【玉鬘 09】右近と乳母、玉鬘の将来について語り交わす

明けぬれば、知れる大徳《だいとこ》の坊《ばう》に下《お》りぬ。物語心やすく、となるべし。姫君の、いたくやつれたまへる恥づかしげに思したるさま、いとめでたく見ゆ。「おぼえぬ高きまじらひをして、多くの人をなむ見あつむれど、殿の上《うへ》の御|容貌《かたち》に似る人おはせじとなむ、年ごろ見たてまつるを、また生ひ出でたまふ姫君の御さま、いとことわりにめでたくおはします。かしづきたてまつりたまふさまも、並びなかめるに、かうやつれたまへるさまの、劣りたまふまじく見えたまふは、あり難うなむ。大臣《おとど》の君、父帝の御時より、そこらの女御|后《きさき》、それより下《しも》は残るなく見たてまつりあつめたまへる御目にも、当代《たうだい》の御|母后《ははさきさ》と聞こえしと、この姫君の御|容貌《かたち》とをなむ、『よき人とはこれをいふにやあらむとおぼゆる』と聞こえたまふ。見たてまつり並ぶるに、かの后《きさき》の宮《みや》をば知りきこえず、姫君はきよらにおはしませど、まだ片なりにて、生《お》ひ先《さき》ぞ推《お》しはかられたまふ。上《うへ》の御|容貌《かたち》は、なほ誰か、並びたまはむとなむ、見たまふ。殿もすぐれたりと思しためるを、言《こと》に出でては、何かは数《かず》への中には聞こえたまはむ。『我に並びたまへるこそ、君はおほけなけれ』となむ、戯《たはぶ》れきこえたまふ。見たてまつるに、命延ぶる御ありさまどもを、またさるたぐひおはしましなむや、となむ思ひはべるに、いづくか劣りたまはむ。ものは限りあるものなれば、すぐれたまへりとて、頂《いただき》を放れたる光やはおはする。ただこれを、すぐれたりとは聞こゆべきなめりかし」と、うち笑みて見たてまつれば、老人《おいびと》もうれしと思ふ。「かかる御さまを、ほとほとあやしき所に沈めたてまつりぬべかりしに、あたらしく悲しうて、家|竈《かまど》をも棄て、男女《をとこをむな》の頼むべき子どもにもひき別れてなむ、かへりて知らぬ世の心地する京に参うで来《こ》し。あがおもと、はやく、よきさまに導ききこえたまへ。高き宮仕《みやづかへ》したまふ人は、おのづから行きまじりたるたよりものしたまふらむ。父大臣に聞こしめされ、数まへられたまふべきたばかり思《おぼ》し構《かま》へよ」と言ふ。恥づかしう思《おぼ》いて、背後《うしろ》向きたまへり。「いでや、身こそ数ならねど、殿も御前近く召し使ひたまへば、もののをりごとに、『いかにならせたまひにけん』と聞こえ出づるを、聞こしめしおきて、『我いかで尋ねきこえむと思ふを、聞き出でたてまつりたらば』となむのたまはする」と言へば、「大臣《おとど》の君は、めでたくおはしますとも、さるやむごとなき妻《め》どもおはしますなり。まづ実《まこと》の親とおはする大臣にを知らせたてまつりたまへ」など言ふに、ありしさまなど語り出でて、「世に忘れがたく悲しきことになむ思して、『かの御かはりに見たてまつらむ、子も少なきがさうざうしきに、わが子を尋ね出でたると人には知らせて』と、その昔《かみ》よりのたまふなり。心の幼かりけることは、よろづにものつつましかりしほどにて、え尋ねてもきこえで過ごししほどに、少弐になりたまへるよしは、御名にて知りにき。罷申《まかりまうし》に、殿に参りたまへりし日、ほの見たてまつりしかども、え聞こえでやみにき。さりとも姫君をば、かのありし夕顔の五条にぞとどめたてまつりたまへらむとぞ思ひし。あないみじや。田舎人《ゐなかびと》にておはしまさましよ」など、うち語らひつつ、日一日《ひひとひ》、昔物語《むかしものがたり》、念誦《ねんず》などしつつ。

