【野分 09】夕霧、明石の姫君を見舞う

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むつかしき方々めぐりたまふ御供に歩《あり》きて、中将はなま心やましう、書かまほしき文《ふみ》など、日たけぬるを思ひつつ、姫君の御方に参りたまへり。「まだあなたになむおはします。風に怖《お》ぢさせたまひて、今朝はえ起き上りたまはざりつる」と、御|乳母《めのと》ぞ聞こゆる。「もの騒がしげなりしかば、宿直《とのゐ》も仕うまつらむと思ひたまへしを、宮のいとも心苦しう思いたしかばなむ。雛《ひひな》の殿《との》はいかがおはすらむ」と問ひたまへば、人人笑ひて、「扇の風だにまゐれば、いみじきことに思いたるを、ほとほとしくこそ吹き乱りはべりしか。この御|殿《との》あつかひにわびにてはべり」など語る。「ことごとしからぬ紙やはべる。御|局《つぼね》の硯《すずり》」と請《こ》ひたまへば、御厨子《みづし》に寄りて、紙|一巻《ひとまき》、御硯の蓋《ふた》に取りおろして奉れば、「いな、これはかたはらいたし」とのたまへど、北の殿《おとど》のおぼえを思ふに、すこしなのめなる心地して文書きたまふ。紫の薄様《うすやう》なりけり。墨、心とどめて押し磨《す》り、筆のさきうち見つつ、こまやかに書きやすらひたまへる、いとよし。されど、あやしく定まりて、憎き口つきこそものしたまへ。

風さわぎむら雲まがふ夕べにもわするる間《ま》なく忘られぬ君

吹き乱れたる刈萱《かるかや》につけたまへれば、人々、「交野《かたの》の少将は、紙の色にこそととのへはべりけれ」と聞こゆ。「さばかりの色も思ひわかざりけりや。いづこの野辺のほとりの花」など、かやうの人々にも、言《こと》少なに見えて、心|解《と》くべくももてなさず、いとすくすくしう気《け》高し。またも書いたまうて、馬助《むまのすけ》に賜へれば、をかしき童、またいと馴《な》れたる御|随身《ずいじん》などに、うちささめきて取らするを、若き人々ただならずゆかしがる。

渡らせたまふとて、人々うちそよめき、几帳ひきなほしなどす。見つる花の顔どもも、思ひくらべまほしうて、例はものゆかしからぬ心地に、あながちに、妻戸の御簾《みす》をひき着て、几帳の綻《ほころ》びより見れば、物のそばより、ただ這ひ渡りたまふほどぞ、ふとうち見えたる。人の繁《しげ》くまがへば、何のあやめも見えぬほどに、いと心もとなし。薄色《うすいろ》の御|衣《ぞ》に、髪のまだ丈《たけ》にははづれたる末のひき広げたるやうにて、いと細く小さき様体《やうだい》らうたげに心苦し。「一昨年《をととし》ばかりは、たまさかにもほの見たてまつりしに、またこよなく生《お》ひまさりたまふなめりかし。まして盛《さか》りいかならむ」と思ふ。「かの見つるさきざきの、桜、山吹といはば、これは藤の花とやいふべからむ。木《こ》高き木より咲きかかりて、風になびきたるにほひは、かくぞあるかし」と思ひよそへらる。「かかる人々を、心にまかせて明け暮れ見たてまつらばや。さもありぬべきほどながら、隔て隔てのけざやかなるこそつらけれ」など思ふに、まめ心もなまあくがるる心地す。

現代語訳

わずらわしい方々のもとをおめぐりになる大臣(源氏)の御供をしてあちこち巡回したので、中将(夕霧)は、なんなとく気落ちして、書きたい手紙なども書けないままに日が高くなったのを気に病みつつ、明石の姫君の御方においでになった。(乳母)「姫君は、まだあちら(紫の上方)にいらっしゃいます。風を怖がりなさって、今朝は起き上がることもおできになれませんでした」と、御乳母が申し上げる。(夕霧)「野分が激しかったので、こちらで宿直でもいたしましょうかと思っておりましたが、大宮がたいそう心苦しそうにしていらっしゃいましたので…。雛の殿(明石の姫君)はどうしていらっしゃいますか」とご質問なさると、女房たちは笑って、「扇の風が吹いてきてさえ、恐ろしいこととご心配なさいますのに、昨夜はすんでのところで御殿が風で吹き破れてしまいそうでした。この御殿のお守りにはまったく手を焼きました」などと語る。(夕霧)「大げさでない紙はございますか。それと御局の硯」とお求めになると、御乳母は姫君のお部屋の御厨子に立ち寄って、巻紙を一巻、御硯の蓋に入れてさし出すので、(夕霧)「いや、これでは畏れ多い」とおっしゃるが、北の殿にいらっしゃる母君の世間的な格を思うと、すこしこれでもいいかという気持がして手紙をお書きになる。紫の薄様なのであった。墨を注意ぶかく押し擦り、筆の先を見つつ、こまやかに書きわずらっていらっしゃるご様子が、まことにさまになっている。しかし、歌は妙に型にはまって、まずい詠みようでいらっしゃる。

