【若菜下 02】六条院の競射 柏木、物思いに沈む

晦日《つごもり》の日は、人々あまた参りたまへり。なまものうくすずろはしけれど、そのあたりの花の色をも見てや慰む、と思ひて参りたまふ。殿上《てんじやう》の賭弓《のりゆみ》、二月《きさらぎ》とありしを過ぎて、三月、はた、御|忌月《きづき》なれば口惜《くちを》しく、と人々思ふに、この院にかかるまどゐあるべし、と聞き伝へて、例の集《つど》ひたまふ。左右の大将、さる御仲らひにて参りたまへば、次将《すけ》たちなどいどみかはして、小弓とのたまひしかど、歩弓《かちゆみ》のすぐれたる上手《じやうず》どもありければ、召し出でて射《い》させたまふ。

殿上人どもも、つきづきしきかぎりは、みな、前後《まへしりへ》の心、こまどりに方分《かたわ》きて、暮れゆくままに、今日《けふ》にとぢむる霞《かすみ》のけしきもあわたたしく、乱るる夕風に、花の蔭、いとど立つことやすからで、人々いたく酔《ゑ》ひ過ぎたまひて、「艶《えん》なる賭物《かけもの》ども、こなたかなた、人々の御心見えぬべきを、柳の葉を百《もも》たび当てつべき舎人《とねり》どものうけばりて射取る。無心《むじん》なりや。すこしここしき手つきどもをこそ、いどませめ」とて、大将《だいしやう》たちよりはじめておりたまふに、衛門督《ゑもんのかみ》、人よりけにながめをしつつものしたまへば、かの片《かた》はし心知れる御目には、見つけつつ、「なほいと気色異《けしきこと》なり。わづらはしき事出で来《く》べき世にやあらん」と、我さへ思ひ尽きぬる心地す。この君たち、御仲いとよし。さる仲らひといふ中にも、心かはしてねんごろなれば、はかなきことにても、もの思はしくうち紛るることあらんを、いとほしくおぼえたまふ。

みづからも、大殿《おとど》を見たてまつるに気《け》恐ろしくまばゆく、「かかる心はあるべきものか、なのめならむにてだに、けしからず人に点《てん》つかるべきふるまひはせじ、と思ふものを、ましておほけなきこと」と思ひわびては、「かのありし猫をだに得てしがな。思ふこと語らふべくはあらねど、かたはらさびしき慰めにもなつけむ」と思ふに、もの狂ほしく、いかでかは盗み出でむと、それさへぞ難《かた》きことなりける。

現代語訳

晦日には、多くの人々が六条院に参られた。衛門督(柏木)は何となく物憂く、むやみに落ち着かないが、あの御方(女三の宮)のいらっしゃるあたりの花の色を見て御心を慰めようと思って参られる。殿上の賭弓《のりゆみ》が二月に予定されていたのに開催されぬまま過ぎてしまい、三月もまた御忌月なので残念だと人々は思っていたが、この六条院でこうした催事があるそうだ、と聞き伝えて、いつものようにお集まりになる。左右の大将(左大将髭黒・右大将夕霧)が、大殿(源氏)のしかるべき縁者として参られるので、次将たちなども競い合って、この日の競射ははじめ小弓をやるとの仰せであったが、歩弓《かちゆみ》の見事な名人たちがあったので、召し出して競射をおさせになる。

殿上人たちで、競射に参加するにふさわしい人々は、みな、前に立つ左方と、後に立つ右方が、入れ違いに並んで方を分けて競い、日が暮れていくにしたがって、今日を最後の霞のたたずまいもあわただしく、乱れ吹く夕風に、花の蔭が、いっそう立ち去り難く思われるので、人々はひどく度を越してお酔いになられて、「すばらしい賭物の数々には、それを調達した六条院の御方々のご趣味がうかがえるようですのに、柳の葉を百度射抜いてしまうだろう舎人たちが、我が物顔で射取ってしまう。残念なこと。少しおっとりした手つきの者たちをこそ、競わせよう」といって、大将たちからはじめて人々が弓場にお降りになられるが、衛門督(柏木)だけは人と異なって、物思いにため息をつきつつ弓を手になさるので、あの、少しは事情を知っている御方(夕霧)の御目には、何度も目について、「やはりひどく普通でない様子だ。面倒事が起こるようなご関係になっているのではなかろうか」と、自分までもが思い詰める気持ちがする。この君たち(夕霧と柏木)は、御仲がとてもよい。親しい間柄という中でも、特に心を交わして親密なので、衛門督(柏木)が、ちょっとしたことでも、もの思いに沈んで、心奪われることがあるのなら、大将(夕霧)は、いたわしくお思いになられる。

