【朝顔 10】亡き藤壺、源氏の夢枕に立ち恨みごとを言う

入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠《おほとのごも》れるに、夢ともなくほのかに見たてまつるを、いみじく恨みたまへる御気色にて、「漏らさじとのたまひしかど、うき名の隠れなかりければ、恥づかしう。苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」とのたまふ。御|答《いら》へ聞こゆと思すに、おそはるる心地して、女君の「こは。などかくは」とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、おさへて、涙も流れ出でにけり。今もいみじく濡らし添へたまふ。女君、いかなる事にかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。

とけて寝ぬねざめさびしき冬の夜に結ぼほれつる夢のみじかさ

なかなか飽かず悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所どころに御|誦経《ずきやう》などせさせたまふ。「苦しき目見せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらんかし。行ひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つ事にてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ」と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、「何わざをして、知る人なき世界におはすらむを、とぶらひきこえに参うでて、罪にもかはりきこえばや」など、つくづくと思す。かの御ために、とり立てて何わざをもしたまはむは、人咎めきこえつべし。内裏《うち》にも、御心の鬼に思すところやあらむ、と思しつつむほどに、阿弥陀仏《あみだほとけ》を心にかけて、念じたてまつりたまふ。おなじ蓮《はちす》にとこそは、

なき人をしたふ心にまかせてもかげ見ぬみつの瀬にやまどはむ

と思すぞうかりけるとや。

現代語訳

源氏の君は御寝所にお入りになってからも、宮(藤壺)の御ことを思いながらお休みになっていると、夢ともつかずほのかに宮のお姿を拝見するが、ひどくお怨みなさっているご様子で、(藤壺)「秘密は漏らすまいとおっしゃいましたが、浮名があらわれてしまったことが恥ずかしくて。苦しい目を見るにつけても、辛くて」とおっしゃる。お返事を申し上げるかと思うと、何かに襲われる気持ちがして、女君(紫の上)が、「これはどうしたことです。どうしてこんな」とおっしゃるので、目が覚めて、ひどく残念で、胸がどうしようもないほど騒ぐので、抑えていると、涙も流れ出てしまった。夢から覚めた今もたいそう涙に袖をお濡らしになっている。女君は、どうしたことかとお思いになるにつけ、身じろぎもせず横になって源氏の君に寄り添っていらっしゃる。

とけて寝ぬ…

(落ち着いて寝ることもできない寝覚めの寂しい冬の夜に見た夢の短さよ)

かえって心が満たされず悲くお思いになるので、早くにお起きになって、誰のためということでもなしに、あちこちで御誦経などさせなさる。「苦しい目をお見せになると、お怨みなさるのも、さぞそのようにお思いになっておられよう。勤行をなさり、万事罪が軽くなった御ようすであったが、この一事で、この世の濁りをすすぐことがおできになれないのだろう」と、事の理由を深く考えてみられるに、ひどく悲しいので、「どうにかして、宮が知る人もなき世界にいらっしゃるのを、お見舞いにうかがって、罪もお引き受けしたいもの」など、つくづくとお思いになる。

あの方の御ために、取り立ててどんなことでもなさることは、人が不審がるに違いない。帝も、御心に疑いを抱かれるだろう、と気兼ねをされるので、ただ阿弥陀仏を心にかけて、お祈り申しあげなさる。宮と同じ蓮にと…

(源氏)なき人を…

(亡き人を慕う心にまかせて後を追いかけて行っても、その姿も見えない三途の川で道に迷うのだろうか)

とお思いになるにつけても、うらめしいことであったとか。

語句

■うき名の隠れなかりければ 源氏が紫の上に藤壺との秘密を話したとも取れる。冷泉帝には僧都を通して発覚しており(【薄雲 13】)、源氏は帝の態度からそれを察知している(【薄雲 14】)。 ■こは。などかくは 「こはいかに。なぞかく怯えたまふ」などの省略された形。 ■とけて寝ぬ… 「と(解)く」は安心しての意に、妻とうちとけて共寝するの意をかける。 ■飽かず 須磨で桐壷院を夢に見た時も同様の表現があった(【明石 03】)。 ■さとはなくて 藤壺のためとは公言しないで。 ■この一つ事 藤壺と源氏の密通。 ■この世の濁り 仏教で現世を五濁悪世ということから。五濁は却濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁。 ■すすいたまはざらむ 「すすい」は「すすぎ」の音便。 ■何わざをもしたまはむ 仏事を営むこと。 ■御心の鬼 冷泉帝は自分の出生について僧都からきいている(【薄雲 13】)。源氏は薄々それを察知しながら、帝がどこまで聞いたかは知らない。 ■同じ蓮にとこそは 下に「お祈りになったのだろう」の意が省略。極楽浄土では夫婦は同じ蓮の上に生まれ変わる。先に来た方は遅れてくる方のために蓮の葉の半分を明けておく。源氏と藤壺は夫婦ではないのでこれは成立しない。だから源氏は絶望し、次の歌をよむ。 ■なき人を… 「みつの瀬」は「水の瀬」と「三つの瀬」をかける。「三つの瀬」は三途の川。三途の川で、女は初めて逢った男に背負われて渡るという。

朗読・解説:左大臣光永

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