ことよ。あさましうのみ思ひつめてやみたまひにしが、長き世の愁はしきふしと思ひたまへられしを、かうまでも仕うまつり御覧ぜらるるをなむ、慰めに思うたまへなせど、燃えし煙のむすぼほれたまひけむは、なほいぶせうこそ思うたまへらるれ」とて、いま一つはのたまひさしつ。「中ごろ、身のなきに沈みはべりしほど、かたがたに思ひたまへしことは、片はしづつかなひにたり。東《ひむがし》の院にものする人の、そこはかとなくて心苦しうおぼえわたりはべりしも、おだしう思ひなりにてはべり。心ばへの憎からぬなど、我も人も見たまへあきらめて、いとこそさはやかなれ。かくたち帰り、おほやけの御後見仕うまつるよろこびなどは、さしも心に深くしまず、かやうなるすきがましき方は、しづめがたうのみはべるを、おぼろけに思ひ忍びたる御後見とは思し知らせたまふらむや。あはれとだにのたまはせずは、いかにかひなくはべらむ」とのたまへば、むつかしうて、御答へもなければ、「さりや。あな心う」とて、他事《ことごと》に言ひ紛らはしたまひつ。「今は、いかでのどやかに、生ける世の限り、思ふこと残さず、後の世の勤めも心にまかせて籠りゐなむと思ひはべるを、この世の思ひ出《いで》にしつべきふしのはべらぬこそ、さすがに口惜しうはベりぬべけれ、数ならぬ幼き人のはべる、生ひ先いと待ち遠なりや。かたじけなくとも、なほこの門《かど》ひろげさせたまひて、はべらずなりなむ後にも数まへさせたまへ」など聞こえたまふ。御答へは、いとおほどかなるさまに、からうじて一言ばかりかすめたまへるけはひ、いとなつかしげなるに、聞きつきて、しめじめと暮るるまでおはす。

現代語訳

斎宮の女御は、源氏の大臣の期待どおりに、帝のよい御後見役として、篤い帝のお気に入りようである。御気立てや容姿なども、申し分なくお見えになられるので、源氏の大臣は、もったいないものとして大切にお世話申し上げなさる。

秋のころ、二条院にお下がりになった。寝殿の御設備は、たいそう輝くばかりになさって、今は、源氏の君はまったく親代わりのように女御をもてなしてお世話申し上げなさる。秋の雨がたいそう静かに降って、御前の植込みが色々に乱れている上に露も多いので、源氏の君は、昔のさまざまな事をつづけざまにお思い出されて、御袖も濡れつつ、女御のお部屋においでになった。

源氏の君は、濃い鈍色の御直衣姿で、世の中の異変を理由となさって、そのまま御精進なさっているので、数珠を袖の下に引き隠して、さっぱりした身なりにふるまっていらっしゃるのがどこまでも優美な御ようすで、御簾の中にお入りになられた。

御几帳だけを隔てて、直接お話になる。(源氏)「植込みの花々が残り無く紐解かれました。ひどく恐ろしいような年ですが、花だけは心よさそうに時知り顔で咲いているのも趣深いことですね」といって、柱によりかかっていらっしゃる御姿が夕日に映えて、とても素晴らしい。

昔のさまざまな御事、あの野宮で立ち去り難くなさった夜明けのことなどをお話申し上げなさる。まことに感無量の思いでいらっしゃる。宮(斎宮の女御)も、「かくれば」ということだろうか、すこしお泣きになるようすはとても可愛らしく、お身じろぎになられるさまも、呆れるほど物柔らかで優美でいらっしゃるだろうその御姿を、今まで拝見したことがないのは残念なことだと、胸のつぶれる思いがするのは、困ったことではある。

(源氏)「これまで、別段思い悩む必要もなかく過ごせたはずの時にも、やはり自ら好んで、色めいたことにつけて、もの思いが絶えないことでございましたよ。あれはよくなかったというさまざまな事の中でいたわしい事が多くございました中に、ついに心もとけず気も晴れずに終わってしまいましたことが二つございます。一つはあの亡くなられた御息所の御事です。

ひたすら呆れるほど思いつめてお終いになってしまわれましたことが、一生涯の恨みと存ぜられましたのですが、貴女にこんなにまでお仕え申し上げて、親しくしていただいておりますのを、慰めに思うようにつとめておりますが、御息所の「燃えし煙」が晴れないでいらっしゃっただろうことは、やはりつい気が滅入るように存ぜられます」といって、もう一つはおっしゃるのを途中でおやめになった。