風さわぎ…

(風がさわぎ、むら雲が乱れる夕方でも、忘れる間もないほど忘れられない貴女なのです)

これを風に吹き乱されていた刈萱におつけになったので、女房たちが、「交野の少将は、紙の色とお合わせになったものでございますよ」と申し上げる。(夕霧)「その程度の花の色も私は気が付かなかったのですね。どこの野辺の花がいいものやら」など、中将は、こうした女房たちに対しても、言葉少なげに接して、相手が気を許すようにも振る舞わず、ひどく他人行儀で、品位を高く保っていらっしゃる。

もう一通お書きになって、馬助にお与えになると、美しい童、またよく馴れている御随身などに、何事かささやいて取らせるのを、若い女房たちは並々ならず、その宛先を知りたいと思う。

姫君がお戻りになるということで、女房たちがざわめいて、几帳を引き直しなどする。中将(夕霧)は、垣間見た花々の顔を、思い出して比べてみたくて、ふだんはそれほど見たいとも思わないのに、憚りもなく、妻戸の御簾をひき被って、几帳のほころびから見れば、物陰から、たった今歩いておいでになるようすが、ちらりと見えた。

女房たちが多く行き来していて視界をさえぎられるので、はっきりとは見きわめることもできないから、ひどく心もとない。薄色のお召し物に、髪がまだ背丈には及んでいない、その髪の末が広がったようになって、まことに細く小さな体つきは、可愛らしく、いじらしい。「一昨年ごろは、ごくまれにちらりとお見かけしたが、今はまたすこぶるご成長になられたようだ。まして年頃になればどんなだろう」と中将は思う。「さきほど垣間見たあの御二人(紫の上・玉鬘)を、桜、山吹とたとえるなら、こちらは藤の花と言うべきだろうか。高い木から咲きかかって、風になびいている藤の花の美しい色合いは、ちょうどこのようであることよ」と思いなぞらえられる。「こんな美しい方々を、思うままに明け暮れ拝見したいものだ。身内なのだから当然それは許されるはずなのに、父上が事ごとに隔てを置いて、はっきり拝見されてくださらないのが、辛いことだ」などと思うにつけ、まじめな気性ながら何となくお気持がざわつかれるのである。

語句

■なま心やましう 夕霧は源氏と御方々との交流を見て、心かきたてられる。 ■書かまほしき文 雲居雁や惟光の娘への手紙。 ■雛の殿 明石の姫君が雛遊びをしていることから、明石の姫君の御殿のことを洒落て言った。 ■ほとほとしく すんでのところで。 ■御硯の蓋 硯の蓋に物をのせて差し出すことが多かった。 ■いな、これはかたはらいたし 夕霧は女房が所持する紙と硯を求めたのに姫君所持のそれを差し出されたのは、畏れ多いと。つまり予想より「上」のものが出てきたので躊躇している。明石の姫君は将来の后と見られているので。 ■北の殿のおぼえ 明石の御方の世間的な格。夕霧は、将来の后である明石の姫君の紙と硯を差し出されたので躊躇した。しかし姫君の母の身分を考えると、遠慮するほどの身分でもないので、この紙と硯を使ってもよいと考え直した。 ■書きやすらひ 雲居雁への手紙。 ■風さわぎ… 余情に欠ける歌。夕霧の雲居雁へのぎこちない気持が出ている。 ■苅萱 秋の七草の一。「まめなれどよき名も立たず苅萱のいざ乱れなむしどろもどろに
」の意をふくむ。 ■馬助 右馬寮の次官。正六位相当。 ■をかしき童 雲居雁への手紙は童に、もう一通は御随身に託したのだろう。 ■随身 貴人の護衛につく近衛府の舎人。中将には四人つく。 ■見つる花の顔どもも… 紫の上(樺桜)・玉鬘(八重山吹)と、姫君を比べてみたくなった。 ■妻戸の御簾をひき着て 開いた妻戸に添えられた御簾に身をかがめて隠れて、御簾のほころび(帷子の縫い合わせていない隙間)から、部屋の中をのぞく。 ■髪のまだ丈にははづれたる 明石の姫君は八歳。髪の長さがまだ身長に及ばない。 ■一昨年ばかりは、たまさかにもほの見たてまつりしに この一文不審。一昨年は明石の姫君六歳。夕霧はまだ姫君の簾中に入ることを許されている(【螢 11】)。 ■かの見つるさきざき 紫の上と玉鬘。 ■桜、山吹 紫の上は「春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す」(【野分 02】)、玉鬘は「八重山吹の咲き乱れたる盛りに露のかかれる夕映えぞ、ふと思ひ出でらる」(【野分 07】)と、夕霧は見た。 ■かかる人々 紫の上・玉鬘・明石の姫君といった美しい方々。 ■さもありぬべきほど 夕霧にとって紫の上は義母、玉鬘と明石の姫君は義妹なのだから、当然近づいても許されるだろうに、それが叶わないことのもどかしさ。

朗読・解説:左大臣光永

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