現代語訳

夜が明けると、知り合いの僧の坊に下りた。気楽に話がしたい、ということなのだろう。姫君(玉鬘)が、とても質素になさっていることを恥ずかしそうに思っていらっしゃるさまが、とてもすばらしく拝見される。

(右近)「思いもかけない上流の人々の間でお勤めをして、多くの方々をいろいろと見てきましたが、殿の上(紫の上)のご器量にならぶ方はいらっしゃらないだろうと、長年拝見しておりましたが、そのほかにはご成長中の姫君(明石の姫君)の御ようすが、まことに当然のことながら、たいそう美しくていらっしゃいます。

源氏の大臣が大切にお世話申しあげなさっているさまも並びないとは思われますが、その姫君(明石の姫君)に、こうして地味になさっているこの御方(玉鬘)のご様子が、見劣りなさらないだろうとお見えになるのは、滅多に無いすばらしいことです。

大臣の君(源氏の君)は、父帝(桐壺帝)の御代より、そこらの女御、后、それより身分の低い方々は残りなくいろいろな女性を拝見なさっておられますが、その御目にも、今上帝(冷泉帝)の御母后(藤壺宮)と申しあげた御方と、この姫君(明石の姫君)の御器量とを、『美人とはこういう人を言うのだろうと思う』と申しあげておられます。この御方(玉鬘)をそのお二人(藤壺宮・明石の姫君)にお見比べ申しあげてみましても、あの后の宮さま(藤壺宮)は存じ上げませんが、姫君(明石の姫君)は美しくはいらっしゃいますが、まだ成長途上でして、将来が楽しみでいらっしゃいます。上(紫の上)の御器量は、やはり誰も肩をおならべすることなどできないと、誰もお考えでいらっしゃいます。殿(源氏)も上(紫の上)をすぐれた御方であるとお考えでいらっしやるようですが、言葉に出しては、どうして美人の数の中に入れてお話になられましょうか。『私と並んでいらっしゃるのなんて、貴女は身のほどしらずだよ」と、殿はお戯れにおっしゃいます。御二人を拝見するにつけても寿命が延びるような御ようすで、他にこのような素晴らしい御方がいらっしゃるだろうか、と思ってございましたが、この御方(玉鬘)は、どこが劣っていらっしゃるでしょうか。物には限度があるものですから、すぐれていらっしゃるからといって、仏様のように頭の上から光がさすというわけにはまいりませんが。ただこういう御方を、すぐれていると申し上げるべきなのでしょうね」と、右近が微笑んで姫君(玉鬘)を拝見すると、老人(乳母)もうれしく思う。

(乳母)「こんな素晴らしいご器量を、あやうく見すぼらしい田舎にお沈め申し上げるところでした。それがもったいなく、悲しくて、家財をも捨てて、頼りになる息子娘たちにもひき別れて、かえって知らぬ土地のような気のする京に帰って参ったのです。あなた様、はやく、よきようにお導き申しあげてくださいませ。ご身分高いご邸で宮仕えなさっている方は、自然とお付き合いの間の便宜もあるものでございましょう。父大臣(内大臣)にお知らせくださり、姫君(玉鬘)が御子の数の中にお入れられなさるように、はからってくださいまし」と言う。

姫君は恥ずかしくお思いになって、うしろを向いていらっしゃる。

(右近)「さあ、私の身は物の数でもないのですが、殿(源氏)もおそば近くに私を召し使ってくださいますので、何かの折ごとに、『姫君はどうなられましたでしょうか』と私が話題に出して申しあげますのを、殿はお耳に入れておいでになられて、『私はどうにかして姫君を探し出し申そうと思うので、もしそなたが噂を耳にするようなことがあったら』とおっしゃいます」と言えば、(乳母)「大臣の君(源氏)は、すばらしい御方でいらっしゃるとしても、そのようなしかるべき多くの奥方たちもいらっしゃると聞きます。まずは実の親でいらっしゃる内大臣にぜひお知らせ申しあげてくださいまし」などと言うので、右近は、過去の出来事のいきさつなどを話に出して、(右近)「殿(源氏)は、まことに忘れがたく悲しいこととお思いになって、『あの方(夕顔)の御かはりに姫君のお世話をしてさしあげよう、私は子も少なくて物足りないので、わが子を探し出したのだと人には説明して』と、その当時からおっしゃっておいでなのです。私の考えが幼かったのですが、万事遠慮がちな年頃で、お探し申し上げることもしないで年月を過ごしているうちに、貴女の夫が少弐になられたことは、地方官任命の名簿で知りました。

