【若菜上 31】明石の君、女御に入道の願文を託す

対の上などの渡りたまひぬる夕つ方、しめやかなるに、御方、御前に参りたまひて、この文箱《ふばこ》聞こえ知らせたまふ。「思ふさまにかなひはてさせたまふまではとり隠しておきてはべるべけれど、世の中定めがたければ、うしろめたさになむ。何ごとをも御心と思し数まへざらむこなた、ともかくもはかなくなりはべりなば、必ずしも、いまはのとぢめを御覧ぜらるべき身にもはべらねば、なほうつし心失せずはべる世になむ、はかなきことをも聞こえさせおくべくはべりける、と思ひはべりて。むつかしくあやしき跡なれど、これも御覧ぜよ。この御|願文《ぐわんぶみ》は、近き御厨子《みづし》などに置かせたまひて、必ずさるべからむをりに御覧じて、この中の事どもはせさせたまへ。疎《うと》き人にはな漏らさせたまひそ。かばかり、と見たてまつりおきつれば、みづからも世を背きはべりなんと思うたまへなりゆけば、よろづ心のどかにもおぼえはべらず。対の上の御心、おろかに思ひきこえさせたまふな。いとあり難くものしたまふ深き御気色を見はべれば、身にはこよなくまさりて、長き御世にもあらなん、とぞ思ひはべる。もとより、御身に添ひきこえさせんにつけても、つつましき身のほどにはべれば、譲りきこえそめはべりにしを、いとかうしもものしたまはじとなむ、年ごろは、なほ世の常に思うたまへわたりはべりつる。今は、来《き》し方行く先、うしろやすく思ひなりにてはべり」などいと多く聞こえたまふ。涙ぐみて聞きおはす。かく睦《むつ》ましかるべき御前にも、常にうちとけぬさましたまひて、わりなくものづつみしたるさまなり。この文の言葉、いとうたて強く憎げなるさまを、陸奥国紙《みちのくにがみ》にて、年|経《へ》にければ黄ばみ厚肥《あつご》えたる五六枚、さすがに香《かう》にいと深くしみたるに書きたまへり。いとあはれと思して、御|額髪《ひたひがみ》のやうやう濡れゆく御そばめあてになまめかし。

現代語訳

対の上(紫の上)などがお帰りになられた後の夕方、ひっそりしている時分に、御方(明石の君)は、女御(明石の女御)の御前に参上なさって、この文箱のことをお伝え申しあげなさる。(明石の君)「思うように願いがすっかりお叶いになられるまでは隠しておくべきでございましたが、世の中はどうなるかわかりませんので、心配でして。貴女が万事、ご自分のお考えでご判断できないうちに私がもしもことで逝ってしまったら、必ずしも、臨終をお看取りいただける身でもございませんので、やはりまだしっかりしております間に、些細な事をも申しあげておくほうがよいだろう、と思いまして。読みにくく妙な筆跡ですが、これもご覧になってください。この願文は、近くの御厨子などにお置きになられて、必ずしかるべき折にご覧になって、この中に書かれている数々の願いの、お礼参りをなさってください。他人にはお漏らしになられますな。貴女さまがこれほどまでにご立派になられたのを拝見しました上は、私自身も世を背いて出家隠遁しようと思うようになってきますので、万事、心が落ち着かないのでございます。対の上(紫の上)の御心を、並たいていのものとお思いになられますな。まことに世にまたとない深いご親切のほどを拝見いたしますに、私よりもずっといつまでも、長生きしていただきたい、とまで思っております。もともと、私が貴女の御身にお付き添い申しあげるにつけても、はばかられる身分でございますので、はじめから上(紫の上)にお譲り申しあげたのですが、まさかここまで立派に養育してくださることはなかろうと、長年の間、やはり世間の普通の継母のように、冷たくお扱いになられるのだろうと、ずっと思っておりました。それが今は、後も先も、安心できると思うようになりました」など、まことに多くの事を申しあげなさる。

女御は涙ぐんで聞いていらっしゃる。御方(明石の君)は、こうして打解けてよい女御の御前でも、礼儀正しい様子をなさって、むやみにご遠慮していらっしゃる様子である。入道の手紙の言葉は、まことに堅苦しく無愛想な感じだが、それを、陸奥国紙で、年数が経っているので黄ばんで厚ぼったくなっている五六枚の、それでもさすがに香がまことに深く染みているのにお書きになっておられる。女御は、とても愛しくお思いになられて、御額髪がしだいに濡れていく御横顔は、上品で優美である。

語句

■対の上などの渡りたまひぬる 紫の上とそのおつきの女房たちが東の対に帰った。 ■御前 明石の女御の御前。明石の女御が入内すれば気安く会うことはできなくなるので、明石の君はここぞと大事な話を切り出す。 ■この文箱 住吉神社に願立をした趣旨を記した文をおさめた文箱。 ■思ふさまに… 若君が即位し、女御が国母となること。「もし世の中思ふやうならば…」(【若菜上 30】)。 ■ともかくもはかなくなりはべりなば 「ともかくもなりはべりなば」と「はかなくなりはべりなば」が融合した形。婉曲表現を途中から直接表現に言い換えている。 ■必ずしも… 明石の君は身分が低いため、臨終を女御に必ずしも看取ってもらえるとは限らない。 ■思ひはべりて 下に「聞こえたてまつる」などを補い読む。 ■これも 「も」から、これ以前に入道の手紙を見せていることがわかる。 ■さるべからむをり 立后の際に、の意か。 ■かばかり 若宮の母となったことか。 ■みづからも 父入道と同じように私も。 ■身にはこよなくまさりて 明石の君は、紫の上が自分よりずっと長生きすることを望む。 ■譲りきこえそめはじりにし 明石の女御を紫の上の養育に託したこと(【薄雲 02】)。 ■いとかうしもものしたまはじ 紫の上がここまで立派に養育してくださるとは思わなかったの意。 ■世の常に 世間の継母のように継子に冷たく当るだろうと。 ■今は 紫の上が親身に女御を養育してくださることを見届けた今は。 ■常にうちとけぬさま 明石の君は娘に対しても身分を重んじ、軽々しく接しない。 ■この文 入道の手紙。 ■いとうたて強く 漢字が多く固苦しい。 ■陸奥国紙にて 「陸奥国紙に、いたう古めきたれど、書きざまよしばみたり」(【明石 10】)とあった。陸奥国紙は古風で実用向き。 ■さすがに香にいと深くしみたる いくら無骨な文のようすといっても、やはり香を焚き染める風雅は忘れない。 ■御額髪 額から左右に耳の前に垂れる髪。

朗読・解説:左大臣光永