【夕霧 18】夕霧、小野の里を訪ねるも宮に逢えず、むなしく帰る

なほかくおぼつかなく思しわびて、また渡りたまへり。御|忌《いみ》など過ぐしてのどやかに、と思ししづめけれど、さまでもえ忍びたまはず。「今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは」と思したちにければ、北の方の御思ひやりをあながちにもあらがひきこえたまはず。正身《さうじみ》は強う思し離るとも、かの一夜《ひとよ》ばかりの御恨み文をとらへどころにかこちて、えしもすすぎはてたまはじ、と頼もしかりけり。

九月十|余《よ》日、野山《のやま》のけしきは、深く見知らぬ人だにただにやはおぼゆる。山風にたへぬ木々の梢《こずゑ》も、峰の葛葉《くずは》も心あわたたしうあらそひ散る紛れに、尊《たふと》き読経《どきやう》の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯《こがらし》の吹き払ひたるに、鹿はただ籬《まがき》のもとにたたずみつつ、山田の引板《ひた》にも驚かず、色濃き稲どもの中にまじりてうちなくも愁《うれ》へ顔なり。滝の声は、いとどもの思ふ人を驚かし顔に耳かしがましうとどろき響く。草むらの虫のみぞよりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より龍胆《りんだう》のわれ独《ひと》りのみ心長うはひ出でて露けく見ゆるなど、みな例のころの事なれど、をりから所がらにや、いとたへがたきほどのもの悲しさなり。

例の妻戸のもとに立ち寄りたまて、やがてながめ出だして立ちたまへり。なつかしきほどの直衣《なほし》に、色|濃《こまや》かなる御|衣《ぞ》の擣目《うちめ》いとけうらに透きて、影《かげ》弱りたる夕日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげにわざとなく扇をさし隠したまへる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ。それだにえあらぬを」と見たてまつる。もの思ひの慰めにしつべく、笑《ゑ》ましき顔のにほひにて、少将の君をとり分きて召し寄す。簣子《すのこ》のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらんとうしろめたくて、えこまやかにも語らひたまはず。「なほ近くてを。な放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。霧もいと深しや」とて、わざとも見入れぬさまに山の方《かた》をながめて、「なほ、なほ」と切《せち》にのたまへば、鈍色《にびいろ》の几帳《きちやう》を簾《すだれ》のつまよりすこし押し出でて、裾《すそ》をひきそばめつつゐたり。大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼くより生《お》ほしたてたまうければ、衣《きぬ》の色いと濃くて、橡《つるばみ》の喪衣《もぎぬ》一襲《ひとかさね》、小袿《こうちき》着たり。「かく尽きせぬ御事はさるものにて、聞こえむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂《こころだましひ》もあくがれはてて、見る人ごとに咎《とが》められはべれば、今は、さらに、忍ぶべき方なし」と、いと多く恨みつづけたまふ。かのいまはの御文のさまものたまひ出でて、いみじう泣きたまふ。この人も、ましていみじう泣き入りつつ、「その夜の御返りさへ見えはべらずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほどの空のけしきに御心地まどひにけるを、さる弱目に例の御物の怪のひき入れたてまつるとなむ見たまへし。過ぎにし御ことにも、ほとほと御心まどひぬべかりしをりをり多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしをこしらへきこえんの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし。この御嘆きをば、御前には、ただ我かの御気色にて、あきれて暮らさせたまうし」など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞こゆ。「そよや。そもあまりにおぼめかしう、言ふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰《たれ》をかは寄るべに思ひきこえたまはん。御|山住《やまず》みも、いと深き峰に世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむこと難《かた》し。いとかく心憂き御気色聞こえ知らせたまへ。よろづの事さるべきにこそ。世にあり経《へ》じと思すとも、従はぬ世なり。まづはかかる御別れの御心にかなはば、あるべき事かは」など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなくて、うち嘆きつつゐたり。鹿のいといたくなくを、「我おとらめや」とて、

