【若菜上 32】源氏、入道の入山を知り、奇しき宿縁を思う

院は、姫宮の御方におはしけるを、中の御障子《みさうじ》よりふと渡りたまへれば、えしもひき隠さで、御|几帳《きちやう》をすこし引き寄せて、みづからははた隠れたまへり。「若宮はおどろきたまへりや。時の間も恋しきわざなりけり」と聞こえたまへば、御息所《みやすどころ》は答《いら》へも聞こえたまはねば、御方、「対《たい》に渡しきこえたまひつ」と聞こえたまふ。「いとあやしや。あなたにこの宮を領《らう》じたてまつりて、懐《ふところ》をさらに放たずもてあつかひつつ、人やりならず衣《きぬ》もみな濡らして脱ぎ換《か》へがちなめる。軽々《かろがろ》しく、などかく渡したてまつりたまふ。こなたに渡りてこそ見たてまつりたまはめ」とのたまへば、「いとうたて。思ひ隈《ぐま》なき御|言《こと》かな。女におはしまさむにだに、あなたにて見たてまつりたまはむこそよくはべらめ。まして、男は限りなしと聞こえさすれど、心やすくおぼえたまふを。戯《たはぶ》れにても、かやうに隔てがましきこと、なさかしらがり聞こえさせたまひそ」と聞こえたまふ。うち笑ひて、「御仲どもにまかせて、見放ちきこゆべきななりな。隔てて、今は、誰《たれ》も誰もさし放ち、さかしらなどのたまふこそ幼けれ。まづは、かやうに這ひ隠れて、つれなく言ひおとしたまふめりかし」とて、御几帳をひきやりたまへれば、母屋《もや》の柱に寄りかかりて、いときよげに、心恥づかしげなるさましてものしたまふ。

ありつる箱も、まどひ隠さむもさまあしければ、さておはするを、「なぞの箱ぞ。深き心あらむ。懸想《けさう》人の長歌《ながうた》詠みて封《ふん》じこめたる心地こそすれ」とのたまへば、「あなうたてや。いまめかしくなり返らせたまふめる御心ならひに、聞き知らぬやうなる御すさび言どもこそ時々出で来《く》れ」とて、ほほ笑みたまへれど、ものあはれなりける御気色どもしるければ、あやしとうち傾きたまへるさまなれば、わづらはしくて、「かの明石の岩屋《いはや》より、忍びてはべし御|祈濤《いのり》の巻数《くわんじゆ》、また、まだしき願《ぐわん》などのはべりけるを、御心にも知らせたてまつるべきをりあらば、御覧じおくべくやとてはべるを、ただ今はついでなくて、何かは開《あ》けさせたまはむ」と聞こえたまふに、げにあはれなるべきありさまぞかしと思して、「いかに行ひまして住みたまひにたらむ。命長くて、ここらの年ごろ勤《つと》むる積《つ》みもこよなからむかし。世の中によしありさかしき方々の人とて、見るにも、この世に染《そ》みたるほどの濁《にご》り深きにやあらむ、賢《かしこ》き方こそあれ、いと限りありつつ及ばざりけりや。さもいたり深く、さすがに気色ありし人のありさまかな。聖《ひじり》だちこの世離れ顔にもあらぬものから、下《した》の心はみなあらぬ世に通ひ住みにたる、とこそ見えしか、まして、今は、心苦しき絆《ほだし》もなく思ひ離れにたらむをや。かやすき身ならば、忍びていと逢はまほしくこそ」とのたまふ。「今は、かのはべりし所をも棄《す》てて、鳥の音《ね》聞こえぬ山にとなむ、聞きはべる」と聞こゆれば、「さらばその遺言《ゆいごん》ななりな。消息《せうそこ》は通はしたまふや。尼君いかに思ひたまふらむ。親子の仲よりも、またさるさまの契りはことにこそ添ふべけれ」とて、うち涙ぐみたまへり。

