【玉鬘 02】玉鬘、乳母に付き添われて筑紫へ下向

原文

かの西の京にとまりし若君をだに、行《ゆ》く方《へ》も知らず、ひとへにものを思ひつつみ、また、「今さらにかひなき事によりて、わが名もらすな」と口がためたまひしを憚《はばか》りきこえて、尋ねても訪《おとづ》れきこえざりしほどに、その御|乳母《めのと》の夫、少弐《せうに》になりて行きければ、下りにけり。かの若君の四《よ》つになる年ぞ、筑紫《つくし》へは行きける。

母君の御行く方を知らむとよろづの神仏《かみほとけ》に申して、夜昼泣き恋ひて、さるべき所どころを尋ねきこえけれど、つひにえ聞き出でず。「さらばいかがはせむ。若君をだにこそは、御形見に見たてまつらめ。あやしき道に添へたてまつりて、遙かなるほどにおはせむことの悲しきこと。なほ、父君にほのめかさむ」と思ひけれど、さるべきたよりもなきうちに、「母君のおはしけむ方も知らず、尋ね問ひたまはば、いかが聞こえむ」「まだよくも見馴れたまはぬに、幼き人をとどめたてまつりたまはむも、うしろめたかるべし」「知りながら、はた、率《ゐ》て下《くだ》りね、とゆるしたまふべきにもあらず」など、おのがじし語らひあはせて、いとうつくしう、ただ今から気高《けだか》くきよらなる御さまを、ことなるしつらひなき舟にのせて漕ぎ出づるほどは、いとあはれになむおぼえける。幼き心地に母君を忘れず、をりをりに、「母の御もとへ行くか」と問ひたまふにつけて、涙絶ゆる時なく、むすめどもも思ひこがるるを、舟路《ふなみち》ゆゆしと、かつは諫《いさ》めけり。

おもしろき所どころを見つつ、「心若うおはせしものを、かかる道をも見せたてまつるものにもがな」「おはせましかば、我らは下《くだ》らざらまし」と、京の方を思ひやらるるに、返る波もうらやましく心細きに、舟子《ふなこ》どもの荒々しき声にて、「うら悲しくも遠く来にけるかな」とうたふを聞くままに、二人《ふたり》さし向ひて泣きけり。

舟《ふな》人もたれを恋ふとか大島のうらかなしげに声の聞こゆる

来《こ》し方も行《ゆ》く方《へ》もしらぬ沖に出でてあはれいづくに君を恋ふらん

鄙《ひな》の別れに、おのがじし心をやりて言ひける。

金《かね》の岬《みさき》過ぎて、「我は忘れず」など、世とともの言ぐさになりて、かしこに到《いた》り着きては、まいて遙かなるほどを思ひやりて恋ひ泣きて、この君をかしづきものにて明かし暮らす。夢などに、いとたまさかに見えたまふ時などもあり。同じさまなる女など、添ひたまうて見えたまへば、なごり心地あしく悩みなどしければ、なほ世に亡《な》くなりたまひにけるなめり、と思ひなるも、いみじくのみなむ。

現代語訳

あの西の京にとどまっていた若君さえ、万事どうなるかわからぬことだし、右近は、あのこと(夕顔の死)についてはひたすら世間に隠して、また源氏の君が「今さら取り返しのつかない事で私の名を漏らすな」と口止めなさったことにご遠慮申し上げて、探し出してお便り申し上げることもしないうちに、若君の御乳母の夫が大宰の少弐になって現地に赴任したので、乳母も付き添って下った。あの若君の四つになる年に、筑紫に行ったのである。

乳母は、母君(夕顔)の御行方を知ろうと、あらゆる神・仏にお願い申して、夜昼泣きこがれて、姫君のいらっしゃりそうな場所をあちこちお探し申しあげたが、ついに聞き出すことができない。「それならもうどうしようもない。せめて若君を、姫君(夕顔)の御形見にお世話申し上げよう。鄙びた道にお連れ申しあげて、遥かな道のりにお越しいただくとは悲しいこと。やはり父君には少しでもお知らせしておこう」と思ったが、その方法もないままに、「母君(夕顔)がどこにいらっしゃるかもわからないのに、父君(内大臣)がそのことをお尋ねになったら、なんと申しあげましょう」「まだよく父君になついていらっしゃらないのに、幼い人(玉鬘)をお引取りになられましょうとも、不安であるに違いありません」「父君もこの若君がご自分の御娘であるを知りながら、筑紫へ連れて行けと、お許しになるはずもありません」など、お互いに相談しあって、若君のたいそう可愛らしく、今から気高く美しげな御ようすを、これといった設備もない舟にのせて漕ぎ出す時は、ひどく気の毒に思われた。

若君(玉鬘)は幼心に母君(夕顔)を忘れず、折々に「母の御もとに行くのか」とお尋ねになるにつけて、乳母たちは、涙の絶える時なく、自分の娘たちも女君(夕顔)を恋いこがれているのを、船路に涙は不吉であると、自分も泣きながらその一方では娘たちを叱るのであった。

