【幻 09】祭の日、中将の君に懸想

祭の日、いとつれづれにて、「今日は物見るとて、人々心地よげならむかし」とて、御社《みやしろ》のありさまなど思しやる。「女房などいかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」などのたまふ。

中将の君の東面《ひむがしおもて》にうたた寝したるを、歩《あゆ》みおはして見たまへば、いとささやかにをかしきさまして起き上《あが》りたり。頬《つら》つきはなやかに、にほひたる顔をもて隠して、すこしふくだみたる髪のかかりなど、いとをかしげなり。紅《くれなゐ》の黄ばみたる気《け》添ひたる袴《はかま》、萱草色《くわんざういろ》の単衣《ひとへ》、いと濃き鈍色《にびいろ》に黒きなど、うるはしからず重《かさ》なりて、裳《も》、唐衣《からぎぬ》も脱ぎすべしたりけるを、とかくひき懸《か》けなどするに、葵《あふひ》をかたはらに置きたりけるをとりたまひて、「いかにとかや、この名こそ忘れにけれ」とのたまへば、

さもこそはよるべの水に水草《みくさ》ゐめ今日のかざしよ名さへ忘るる

と恥ぢらひて聞こゆ。げに、といとほしくて、

おほかたは思ひすててし世なれどもあふひはなほやつみをかすべき

など、一人《ひとり》ばかりは思し放たぬ気色なり。

現代語訳

賀茂祭の日、院(源氏)はひどく所在がないので、(源氏)「今日は祭見物するということで、人々も楽しげにしているだろう」とおっしゃって、賀茂の御社の様子などをご想像なさる。(源氏)「女房なども祭見物に行けなくてはどれほど物足りなく思うだろう。里にこっそり下がってから、祭見物に行けばよい」などとおっしゃる。

中将の君が東面の部屋でうたた寝しているのを、院(源氏)は、出ていって御覧になると、実に小柄で可愛らしい様子をしていたが、気づいて起き上がった。顔立ちは華やかで、美しく色づいた顔を手で隠して、すこしぼさぼさになっている髪が肩にかかっているのなど、実に美しげである。紅の黄色がかった感じが加わった袴、萱草色の単衣、とても濃い鈍色の袿《うちき》に黒い表着《うわぎ》など、少しくずれた感じに重なって、裳、唐衣も滑り脱いであったのを、さりげなく引き懸けなどする時に、院(源氏)は、葵を傍らに置いていたのをお取りになって、(源氏)「何といっただろう、この名を忘れてしまった」とおっしゃると、

(中将の君)さもこそは……

(それは実に、神前の水に水草が浮いて神が宿らなくなったのでしょう。今日のかざしの名「逢ふ日」までも忘れてしまうとはひどいです)

と恥じらって申し上げる。なるほど、とかわいそうになって、

(源氏)おほかたは……

(大方は未練を捨てた俗世間ではあるが、「逢ふ日」だけはやはり、花を摘んで罪を犯すべきだろう)

など、この中将の君一人だけはお気持ちを捨てがたいご様子である。

語句

■祭 賀茂祭。葵祭。上下の賀茂神社の祭。旧暦の四月に行われる。 ■御社 祭の中心となる上下の賀茂神社のにぎわいを源氏は想像する。 ■里に忍びて 六条院から華やかに出かけられては外聞が悪く、源氏の今の気持ちにもそぐわない。だからいったん里下がりしてから祭見物に出かけよというのである。 ■中将の君 かつての源氏の愛人(【葵 26】)。源氏の須磨下向の折、紫の上つきの女房となる(【須磨05】)。女三の宮の降嫁のときは紫の上に同情した(【若菜上 14】)。 ■ふくだみたる 「ふくだむ」はけばだってボサボサになる。 ■紅の黄ばみたる 柑子色。 ■萱草色 柑子色のやや黒ずんだ色。 ■裳、唐衣 正装として着るもので御前を下がると脱ぐのがふつう。 ■この名 葵祭の時挿頭とする葵は「あふひ(逢ふ日)」と書いて、男女が逢うことを意味する。 ■さもこそは… 「寄る瓶の水」は神前に置いて神を宿らせるための水。そこに水草がはえているということは、神が宿っていない状態。少将の君のもとに源氏の訪れがないことを暗示。 ■おほかたは… 「つみ」は「罪」と「摘み」をかける。

朗読・解説:左大臣光永