「年のつもりに、世の中のありさまを、とかく思ひ知りゆくままに、あやしく恋しく思ひ出でらるる人の御《み》ありさまなれば、深き契りの御仲らひはいかにあはれならむ」などのたまふついでに、この夢語も思しあはすることもや、と思ひて、「いとあやしき梵字《ぼんじ》とかいふやうなる跡にはべめれど、御覧じとどむべきふしもやまじりはべるとてなむ。今はとて、別れはべりにしかど、なほこそあはれは残りはべるものなりけれ」とて、さまよくうち泣きたまふ。とりたまひて、「いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。手なども、すべて何ごとも、わざと有職《いうそく》にしつべかりける人の、ただこの世|経《ふ》る方の心おきてこそ少なかりけれ。かの先祖《せんぞ》の大臣《おとど》は、いと賢《かしこ》くあり難き心ざしを尽くして朝廷《おほやけ》に仕うまつりたまひけるほどに、ものの違《たが》ひ目ありて、その報《むくい》いにかく末はなきなりなど、人言ふめりしを、女子《をむなご》の方につけたれど、かくていと嗣《つぎ》なしといふべきにはあらぬも、そこらの行ひの験《しるし》にこそはあらめ」など、涙おし拭《のご》ひたまひつつ、この夢のわたりに目とどめたまふ。「あやしく、ひがひがしく、すずろに高き心ざしありと人も咎《とが》め、また我ながらも、さるまじきふるまひを仮にてもするかな、と思ひしことは、この君の生《む》まれたまひし時に、契り深く思ひ知りにしかど、目の前に見えぬあなたのことは、おぼつかなくこそ思ひわたりつれ、さらば、かかる頼みありて、あながちには望みしなりけり、横さまにいみじき目を見、漂《ただよ》ひしも、この人ひとりのためにこそありけれ。いかなる願《ぐわん》をか心に起こしけむ」とゆかしければ、心の中《うち》に拝《をが》みてとりたまひつ。

現代語訳

院(源氏)は、姫宮(女三の宮)の御部屋にいらしたが、中を隔てた御襖から突然おいでになられたので、御方(明石の君)は、急に文箱をひき隠すことはできなくて、御几帳をすこし引き寄せて、自分はやはり物陰にお隠れになった。(源氏)「若君はお目覚めですか。一時の間も恋しいことですよ」と申されると、御息所(明石の女御)はご返事もなさらないので、御方(明石の君)が、「対(紫の上方)にお移し申されました」と申しあげなさる。(源氏)「なんと妙なことを。あちら(紫の上方)にこの宮(若宮)を独り占め申しあげて、懐から少しも離さず若君をお世話しては、好きこのんで衣もみな濡らして、しょっちゅう脱ぎ換えていることでしょうよ。軽々しく、どうしてこうお移し申しあげなさったのです。こちらに来て、若君をお世話申しあげたいものです」とおっしゃると、(明石の君)「まあひどい。ご配慮の足りない御言葉ですこと。たとえ若君が女でいらっしゃっても、あちら(紫の上方)でお世話していただくことがよろしゅうございましょう。まして、男はこの上もない尊い身分の御方と申しましても、どこへでも気楽に出かけて良いものと存じ上げてございますのに。ご冗談にしても、こんな隔てがましいことを、お気をお回しになって、あちらの御耳にお入れになりますな」と申しあげなさる。院(源氏)はお笑いになって、(源氏)「お二人に若宮の御ことはおまかせして、私は関わらないほうがよいとおっしゃるのですね。私をのけ者にして、今は、誰も誰も私を放っておいて、おせっかいなどとおっしゃるのは幼いことですよ。まず貴女からして、こうして几帳の蔭に隠れて、つれなく私を貶めなさるようですね」といって、御几帳をひきのけなさると、御方(明石の君)は、母屋の柱に寄りかかって、とても美しげに、こちらが気が引けるほどのお姿をしていらっしゃる。