景色のよい所をあれこれ見ては、(乳母)「姫君(夕顔)は御気持がお若くていらしたのだから、こうした道中もお見せ申しあげたかったものですね」「でももし生きていらしたら、私たちは西国へ下ることはなかったでしょう」と、つい京の方が思いやられずにはいられないにつけ、古歌にあるように、返る波もうらやましく、心細く思っていたところ、舟子たちが荒々しい声で「うら悲しくも遠く来にけるかな」と歌うのを聞くやいなや、乳母の娘ふたりは向かい合って泣いたのだった。

舟人も…

(舟人も誰を恋い慕っているのでしょうか。大島の浦にうら悲しげに声が聞こえる)

来し方も…

(過去も未来もわからない、舟の行く先もわからない沖に漕ぎ出して、ああ私たちはどこに貴女を恋い慕っているのでしょうか)

「鄙の別れに衰えて」といった風情なので、めいめい思いを馳せてこんなことを言うのだった。

金の岬を過ぎてからは、「我は忘れず」などという文句が、寝ても覚めても口癖になって、あちらに到着してからは、それまでにもまして都からの遥かな道のほどを思いやって恋しさに泣いて、この若君(玉鬘)を主人として明かし暮らす。

乳母の夢などに、ごくまれに、女君(夕顔)がお見えになる時などもある。いつぞやと同じなりをした女などが、女君のおそばに立っていらっしゃるのが夢に見えたので、目が覚めた後も気分が悪く体調が崩れなどしたので、やはり女君(夕顔)は、この世からお亡くなりになられたようだ、と思うようになったのも、ひどく悲しいことである。

語句

■若君 夕顔と当時の頭中将(現内大臣)の娘。後に玉鬘と称す。西の京の夕顔の乳母のもとで養育された。夕顔が五条の家に身を潜めていた時は一緒にいなかった(【夕顔 17】)。 ■行く方も知らず 世間の万事がどう成り行くかわからないこと。 ■ものを思ひつつみ 「もの」は夕顔の死。 ■かひなき事 夕顔の死という取り返しのつかないこと。 ■わが名もらすな 「犬上の鳥籠《とこ》の山なる名取川いさと答へよわが名漏らすな」(古今・恋三・墨滅歌 読人しらず、万葉2710)による。歌意は、「犬上の鳥籠の山にある名取川。その「名取り」という言葉のように、私のことを尋ねられても「さあ」ととぼけて、私の名を漏らしてはいけない」。ここから、「口止め」の意になる。鳥籠の山は近江国の歌枕。滋賀県彦根市正法寺町(しょうぼうじちょう)の大堀山(おおぼりやま)に比定される。『日本書紀』に壬申の乱で戦場になったと記される。 (【紅葉賀 16】)。 ■尋ねても訪れきこえざりし 「かの夕顔の宿には、いづかたにと思ひまどへど、そのままにえ尋ねきこえず」(【夕顔 20】)。 ■少弐 大宰府の次官。 ■筑紫 筑前・筑後(福岡県)の古称。 ■母君の御行く方を知らむと 右近は夕顔の死について五条の宿の乳母たちに知らせなかった(【夕顔 20】)。しかし五条の宿の主人は乳母の娘だったので、夕顔の失踪はすぐに乳母に伝えられたのだろう。 ■あやしき道 西国へ向かう道のこと。 ■父君 内大臣。そのころは頭中将。 ■知りながら 内大臣が玉鬘を自分の娘だと。 ■漕ぎ出づる 伏見辺から船に乗り淀川を下り川尻から瀬戸内海に漕ぎ出す。参考「わわたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣船」(小倉百人一首十一番 参議篁)。 ■娘ども 乳母の娘たち(姉おもと・兵部の君)。 ■舟道ゆゆし 船旅に涙は不吉であると。 ■かつは 自分自身も泣いているのであるが、その一方で娘たちの泣くのを叱る。 ■おもしろき所どころ 瀬戸内海の風景。 ■返る波もうらやましく 「いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくも返る波かな」(伊勢物語七段、後撰・羇旅 業平)。 ■舟子 水夫。船を動かす人。 ■うら悲しくも遠く来にけるかな 当時の舟歌か。伊勢物語九段「かぎりなく遠くも来にけるかな」をふまえたか。 ■二人 乳母の子二人。次のニ首の歌も乳母の子二人の歌と取る。少弐夫婦の歌とする説もある。 ■舟人も… 「大島」福岡県宗像郡大島か。「大島のうら(浦)」に「うら(心)かなし」をかける。 ■来し方も… 夕顔に向かって呼びかけたもの。 ■雛の別れ 「思ひきや鄙の別れに衰へて海人の縄たき漁りせむとは」(古今・雑下 小野篁)(【須磨 17】)。 ■金の岬 福岡県宗像郡玄海町にある鐘の岬。海女発祥の地として知られ、武内宿禰をまつる織幡神社がある。西北沖に大島がある。 ■我は忘れず 「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも我は忘れじ志賀のすめ神」(万葉1230)。荒海を通過したからといって海神のご加護を忘れまいという歌を夕顔に対するものとして引いた。 ■世とともの 寝ても覚めてもの。 ■かしこ 大宰府。 ■同じさまなる女 夕顔が某院で死んだ時、傍らに美貌の女の姿があった(【夕顔 20】)。その正体は物語中で明言されない。六条御息所の生霊とする説は取らない。 ■なごり心地 夢を見た後の気分。 ■

朗読・解説:左大臣光永

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