【夕霧 35】蔵人少将、致仕の大臣の使いとして一条宮を訪ねる

大殿《おとど》、かかることを聞きたまひて、人笑はれなるやうに思し嘆く。「しばしはさても見たまはで。おのづから思ふところものせらるらんものを。女のかくひききりなるも、かへりては軽《かる》くおぼゆるわざなり。よし、かく言ひそめつとならば、何かはおれてふとしも帰りたまふ。おのづから人の気色心ばへは見えなん」とのたまはせて、この宮に、蔵人《くらうどの》少将の君を御使にて奉りたまふ。

「契りあれや君を心にとどめおきてあはれと思ふうらめしと聞く

なほえ思し放たじ」とある御文を、少将|持《も》ておはして、ただ入りに入りたまふ。

南面《みなみおもて》の簀子《すのこ》に円座《わらふだ》さし出でて、人々もの聞こえにくし。宮はましてわびしと思す。この君は、中にいと容貌《かたち》よくめやすきさまにて、のどやかに見まはして、いにしへを思ひ出でたる気色なり。「参り馴《な》れにたる心地して、うひうひしからぬに、さも御覧じゆるさずやあらむ」などばかりぞかすめたまふ。御返りいと聞こえにくくて、「我はさらにえ書くまじ」とのたまへば、「御心ざしも隔て若々しきやうに。宣旨書《せじがき》、はた、聞こえさすべきにやは」と集まりて聞こえさすれば、まづうち泣きて、故上《こうへ》おはせましかば、いかに心づきなしと思しながらも罪を隠いたまはましと思ひ出でたまふに、涙のみつらきに先だつ心地して、書きやりたまはず。

何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつをうしとも思ひかなしとも聞く

とのみ、思しけるままに、書きもとぢめたまはぬやうにて、おし包みて出だしたまうつ。少将は、人々物語して、「時々さぶらふに、かかる御簾《みす》の前は、たづきなき心地しはべるを、今よりはよすがある心地して、常に参るべし。内外などもゆるされぬべき。年ごろのしるしあらはれはべる心地なむしはべる」など、気色ばみおきて出でたまひぬ。

現代語訳

大殿(致仕の大臣)は、こうした事をお耳にされて、世間の物笑いの種になったようで、お嘆きになる。(致仕の大臣)「しばらくそのままで様子を見もしないで。大将も時間が経てば自然と考え直すこともあろうに。女がこう短気なのも、かえって軽薄だと思われることです。まあよい。こう言い出したことならば、どうして愚かしくすぐにお帰りになることがございましょう。自然と、大将(夕霧)の態度や気持ちは見えてくるでしょう」と仰せになって、この宮(落葉の宮)に、蔵人少将の君(柏木の弟)をお使としてお遣わしになる。

(致仕の大臣)「契りあれや…

(因縁深いことですね。貴女を心にかけておりましたが、貴女を親しみ深く思うと同時に、恨めしい者として聞くことになろうとは)

そうはいっても貴女も北の方(雲居雁)のお立場をお考えにならないわけにはいかないでしょう」とあるお手紙を、少将が持っていらして、ずかずかと門内にお入りになる。

女房たちは、南面の簀子に円座をおすすめするが、何も申し上げようがない。宮(落葉の宮)は女房たち以上にお困りでいらっしゃる。この君(蔵人少将)は、ご兄弟の中にたいそう容貌すぐれ、見映えのする様子で、ゆったりと辺りを見回して、昔を思い出している様子である。(少将)「参り馴れている気がしますので、他人行儀にふるまうことはいたしませんが、それもお許しいただけないのでしょうか」などということぐらいを、あてこすりなさる。ご返事はひどく申し上げにくくて、(落葉の宮)「私はとても書く気になれません」とおっしゃるので、(女房たち)「それではお気持ちも通じませんし、大人げないようです。代筆でご返事申し上げるべきでしょうか」と女房たちが集まって宮を説得申し上げるので、宮はまず泣いて、「亡き母君がご健在なら、いかに気に入らないとはお思いになりながらも、私の下手な字を隠すように代筆してくださるだろうに」とお思い出されるにつけ、涙が筆先からこぼれ落ちる気がして、最後まで書くことがおできにならない。