(源氏)「以前、身もなきがごとく落ちぶれてございました時、あれこれ望んでおりましたことは、少しずつ叶ってございます。東の院に住んでいる人(花散里)が、たよりない有様でお気の毒にずっと思ってございましたのも、今では安心できるようになっております。気性が悪くないことなどは、私も先方もはっきり認めあっているものですから、とてもさわやかなのです。こうして都に戻って、朝廷の御後見をおつとめ申し上げる喜びなどは、それほど心に深く感じないで、一方こうした好きめいた方面のことは、しずめがたくばかり思っておりますのを、並々ならず辛抱している御後見とはご存知でいらっしゃいましょうか。せめて「おいたわしい」とだけでもおっしゃっていただかなくては、どうれほどかいのないことでしょう」とおっしゃると、女御は気味が悪くて、ご返事もないから、(源氏)「そうですか。ああ辛い」といって、他の事に言い紛らわせてしまわれた。

(源氏)「今は、どうにかして穏やかに、今生の限り、思い残すことなく、後世のための勤めも思うままに行って籠もりたいと思っておりますが、この世の思い出にできるようなことがございませんのが、やはり残念に思われます。人数にも入らない幼い人がございますが、成長がひどく待ち遠しいことです。畏れ多いことですが、やはりこの一門をお広げになって、私がいなくなりました後も、あの娘を一人前にお扱いください」など申し上げなさる。お返事は、たいそうおおらかなさまに、かろうじて一言だけかすかにおっしゃる気配が、たいそう心惹きつけられる様子であるので、源氏の君は耳を傾けて、しみじみと日が暮れるまでここでお過ごしになる。

語句

■斎宮の女御 前斎宮であった女御。六条御息所の娘。梅壺女御。源氏が養親となり、帝の世話役をつとめている。 ■寝殿の御しつらひ 二条院は東の対に源氏が、西の対に紫の上が住む。寝殿は空いている。 ■むげの親ざま まったくの親代わり。源氏は斎宮女御に好色心を抱いているので、親代わりという立場には納得していない。「無下の」はその不満をこめている。 ■露のしげさに 「露」から涙が連想され、自然と源氏は涙をさそわれる。 ■いにしへの事ども 六条御息所存命の頃から今に到るさまざまな思い出。 ■世の中の騒がしき 太政大臣・藤壺の宮・式部卿宮などが亡くなり、天変地異が起こっていること。 ■数珠ひき隠し 女御の前なので遠慮して。 ■御簾の内に入りたまひぬ 源氏は女御の親代わりとしてふるまっているため。 ■紐ときはべりにけれ 「ももくさの花の紐とく秋の野に思ひたはれむ人なとがめそ」(古今・秋上 読人しらず)。「紐とく」は花がほころびる意と、下着の下紐をとくの意をかける。好色な意味をさりげなくふくませている。 ■心やりて 人間は皆喪服を着て思い沈んでいるのに。 ■かの野宮に 伊勢下向を前に野宮で六条御息所と逢ったこと(【賢木 03】)。 ■かくれば 「わが思ふ人は草葉の露なれやかくれば袖のまづそぼつらむ」(拾遺・恋ニ 読人しらず)。「いにしへの昔の事をいとどしくかくれば袖に露かかりけり」(源氏釈)。「かくる」は「隠れる」の意と「死ぬ」を避けて言う語。 ■けはひ 源氏は几帳を隔てて女御の気配を感じる。 ■見たてまつらぬこそ 源氏はまだ女御の姿を見たことがない(【賢木 05】【絵合 05】)。 ■さるまじき事 「さあるまじき事」。あれはよくなかったと後で思われるようなこと。後悔する事。 ■この過ぎたまひにし 六条御息所のこと。 ■燃えし煙 古注に「むすぼほれ燃えし煙もいかがせむ君だにこめよ長き契りを」(出典不明)を引く。「結ぼほる」は気がふさぐ、縁故を持つ。このあたり源氏の言うことは奥歯にものがはさまったようでさっぱり要領を得ない。ようするに斎宮の女御を口説いているのだが、ずばり言い出せないのであれこれ遠回しに言っているのである。 ■いま一つ 藤壺のこと。 ■中ごろ それほど遠くない昔。 ■身のなきに沈みはべりしほど 須磨・明石の謫居生活。 ■そこはかとなくて 貧しくて生活がままならなかったこと。 ■おだしう 「陰し」は穏やかである。安らかで落ち着いている。源氏の援助により花散里の生活が楽になり、源氏も安心した。 ■さはやかなれ 花散里との関係は色めいたものでなく、さっぱりしたものになった。それがやや物足りない。だから貴女に…という流れで話をもっていこうとしている。 ■さしも心に深くしまず 花散里との夫婦関係が疎遠であることに続けて、朝廷の仕事に気が乗らないことを言い、最終的に女御に言い寄るための外堀を固めている。 ■さりや やっぱり私が好きでないのですね。 ■後の世の勤め 極楽往生を願うための勤行。 ■籠もり 山寺などに籠もる。 ■数ならぬ幼き人 明石の姫君。この時四歳。 ■この一門ひろげさせたまひて 源氏の一門を広げなさって。源氏の養女である斎宮の女御が帝の子を生むこと。実際は女御は生涯子を生まない。 ■数まへさせたまへ 「数まふ」は人並に扱う。

朗読・解説:左大臣光永

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