【夕霧 12】御息所、心労のため病状悪化

かしこには、昨夜《よべ》もつれなく見えたまひし御気色を忍びあへで、後《のち》の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず今日の暮れはてぬるを、いかばかりの御心にかはと、もて離れて、あさましう心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。なかなか正身《さうじみ》の御心の中《うち》は、このふしをことにうしとも思し驚くべき事しなければ、ただおぼえぬ人にうちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじう思《おぼ》いたるを、あさましう恥づかしう、明《あき》らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへる気色見えたまふを、いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける、と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、「今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御|宿世《すくせ》とはいひながら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひたまふべきことを。とり返すべき事にはあらねど、今よりはなほさる心したまへ。数ならぬ身ながらも、よろづにはぐくみきこえつるを、今は、何ごとをも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、いましばしの命もとどめまほしうなむ。ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人|二人《ふたり》と見る例《ためし》は心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを。思ひの外《ほか》に、心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき御|宿世《すくせ》にこそは。院よりはじめたてまつりて思しなびき、この父|大臣《おとど》にもゆるいたまふべき御気色ありしに、おのれ一人しも心をたててもいかがはと思ひ弱りはべりし事なれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御|過《あやま》ちならぬに、大空《おほぞら》をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来《き》添ひぬべきが。さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経《へ》んにつけても、慰むこともやと思ひなしはべるを、こよなう情《なさけ》なき人の御心にもはべりけるかな」と、つぶつぶと泣きたまふ。

いとわりなく押しこめてのたまふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつつ、「あはれ何ごとかは人に劣りたまへる。いかなる御宿世にて、やすからずものを深く思すべき契《ちぎ》り深かりけむ」などのたまふままに、いみじう苦しうしたまふ。物の怪なども、かかる弱目《よわめ》にところ得るものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。律師《りし》も騒ぎたちたまうて、願《ぐわん》など立てののしりたまふ。深き誓ひにて、今は命を限りける山籠《やまごも》りを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇《だん》こぼちて帰り入らむことの面目《めいぼく》なく、仏もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申したまふ。宮の泣きまどひたまふこと、いとことわりなりかし。

現代語訳

あちら(小野の里)では、昨夜も冷淡にご訪問がないとお見えになったご様子を我慢がおできにならず、後々の人聞きもはばからず恨み言を申し上げたのを、そのご返事さえ見えず今日がすっかり暮れてしまったのを、どれほどのお気持ちなのだろうと、すっかり気持ちが離れて、呆れて心もくだけて、いったんはご気分がよくなっていたのが、またひどく悪くおなりである。かえって宮(落葉の宮)ご自身のお心の内には、このことを別段悲しいお思いになったり驚かれるべき事もなかったので、思いもよらぬ人に不用意な姿を見せたことだけがひどく残念ではあるが、そう思いつめていらっしゃるわけではなかったのに、こうして御息所が、ひどく物思いに沈んでいるらっしゃることを、たいそう恥ずかしいことにも思われるが、かといって事の真偽をはっきりお伝え申し上げるすべもないので、ふだんよりなんとなく気おくれしていらっしゃる様子がお見えになるのを、ひどく心苦しく、物思いが加わる一方でいらっしゃるの。御息所は、それを拝見するのも、胸がつまって悲しいので、(御息所)「今さら面倒なことを申し上げまいと思いますが、やはり、前世からの定めとはいいながら、貴女が思いの外に心幼いせいで、人から非難をお受けにならねばならないことをなさったものですよ。取返しのつくことでもありますまいが、今後はやはりそのようにお心がけなさい。人数にも入らない私ですが、万事貴女を大切にお育て申し上げてきたので、今は貴女も、何ごともおわきまえになって、世の中のあれこれのありようも、いちいちおわかりになるまでに、お躾け申し上げたと、貴女の御身については安心と存じておりましたのに、今なおひどく世間知らずで、強いお心構えがなかったのだと、心配いたしますにつけても、もうしばらく長らえていたいとも存じます。ふつうの身分の者でさえ、すこしまともな身分の女が、二人の夫にまみえるという例は、残念で軽率なことに思えますのに、まして貴女のような高貴なご身分では、それほどいい加減なことで、人がお近づき申し上げるべきでもございませんのに。思いの外に、故君(柏木)の愛情がすくなかったご様子を、何年も拝見して悩んでいましたが、それも、そうなるべき前世からのご宿縁だったのでしょう。院(朱雀院)からはじまって人々があのご結婚にご賛成なさって、この父大臣(致仕の大臣)もおゆるしになりそうなご様子があったので、私一人だけが反対しても何になるものかと思って諦めた事ですので、結婚中のことはもちろん死別後も外聞の悪いことになっていらっしゃるご様子を、それも貴女ご自身の御過ちというわけではないので、誰を責めることもできず大空を恨みに思ってお守りしてまいりましたのに、実にこうして、先方様(夕霧)にとっても貴女(落葉の宮)にとっても、万事外聞が悪いだろうことがまたも起こりそうであることが、気に病まれます。それでも、ご外聞などはどうでもいいこととして、せめて世間並のご夫婦としてのご関係となられるのであれば、自然と、年月を過ごしているうちに、心慰められることもあろう思うようにしてはおりましたのに。ひどく情けないあの方の御心でございますよ」と、さめざめとお泣きになる。