(落葉の宮)何ゆゑか……

(何のゆえに、物の数にも入らない私の身ひとつを、情けない思ったり悲しいと聞くのでしょうか)

とだけ、お思いになったままに書いて、途中で書くのをおやめになったような形で、紙に包んでお出しになった。少将(蔵人少将)は、女房たちが話し相手をして、(少将)「以前からこちらへは時々参っておりましたが、こんな御簾の前では頼りない気がいたしますが、ご縁ができた気がしますので、今後は常に参りましょう。御簾の中へ出入りなども許してくださいましょうね。長年お仕えしてきた成果があらわれた気がいたします」など、嫌味を言い残してお帰りになった。

語句

■見たまはで 下に「軽率にも実家に戻ってきたことだ」といった意味を補い読む。 ■おのづから思ふところものせらるらんものを 貴女(雲居雁)が自重していれば夕霧も態度を和らげたろうに。 ■ひききり 短気。 ■よし 致仕の大臣も「ひききり」な人物で、雲居雁をいちおう咎めた後は反撃に転ずる。 ■言ひそめつ 別れようと切り出したこと。 ■おれて 「(愚・痴)る」は愚かしくなること。 ■人の気色心ばへは見えなん 夕霧がどういう態度に出るか見守ろうという姿勢。 ■この宮 致仕の大臣は、落葉の宮が喜んで夕霧を受け入れたと勘違いしている。 ■蔵人少将 致仕の大臣の子。柏木の弟。 ■契りあれや 「あはれと思ふ」のは長男柏木の嫁であるから。「うらめしと聞く」は娘・雲居雁の夫を奪ったから。愛憎入り乱れる感情があるということ。 ■え思し放たじ 貴女も雲居雁の立場を考慮せずにはいられないでしょうの意。 ■ただ入りに入りたまふ 無遠慮にずかずかと入っていくさま。普通は門前で車をおりて取次をたのむ。 ■いにしへにを思い出でたる 「いにしへ」は柏木生存中。 ■参り馴れにたる 兄柏木の縁で蔵人少将は何度も一条宮を訪れていたのであろう。 ■宣旨書 天皇の公式文書「宣旨」を役人が代筆することから、代筆の意。 ■いかに心づきなしと 夕霧と結婚したことを。 ■罪を隠いたまはまし 御息所が生きていれば落葉の宮に下手な字で書けとはすすめず代筆してくれたろうの意。 ■涙のみつらきに 「涙の水茎に」の誤写と思われる。「水茎」は筆跡または筆の歌語。 ■何ゆゑか… 致仕の大臣の歌の「あはれと思ふうらめしと聞く」に対応。たづきなき 「たづきなし」は頼りない。よるべがない。 ■内外などもゆるされぬべき 御簾の内に出入りすることも好色な貴女は許してくれるでしょう。露骨すぎる皮肉。 ■年ごろのしるし 蔵人少将は兄柏木の生前、一条宮にたびたび出入りしていたらしい。 ■大殿の君 雲居雁。今は父大臣邸にいるので「大殿の君」という。 ■典侍 源氏の乳母子で従者であった惟光の娘。藤典侍。夕霧の愛人(【少女 24】【藤裏葉 08】【若菜下 11】)。 ■我を世とともにゆるさぬものに 雲居雁が藤典侍を、夫の愛人として許せない女とみなしていること。「世」は男女の仲。 ■かく侮りにくきこと 雲居雁は競争相手が身分の低い藤典侍だから問題にもしなかったが、皇女である落葉の宮は脅威である。藤典侍が雲居雁に同情する裏には今まで見下されてきた恨みもある。 ■数ならば… 自分は物の数ではないと卑下した上で現在の雲居雁の状況に同情している歌。 ■

朗読・解説:左大臣光永