里遠み小野の篠原《しのはら》わけて来てわれもしかこそ声も惜しまね

とのたまへば、

藤ごろも露けき秋の山びとは鹿のなく音《ね》に音《ね》をぞそへつる

よからねど、をりからに、忍びやかなる声《こわ》づかひなどを、よろしう聞きなしたまへり。

御|消息《せうそこ》とかう聞こえたまへど、「今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひさますをりあらばなん、絶えぬ御とぶらひも、聞こえやるべき」とのみ、すくよかに言はせたまふ。いみじう言ふかひなき御心なりけりと、嘆きつつ帰りたまふ。

現代語訳

大将(夕霧)は、やはりこうして、宮(落葉の宮)のことが心配でやるせない気持ちから、ふたたび小野の里においでになる。御忌などが過ぎてからゆっくり訪問しようとお気持ちを抑えておられたが、そこまで我慢がおできにならない。「今はこの、いわれない濡れ衣に対しても、なにを遠慮することがあろうか。ただ世間並みの男のように、長く抱いてきた願いを叶えればよいのだ」とご決心されたので、北の方(雲居雁)のご心配をそう強くご弁解申し上げもなさらない。宮(落葉の宮)自身は頑なに拒んでいらっしゃるとしても、あの御息所の「一夜だけの」という御恨み言を根拠としてこじつけて、もはや浮名を晴らすことはできないだろうと、大将は心強く思われるのだった。

九月十日過ぎ、野山のけしきは、深く情緒を解さない人でさえ、平気ではいられないほどである。山風にたえない木々の梢も、峰の葛の葉もあわただしげに競い合うように散るその間に、尊い読経の声がかすかに、念仏などの声だけがして、人の気配はとても少なく、木枯が落葉を吹き払っているところに、鹿はただ垣根のところにたたずんでは、山田の引板の音にも驚かず、色濃き多くの稲の中にまじって鳴くのも、まるで愁いに沈んでいるようである。滝の音は、いよいよ物思いに沈む人の耳を驚かすかのようにやかましくとどろき響く。草むらの虫だけが拠り所もなさそうにか弱く鳴いて、枯れた草の下から竜胆が自分独りだけ命の長さをみせて這い出して露に濡れて見える風情など、みな例年のことではあるが、時により場所によるのであろうか、まことに耐えがたいほどの物悲しさである。