さっきの箱も、あわてて隠すのもみっともないので、そのまま置いていらっしゃるのを、(源氏)「何の箱ですか。深いゆえんがあるのでしょう。懸想人が長歌を詠んで封をしたような感じがしますな」とおっしゃると、(明石の君)「まあとんでもない。華やかにお若返りなさった御癖で、聞き知らぬような御冗談の数々も時々出てくるものですね」といって微笑まれたが、なんとなくしみじみ感じ入るご様子などがはっきり見えるので、院は「妙だな」と首を傾けていらっしゃる様子なので、御方(明石の君)は面倒なので、(明石の君)「あの明石の岩屋から、内々でいたしました御祈禱の題目と回数を記したのや、他に、願ほどきをしていない祈願などがございましたのを、殿(源氏)にもお知らせ申しあげる適当な折があれば、ご覧になっていただいたほうがよいのではないかと送ってまいりましたのを、ただ今はその機会がないので、どうしてお開けになることがございましょう」と申しあげなさると、院(源氏)は、なるほど、胸を痛めているのも当然なこと、とお思いになって、(源氏)「その後、どれほど以前にもまして修行してお過ごしでいらっしゃるだろう。長生きして、長年修行に励んでいる功徳の積み重ねは、大変に尊いものだろう。世間で教養があって立派な僧侶といわれている人とて、よく見ると、この世に執着している間の濁りが深いからだろうか、学問はすぐれていても、それもまったく常に限りあることで、入道には及ばないのですね。たいそう悟りが深く、それでいて風情のあるお人柄であったよ。聖めかして俗世を離れたような顔でもなかったが、心の内には、すっかり極楽浄土に通い住んでいる、と見えたが、今は当時にもまして、気がかりなこの世との縁もなく、俗世から思いが離れているだろうよ。気軽な身ならば、ぜひそっと逢いに行きたいものだ」とおっしゃる。

(明石の君)「今は、あの以前いた所をも棄てて、鳥の声さえ聞こえない山に入ったと、聞きました」と申しあげると、(源氏)「ならばその遺言ということですね。手紙はやりあっていらしたのですか。尼君はどう思っていらっしゃるでしょう。親子の仲よりも、また、そうした夫婦の契りは格別な思いが加わるでしょうからね」といって、涙ぐまれる。

(源氏)「年をとって、世の中のありさまが、あれこれわかっていくにつれて、妙に恋しく思い出される入道の御人柄ですので、まして深い夫婦の契りのご関係では、どれほど悲しいことだろうか」などおっしゃる。御方(明石の君)はこの機会に、この夢語も殿(源氏)はお思い当たりになることもあるだろうかと思って、(明石の君)「ひどく読みにくい、梵字とかいうような筆跡のようでございますが、ご覧になっていただくべき筋もあるのではないかと存じまして。今は最後と別れましたものの、やはり情は後に残るものでございましたよ」といって、見るからに美しくお泣きになる。院(源氏)は入道の手紙をお取りになって、(源氏)「たいそう才気があり、やはりまだ惚けてなどはいないようですね。筆跡なども、すべて何ごとも、とりわけ優秀で通るはずの人だったが、ただ世渡りの心がまえだけが少なかったのでした。あの先祖の大臣は、たいそう賢明で、世にもまれな忠誠を尽くして朝廷にお仕え申しあげていらしたのですが、その間に、何かのすれ違いがあって、その報いでこうして子孫が絶えてしまったのだなどと、世間の人が言っていたようでしたが、女の筋ではあっても、こうしてまったく子孫が絶えたというわけではないことも、長年の勤行の成果でしょう」などと、涙をお拭いになっては、この夢のくだりに目をお止めになられる。「妙に偏屈で、むやみに高望みしていると世間の人も入道のことを咎め、また私自身も、仮そめにも不相応なふるまいをするものだな、と思ったのだが、それもこの君(明石の女御)がお生まれになった時に、宿縁の深さを思い知ったのだが、だからといって目の前に見えない将来のことは、はっきりわからないとずっと思っていたのだが、ならば、こうしたあてがあって、入道は無理にも私を婿に選んだのであったか。私が不当にに酷い目にあい、地方をさすらったのも、この人(明石の女御)ひとりがお生まれになるためであったのだ。入道は、どんな願を心に立てたのだろうか」とそれが知りたいので、院(源氏)は心の中で拝んで、願文をお取りになった。

