【夕霧 11】夕霧、夕方に手紙を発見、狼狽して御息所に返事を書く

蜩《ひぐらし》の声におどろきて、山の蔭いかに霧《き》りふたがりぬらむ。あさましや。今日この御返り事をだに」といとほしうて、ただ知らず顔に硯《すずり》おしすりて、いかになしてしにかとりなさむ、とながめおはする。

御座《おまし》の奥のすこし上《あが》がりたる所を、試《こころ》みに引き上げたまへれば、これにさし挟《はさ》みたまへるなりけりと、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うち笑《ゑ》みて見たまふに、かう心苦しきことなむありける。胸つぶれて、一夜のことを、心ありて聞きたまうけると思すにいとほしう心苦し。「昨夜《よべ》だに、いかに思ひ明かしたまうけむ。今日も今まで文をだに」と言はむ方なくおぼゆ。いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはしたまへるさまにて、「おぼろけに思ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ。つれなくて今宵《こよひ》の明けつらむ」と、言ふべき方のなければ、女君ぞいとつらう心憂き。「すずろにかくあだへ隠して、いでや、わがならはしぞや」と、さまざまに身もつらくて、すべて泣きぬべき心地したまふ。

やがて出で立ちたまはむとするを、「心やすく対面《たいめ》もあらざらむものから、人もかくのたまふ、いかならむ。坎日《かんにち》にもありけるを、もしたまさかに思ひゆるしたまはば、あしからむ。なほよからむ事をこそ」、とうるはしき心に思して、まづこの御返りを聞こえたまふ。「いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、この御|咎《とが》めをなん。いかに聞こしめしたることにか。

秋の野の草のしげみは分けしかどかりねの枕むすびやはせし

明《あき》らめきこえさするもあやなけれど、昨夜《よべ》の罪はひたや籠《ごも》りにや」とあり。宮には、いと多く聞こえたまて、御廐《みまや》に足|疾《と》き御|馬《むま》に移鞍《うつし》置きて、一夜の大夫《たいふ》をぞ奉れたまふ。「昨夜《よべ》より六条院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」とて、言ふべきやうささめき教へたまふ。

現代語訳

男君(夕霧)は、蜩の声で目が覚めて、「山蔭(小野の里)はどれほど霧が立ち込めていようか。呆れた話ではないか。せめて今日、この返事だけでも」とおいたわしくて、ひたすら何気ない顔で硯をおしすって、お手紙をどう扱ったというふうに取り繕って返事を書こうかと、ぼんやり辺りをながめていらっしゃる。

昨夜の御座の奥のすこしふくらんだ所を、ためしにお引き上げになると、そこに例のお手紙があった。ここに挟んでいらっしゃったのだと、嬉しくもばかばかしくも思われるが、微笑んでお手紙をご覧になると、このように心苦しいことが書いてある。男君(夕霧)は愕然として、「御息所は、あの夜のことを、意味ありげにお耳に入れていらっしゃったのだ」とお思いになるにつけ、ひどくおいたわしく心苦しい。「昨夜だけを取ってみても、どれほど物思いの中に夜をお明かしになられただろう。今日も今まで返事一つ出さないで」と言いようもなくお思いになる。御息所のお手紙は、ひどく苦しげに、言いようもなく、書き紛らわしていらっしゃるようすなので、「並々ならず思いあまって、このようにお書きになられたのだろう。私のことを冷淡な男と思いながら昨夜はお明かしになったことだろう」と、言い訳のしようもないので、女君(雲居雁)が昨夜手紙を取り上げたことが、ひどく憎らしく残念に思われる。「何の気なしにあんなふうに悪ふざけをして隠したりして。いやいやそれも、自分の日頃のしつけが悪かったのだ」と、さまざまにわが身も恨めしくなって、すべて泣きそうな気持ちにおなりになる。

すぐにご出発なさろうとするのだが、「気安く対面もできないだろうが、御息所がこうおっしゃっていることだし、どうしたものだろう。今日は凶日でもあったので、もしたまたま気まぐれに私をお許しになったのであれば、縁起が悪かろう。やはりもっと万全な事を考えよう」と、生真面目なご気性であるからそうお思いになって、まずこのお返事をさしあげられる。(夕霧)「ひどくめずらしいお手紙を、あれこれうれしく拝見いたしますにつけ、このお咎めに恐縮しております。どのようにお耳にされたのでしょうか。

秋の野の……

(秋の野の草のしげみをかき分けて帰ってはいきましたが、だからといって仮寝の枕を結びはしていないのですよ)

真偽をはっきりさせるのもおぼつきませんが、昨夜の私の過失は、承服しかねます」とある。宮(落葉の宮)に対してはまことに言葉数多く申し上げて、御厩に足の速い御馬に移鞍を置いて、昨夜の大夫をお遣わしになる。(夕霧)「昨夜から六条院にお仕えしていて、たった今退出しましたと言え」と、言うべきことをささやいてお教えになる。

語句

■蜩の声におどろきて 昨夜も蜩が鳴いていた。それを思い出す。また「ひぐらしの鳴きつるなへに日はくれぬと思へば山のかげにぞありける」(古今・秋上 読人しらず)への連想から「山の蔭」というイメージが導かれる。 ■返り事をだに 下に「せむ」を補い読む。 ■ただ知らず顔に 表面は花散里に手紙を書くようにふるまう。 ■いかになしてしにか 硯に向かったものの昨夜の文を読んでいないので何と書いてよいやら見当がつかない。 ■御座 夕霧の御座か。雲居雁は手紙を奪ったものの、はしたない行為を恥じてそっと返しておいたものか。雲居雁の御座という説も。 ■ひき上げたまれば 下に「文あり」などを補い読む。 ■をこがましうも 気をもんだわりには手紙があっさり出てきたから。 ■胸つぶれて 手紙を見つけて安堵したが、その文面に御息所のお叱りをみて愕然とする。 ■一夜のことを 御息所の文に「ひと夜ばかりの宿をかりけむ」(【夕霧 08】)とあったことによる。 ■心ありて 夕霧と落葉の宮が契ったと御息所は誤解している。 ■昨夜だに 御息所の考えに沿っていうと夕霧は結婚の二夜をすっぽかしたことになる。 ■文をだに 下に「たてまつらで」を補い読む。 ■今宵 昨夜。 ■女君ぞ 夕霧はこんなことになったのは雲居雁のせいだと恨むが、彼女がそんな仕打ちをするのも自分の躾が悪いせいだと考えなおす。 ■あだへ 「あだふ」は、悪ふざけをする。 ■わがならはしぞや 前に雲居雁が「かねてよりならはしたまはで」(【夕霧 09】)と言ったのに対応。 ■坎日 陰陽道で凶日とされる日。 ■よからむ事をこそ 下に「せめ」などを補い読む。 ■うるはしき事 この緊急事態にぐずぐずしている夕霧に対する作者の皮肉。 ■この御咎め 御息所の歌「女郎花しをるる野辺を」(【夕霧 08】)をさす。 ■秋の野の… 「枕」「むすぶ」は「草」の縁語。「かりね」は「仮寝」と「刈り根」をかける。 ■ひたや籠り 意味不審。じっと家に籠もっていることから、咎めを黙って受け入れることをさすか。 ■移鞍 語意未詳。乗り換え用の馬の鞍と取っておく。 ■一夜の大夫 前に「御衛府の将監よりかうぶり得たる、睦ましき人」(【夕霧 03】)とあった。 ■昨夜より六条院にさぶらひて 昨夜参上しなかった言い訳を指導する。

朗読・解説:左大臣光永