大将は、いつもの妻戸のそばにお立ち寄りになって、そのまま外をぼんやりと眺めて立っていらっしゃる。柔らかく肌になじんだ直衣に、濃い紅のお召し物の擣目がまことに美しく透けて見えて、光の弱い夕日が、無心に差し込んでくるので、さすがにまぶしそうに、それとなく扇で御顔を隠していらっしゃる手つきは、「女こそああありたいもの。女でもああまで美しいのは滅多にいないのに」と女房たちは拝見する。物思いの慰めにもしたくなるような、笑みを誘われるほどの、美しい御顔つきで、少将の君をわざわざ指名して召し寄せる。簀子の幅はいくらもないが、奥に人が付き添っているだろうと気が引けて、こまごまとお語らいになることもおできにならない。(夕霧)「どうぞもっと近くで。私をむげに扱われますな。こうして山深く分け入ってきた私の心ざしを考えれば、御簾を隔てて他人行儀な応対をすべきでしょうか。霜もひどく深いことですし」といって、ことさら中をご覧になるようすでもなく山の方をながめて、(夕霧)「どうぞこちらへ」と熱心におっしゃるので、小少将は、鈍色の几帳を簾の端からすこし押し出して、裾を片寄ながら座っている。小少将は大和守の妹なので、宮(落葉の宮)とは深いご縁であるが、御息所が、この小少将が幼少のころからお育てになったのであるから、(小少将にとって御息所は親同然なので)、衣の色はとても濃くて、 橡の喪服を一襲と、小袿を着ている。(夕霧)「いくら悲しんでも尽きることない、このご不幸はそれはそれとして、宮の、私に対する、申し上げようもないお気持ちの冷たさを思い合わせますに、心も魂もすっかりさまよい出て、見る人ごとにどうしたかと怪しまれるぐらいですから、今は、まったく、我慢のしようもございません」と、まことに言葉数多く恨み言を次々とおっしゃる。例の、御息所からの最期の御手紙の内容も話にお出しになって、たいそうお泣きになる。この人(小少将)も、大将以上にひどく泣き入っては、(小少将)「御息所は、その夜のご返事さえ見ずじまいとなったことを、今が最期の御心に、そのまま思いつめられて、暗くなった時分の空模様にすっかり気落ちされたのを、そうやって人が弱っているところにつけこんで、いつもの御物の怪が、御息所を取り込め申し上げたのだと拝見しました。過去のご不幸(柏木の逝去)についても、御息所は、ほとんど御気持ちがまいってしまわれただろう折々も多くございましたが、宮(落葉の宮)が同じようなご様態に鳴られましたのを、慰め申し上げようとして御気丈にふるまわれて、だんだんと正気をお取り戻しになられたのです。今、御息所が亡くなった御嘆きを、御前(落葉の宮)は、ただ茫然自失の体でお過ごしになっていらっしゃいます」など、涙を止めることができずに嘆きながら、はきはきとも申し上げられない。(夕霧)「そのことです。宮のそういうご態度も、あまりに愚かしく、お話にならない御心ですよ。これからは、畏れ多いことですかが、どなたをお頼り申されるおつもりですか。御山住みの院(朱雀院)も、まことに深き峰に世の中との縁を切っていらっしゃる雲の中のお暮らしなのでしょうから、お互いにご連絡を取り合われることも難しいでしょう。実にこうした宮の心細いご様子を、貴女(小少将)から宮(落葉の宮)にお知らせ申されてください。万事はなるようにしかなりません。もうこの世に生きていたくないとお思いになっても、思い通りにはいかないのが世の中です。第一、今度の御息所との御別れにしても、世の中が思い通りになるなら、起こらないことでしょうから」など、あれこれと多くおっしゃるが、小少将は申し上げるべきこともなくて、嘆きながら座っていた。鹿がまことに悲しく鳴くのを、(夕霧)「妻恋しい気持ちなら、私も鹿に劣らない」といって、

(夕霧)里とほみ……

(里が遠いので小野の篠原をわけて来て、私もこの通り、妻恋しさに声も惜しまず泣いているのだ)

とおっしゃるので、

(小少将)藤ごろも……

(藤衣(喪服)を着て涙に暮れている私ども山びとは、鹿のなく声に悲しみの声を添えているのでございます)

小少将の歌はそうよくはないが、折にかなって、悲しみを抑えた声づかいなどを、大将は、まあよいと聞くようになさる。

小少将は、大将(夕霧)からのご連絡をあれこれ宮(落葉の宮)に申し上げるが、(落葉の宮)「今後は、こんなにも浅はかな夢のような世の中を、すこしでも思いさます折があれば、絶えることないお見舞いにも、返事をするかもしれません」とだけ、素っ気なく小少将にお言わせになる。実にお話にならない御心であることよと、大将は嘆きながらお帰りになる。