語句

■中の御障子 寝殿を二つに分けて、東側に明石の女御、西側に女三の宮が住んでいる。両者の間は障子(襖)で仕切ってある。 ■えしもひき隠さで 源氏が急に来訪したので文箱を隠す暇もない。 ■はた隠れたまへり 明石の君も涙に顔を濡らしていたので源氏に見られたくなかったのだろう。 ■答へも聞こえたまはねば 先程まで泣きはらしていたので、急に対応できない。 ■対 紫の上の居所。東の対。 ■人やりならず 人から強制されたわけでもなく、自分から好き好んで。 ■衣もみな濡らして 若宮の小水で着物が濡らされること。参考「ある時は、わりなきわざしかけたてまつりたまへるを、御紐ひききて、御几帳のうしろにてあぶらせたまふ。『あはれ、この宮の御しとにぬるるは、うれしきわざかな。このぬれたる、あぶるこそ、思ふやうなるここちすれ』と、よろこばせたまふ」(紫式部日記)。藤原道長が、生後間もない敦成親王(後一条天皇)の世話をしている場面。 ■軽々しく 源氏は明石の君を立てるためのリップサービスとして、紫の上を敢えて落としてみせた。だがそれは逆効果となる。 ■女子におはしまさむにだに 女子は気安く出かけるべきではないが、仮に若宮が女子だったとしても、紫の上なら安心して任せられるの意。明石の君の紫の上に対する深い信頼。 ■まして、男は 女子にもまして男子は自由に出かけてよいのだから、紫の上のところに行くのは何の問題もないはずだの意。 ■はひ隠れて 明石の君が几帳の陰に隠れていること。 ■ありつる箱 願文を納めた文箱。 ■懸想人の長歌詠みて封じこめたる 文箱が大きいので、さぞかし長い恋文を納めてあるのだろうと戯れる。 ■あなうたてや これまでの卑下する一方の明石の君ではなく、源氏と対等にやりあっている。女御の若宮出産によって自信がついたか。 ■いまめかしくなり返らせたまふめる 女三の宮との結婚のことについての皮肉。紫の上も同じ趣旨の皮肉を言った(【若菜上 19】)。 ■明石の岩屋 入道が修行している縁で明石の邸を「岩屋」といった。また謙遜もある。 ■御祈祷の巻数 どの経文をよんだか、何度よんだかの記録。 ■知らせたてまつるべきをり 「をり」は若宮が即位し女御が国母となる折を想定。 ■命長くて 以前、入道は「年は六十ばかり」(【明石 07】)とあったので、今は七十五歳ぐらい。 ■積み 功徳の蓄積。 ■賢き方こそあれ 学問はあっても悟りを得ていない。 ■あらぬ世 極楽浄土。「通ひ住む」は女のもとに通い住むことで、入道にとっては通う先が女ではなく極楽浄土だったと。源氏らしい発想。 ■絆 妻の尼君や、娘の明石の君。 ■かのはべりし邸 明石の浦の邸。 ■鳥の音聞こえぬ 「とぶ鳥の声も聞えぬ奥山の深き心を人は知らなむ」(古今・恋一 読人しらず)の上の句によるか。 ■山にとなん 下に「籠もりけり」などを補い読む。 ■その遺言ななりな 文箱の中身は。 ■さるさまの契り 夫婦の契り。 ■この夢語 入道の手紙にあった夢語(【若菜上 28】)。 ■梵字 入道のまずい筆跡をたとえる。 ■はべるとてなん 下に「見せたてまつる」などを補い読む。 ■今はとて、別れはべりにしかど 明石の浦で入道と別れたこと(【松風 04】)。明石の君は、父入道と別れた時に肉親の情を断ち切ったつもりでいたが入道入山の知らせに接して、ふたたび父に対する愛情が起こってきたのである。 ■有職 その道に精通した人。ここでは優秀であること。 ■かの先祖の大臣 入道の先祖の大臣(【若菜 03】)。 ■女子の方 明石の君→明石の女御→若君という女系。 ■この夢のわたりに 源氏は明石の君の夢語りと自分がかつて宿曜師から受けた占い「御子三人、帝、后必ず並びて生まれたまふべし」(【澪標 05】)を思い合わせる。帝=冷泉帝、后=明石の女御、太政大臣=夕霧。 ■すずろに高き心ざしありと人も咎め 【若菜 03】。 ■我ながら 源氏自身。 ■さるまじきふるまひ 明石の浦で、紫の上を裏切って明石の君と通じたこと(【明石 13】)。 ■この君 明石の女御 源氏は明石の女御が生まれたときに宿曜師の占いや住吉の神の導き、明石一族の運命について思いをはせた(【澪標 05】)。 ■目の前に見えぬあなたのこと 若宮が将来即位するかといったこと。 ■さらば 入道が強引に源氏と明石の君を引き合わせたのは夢の内容に従ってのことだったのだなと理解した。 ■横さまにいみじき目を見… 源氏が須磨・明石をさまよったこと。

朗読・解説:左大臣光永