御息所が、ひどく理不尽に一方的におまくしたてになるのを、宮(落葉の宮)は、これに反論して申し開きをする言葉もなくて、ただお泣きになっていらっしゃるようすは、おっとりしていじらしく見える。御息所はそんな宮をじっと見つめつつ、(御息所)「おいたましいこと。何も人より劣ってはいらっしゃらないのに。どんなご宿縁で、こうも心穏やかでなく深く物思いに沈むべき前世からの契りが深かったのでしょうか」などとおっしゃるままに、ひどくお苦しみになる。物の怪なども、こうして弱っている時に、活躍の場を得るものなので、御息所はいきなり息が絶えて、ひどく冷たくなってしまわれた。律師もお騒ぎになって、願立などなさって大声でご祈祷なさる。律師は深い誓いを立てて、今世の命を断念してまでの山籠りを、こうまで並々ならずふりすてて山をおりてきて、それで何の成果もなく、壇をかたづけて山に帰っていくことになると、面目がなく、仏も恨めしく思えてこようという趣旨のことを、心を奮い立たせてお祈り申し上げられる。宮な困惑してお泣きになることは、実に当然なのである。

語句

■かしこ 小野の里。 ■昨夜 昨夜は御息所の考えでは結婚の第二夜であるのに、夕霧の訪問はなかった。文だけがとどいた。文の内容もそっけないものだった。 ■後の聞こえ 御息所のほうから夕霧に結婚を容認するようなことを言ってよこしたのが、後々世間から取りざたされるかもしれないが、そんなことに構っている余裕はない。 ■恨みきこえたまうし 「女郎花しをるる野辺の」の手紙のこと。 ■正身 落葉の宮本人。御息所とちがい夕霧に対する執着はない。ただ夕霧に姿をみられたことだけが気がかりである。 ■添ふべかりける 柏木との不幸な結婚生活と死別。そして今また夕霧との関係がうまくいかないこと。 ■さる心 世間から非難されないように慎重にふるまえの意。 ■人二人と見る例 男二人と結婚する例。参考「忠臣ハ二君に事《つか》ヘズ。貞女ハ二夫ヲ更《か》ヘズ」(説苑・立節篇、史記・田単列伝)(平家物語巻十「小宰相身投」)。 ■かかる御身 皇女という尊い身分。 ■さばかりおぼろけにて… 夕霧が落葉の宮に近づいたことを当てつける。 ■思ひの外に 御息所は落葉の宮と柏木の結婚に反対であった。その上柏木の愛情は宮から離れていった。御息所にとっては何重にも心痛の種であった。 ■院 朱雀院。以下、落葉の宮と柏木が結婚した経緯(【柏木 10】)。 ■思ひ弱りはべりし事なれば 「見たてまつり過ぐす」に続く。 ■末の世まで 落葉の宮が柏木と結婚生活を送っていたときはもちろん、死別後も。 ■わが御過ちならぬに 結婚は本人だけで決めることではないので落葉の宮の過失というわけではないの意。 ■大空をかこちて 誰を恨むわけにもいかないので天を恨んでいる状況。 ■聞きにくかりぬべきこと 落葉の宮が夕霧と関係したという噂。 ■出で来添ひぬべきが 下に「心憂き」などを補い読む。 ■よその御名 よそでの宮の評判。 ■世の常の御ありさまにだにあらば 御息所は世間体を無視して、落葉の宮と夕霧の結婚をゆるすほかないという考えになっている。しかし夕霧は、手紙をよこすばかりでいっこうに訪れない。その態度に御息所は絶望している。 ■いとわりなく押しこめてのたまふ 御息所はやるせない思いを一方的にまくしたてる。それに対して落葉の宮は反論のしようもない。 ■深き誓ひにて 前に「山籠りして里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じおろしたまふ」(【夕霧 01】)とあった。律師は二度と世間とは交わらない覚悟で山籠りしたのに御息所のたっての願いで下山したのである。 ■壇こぼちて… 修法がうまくいかなかった場合、法師たちは修法の壇を片付けて引き上げる。前も紫の上の息絶えた条(【若菜下 28】)で、「御修法どもの壇こぼち、…」とあった。 ■仏もつらく… 大日如来が願をかなえてくださらないことを律師は恨めしく思う(【夕霧 06】)。

朗読・解説:左大臣光永

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