語句

■御忌 御息所の忌中。 ■御なき名 夕霧と落葉の宮の関係を疑う噂。夕霧はそれを利用して落葉の宮を手に入れようとするのである。 ■ただ世づきて 今まで夕霧の求婚行動には遠慮がみられたが、ここに至り、たとえ汚い手を使ってでも、断固としてやる、という姿勢を打ち出す。 ■つひの思ひ 落葉の宮を手に入れようという思い。 ■北の方の御思ひやりを… 雲居雁の疑念に対して、もう弁解することをやめた。 ■正身 落葉の宮自身。 ■かの一夜ばかりの御恨み文 御息所が夕霧に送った「女郎花しをるる野辺の」の歌をふくむ文(【夕霧 08】)。 ■とらへどころにかこちて 御息所の文は夕霧と落葉の宮が関係を持ったかのように書いてあり、結婚を容認する内容だったので、これを根拠として落葉の宮を口説き落とそうというのである。 ■すすぎはてたまはじ 落葉の宮と自分(夕霧)との関係が潔白だとは主張できないだろうの意。 ■峰の葛葉も心あわたたしう 「風はやみ峰の葛葉のともすればあやかりやすき人の心か」(拾遺・雑恋 読人しらず)。 ■引板 鳴子。カラカラと鳴って田から鹿などを遠ざけるもの。 ■うちなく 鹿は妻を恋いて鳴くという。落葉の宮を慕う夕霧の心を反映している。 ■滝 音羽の滝。左京区、比叡山西中腹を流れる音羽川に所在したとされる。現在は石積堰堤がある。参考「比叡の山なる音羽の滝を見てよめる/落ちたぎつ滝の水上年つもり老いにけらしな黒き筋なし」 (古今・壬生忠岑)。 ■草むらの虫 身寄りのない落葉の宮を虫の姿に象徴させる。 ■妻戸 寝殿の西南の妻戸(【夕霧 06】)。 ■なつかしきほどの直衣 糊気がとけて肌になじんできた直衣。 ■色濃かなる 紅色の濃い下襲。 ■擣目 砧で打って艶を出した下着(単衣)。 ■けうらに 「けうら」は「きよら」の転。美しいこと。 ■さすがに 「まばゆげに」にかかる。 ■扇をさし隠したまへる 人目を避けている。 ■笑ましき顔のにほひ 見ているほうが笑みを誘われるほどの顔の美しさ。 ■霧もいと深しや だから几帳を隔てる必要はないという。 ■鈍色の几帳 喪中なので几帳が鈍色。 ■裾をひきそばめつつ 夕霧にはっきり姿を見られないための所作。 ■大和守の妹なれば 大和守は御息所の甥だから、小少将は御息所の姪にあたる。 ■衣の色いと濃くて 亡くなった人と縁が深いほど喪服の色を濃くする。小少将にとって御息所は親同然なので喪服の色は最大に濃い。 ■橡 どんぐりのかさを煎じた汁で染めた色。濃いねずみ色。 ■尽きせぬ御事 いくら悲しんでも悲しみ尽くせない御息所の死のこと。 ■御心のつらさ 落葉の宮が夕霧に対して冷淡であること。 ■忍ぶべき方なし 「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」(拾遺・恋一 平兼盛/小倉百人一首四十番)。 ■その夜の御返りさへ見えはべらず 貴方(夕霧)の訪問がなかったばかりか手紙すらなかったの意。 ■暗うなりにしほどの空のけしきに 夕霧からの手紙がついに届かなかったことに御息所は絶望した。 ■例の御物の怪 「物の怪なども、かかる弱目にところ得るものなりければ、…」(【夕霧 12】)。 ■過ぎにし御こと 柏木逝去のこと。その時、御息所は宮を慰めようと心を砕いた。 ■この御嘆き 落葉の宮が、御息所を亡くしたことの嘆き。 ■我かの御気色 自分が自分であることもわからないようなご様子。 ■そよや ひとまず相槌を打って、以下、自分本意な意見を述べる。 ■今は… 御息所に先立たれた今となっては宮は私を頼るほかないという考え。母御息所を亡くした直後の宮に対してあまりに無神経。 ■いとかく心憂き御気色… 小少将から落葉の宮に意見してほしいとたのむ。 ■かかる御別れの御心にかなはば 亡き御息所の死を引き合いに説得しようとするところが極めて無神経。まったく相手の気持ちを考えていない。 ■我おとらめや 「秋なれば山とよむまで鳴く鹿に我おとらめやひとり寝る夜は」(古今・恋二 読人しらず、古今六帖五)。

朗読・解説:左大臣光永