衛門督(柏木)自身も、大殿(源氏)を拝見するにつけ、なんとなく恐ろしく、正視できないような思いで、「こんな気持を抱いてよいはずがない。私は何ということもない普通の場合でさえ、人からとやかく言われるような、よくない振る舞いはするまいと思っているのに、まして分不相応なことだ」と思い詰めては、「せめてあの時の猫を手に入れたいものだ。思うことを語らえるわけではないにしても、身の回りの寂しさを慰めるため、なつけよう」と思うにつけ、何となく狂った感じで、どうすれば盗み出せるだろうかと考えてみると、それさえも難しいことなのであった。

語句

■晦日の日 三月末日。源氏は「花のをり過ぐさず参れ」と言っていた。夕霧も「月の中に、小弓持たせて参りたまへ」と柏木に対して言っていた(【若菜上 39】)。 ■なまものうくすずろはし 柏木は六条院への再訪を待ち望んでいたが、いざその日になると何となく憂鬱になる。「すずろはし」は落ち着かないさま。 ■そのあたり 女三の宮の御すまいのあたり。 ■殿上の賭弓 正月十八日に弓場殿《ゆばどの》で行なわれる弓の競射に準じて、二月に殿上人によって行なわれる競射。 ■三月 冷泉帝の母、藤壺女院の忌日。 ■まどひ 「集会」の意に「的射」をかけた。 ■左右の大将 左大将の髭黒と右大将の夕霧。それぞれ源氏の養女の婿と長男。 ■次将 左右近衛府の中・少将。 ■小弓 遊戯用の小さな弓。 ■歩弓 徒歩で弓を射るもの。馬上から射る「馬弓」に対する。 ■前後 前後に並んで競射する。前に立つ左方を「前」。後に立つ右方を「後」という。 ■こまどりに 入れ違いに。交互に。 ■今日にとぢむる 今日は三月の晦日で、春の終わりの日。 ■花の蔭 「今日のみと春を思はぬときだにも立つことやすき花のかげかは」(古今・春下 躬恒)。参考「をしめども春のかぎりの今日の日の夕暮にさへなりにけるかな」(伊勢物語九十一段)。 ■人々の御心見えぬべき 六条院の御方々のご趣味がうかがい知れる。 ■柳の葉を百たび当てつべき 百歩離れた距離から柳の葉に百の矢を命中させた、楚の養由基の故事(史記・周本紀)による。 ■無心 武人たちが賭物を得るだけではつまらない。 ■ここしき手つき 「ここしき」はおっとしていること。武の道の専門家ではなく、専門外のがつがつしていない者に競わせようとした。 ■人よりけにながめをしつつ 六条院の蹴鞠の場面でも、柏木が物思いに沈み、夕霧がその心中を察している描写があった(【若菜上 38】)。 ■わづらはしき事出で来べき世にやあらむ 夕霧は、柏木と女三の宮の間に密通でも起こるのではないかと想像する。 ■うち紛ること この場合、柏木が女三の宮に心奪われていることをさす。 ■みづからも 夕霧の観察につづけて、柏木自身も、の意。 ■気恐ろしくまばゆく 柏木の源氏に対する罪悪感。 ■点つかるべきふるまひ 人からほめられたり、非難されたりするふるまい。 ■かのありし猫 女三の宮を垣間見るきっかけとなった猫(【若菜上 37】)。 ■語らふ 猫を人間のように感じている。女三の宮恋しさのあまり、柏木は我を忘れつつある。 ■かたはらさびしき慰めにも 前の「かくことなることなきあへしらひばかりを慰めにてはむいかが過ぐさむ」と響き合う。

朗読・解説:左大臣光永