少弐がお暇乞いに、二条院に参られた日、ちらと拝見しましたが、申しあげずじまいになってしまいました。あの以前の夕顔の五条の宿に姫君をおとどめ申しあげられたのだろうと思っていました。それがまあ大変な。田舎者としてお過ごしになったかもしれないと」など、お互いに語り合いつつ、一日中、昔物語、念仏誦経などをしていた。

語句

■大徳 長谷寺の僧。前の「大徳」と同一人物か。 ■姫君の 右近がはっきり玉鬘の姿を見るのはこれが初めて。 ■高きまじらひ 六条院で貴人たちにお仕えして。 ■姫君 明石の姫君。七歳。 ■いとことわり 源氏の子だから美しいのは当然だが、の意。 ■劣りたまふまじく 明石の姫君に。 ■それより下 更衣以下。 ■聞こえたまふ 源氏が紫の上に。 ■上の御容貌は… 右近は紫の上つきの女房だから紫の上のことを特によく言う。それにしても右近は喋りすぎなくらいよく喋る。 ■数へ 美人の人数。 ■我に並びたまへるこそ… 源氏は紫の上に対し、貴女は私にふさわしくないと言うというのだが、そうした冗談事を言えるほど、源氏は紫の上に満足しているのである。 ■見たてまつるに 源氏と紫の上のすばらしい御姿を拝見すると。 ■いづくか 玉鬘は紫の上と比べて。 ■頂を放れたる光 「世尊ノ頂ハ百宝無畏光明ヲ放ツ」(楞厳経)。 ■かかる御さま 玉鬘のすぐれた容姿。 ■ほとほと 危うく。すんでのところで。 ■あやしき所 筑紫。大夫監に玉鬘を嫁がせかけたこと。 ■家竈 家財。 ■男女の頼むべき子ども 乳母の次郎と三郎と長女(おもと)。 ■あがおもと 女性に対する親しみをこめた呼び方。 ■行きまじりたるたより 内大臣邸へのコネのこと。 ■父大臣 内大臣。玉鬘の父。 ■身こそ数ならねど 謙遜。その実、右近は源氏のおそば近く仕えていることに強い自負を持っていることは以下の台詞から知れる。 ■我いかで… 源氏の台詞に玉鬘に対する謙譲表現「きこえ」「たてまつり」が見えるのは、右近の玉鬘に対する敬意が源氏の言葉に混入している。 ■聞き出でたてまつりたらば 下に「我に知らせよ」を補って読む。 ■さるやむごとなき妻ども 紫の上・明石の君・花散里など。 ■大臣にを 「を」は強めの間投助詞。 ■ありしさま 夕顔が急死した時のいきさつ(【夕顔 12】)。 ■世に忘れがたく悲しきことになむ思して (【夕顔 17】)。 ■子も少なきが 源氏の子は夕霧、明石の姫君、冷泉帝。冷泉帝は公式には桐壺院の子。 ■人には知らせて 下に「見たてまつらむ」を補って読む。 ■その昔より 夕霧が急死した当時から。 ■心の幼かりけること 右近の弁解。実は源氏が夕顔の死については隠していた(【夕顔 20】)。 ■御名にて 地方官任命の名簿での意か。 ■さりとも 大宰府に赴任なさったとしても。 ■夕顔の五条にぞ 玉鬘は夕顔が急死した時、西の京の乳母の家にいた。五条の夕顔の宿には行っていない。 ■念誦などしつつ 下に「暮らす」などを補って読む。

朗読・解説:左大臣光永

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