【匂宮 06】薫の気位の高さと、身から香気を放つこと

昔、光る君と聞こえしは、さるまたなき御おぼえながら、そねみたまふ人うちそひ、母方の御後見なくなどありしに、御心ざまももの深く、世の中を思しなだらめしほどに、並びなき御光をまばゆからずもてしづめたまひ、つひにさるいみじき世の乱れも出《い》で来《き》ぬべかりしことをも事なく過ぐしたまひて、後《のち》の世の御勤めもおくらかしたまはず、よろづさりげなくて、久しくのどけき御心おきてにこそありしか。この君は、まだしきに世のおぼえいと過ぎて、思ひあがりたることこよなくなどぞものしたまふ。げに、さるべくて、いとこの世の人とはつくり出でざりける、仮に宿れるかとも見ゆることそひたまへり。顔|容貌《かたち》も、そこはかと、いづこなむすぐれたる、あなきよらと見ゆるところもなきが、ただいとなまめかしう恥づかしげに、心の奥多かりげなるけはひの人に似ぬなりけり。

香《か》のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、うちふるまひたまへるあたり、遠く隔たるほどの追風《おひかぜ》も、まことに百歩《ひやくぶ》の外《ほか》もかをりぬべき心地しける。誰《たれ》も、さばかりになりぬる御ありさまの、いとやつればみただありなるやはあるべき、さまざまに、我《われ》、人にまさらんとつくろひ用意すべかめるを、かくかたはなるまで、うち忍び立ち寄らむ物の隈《くま》もしるきほのめきの隠れあるまじきにうるさがりて、をさをさ取りもつけたまはねど、あまたの御|唐櫃《からびつ》に埋《うづ》もれたる香《かう》の香《か》どもも、この君のはいふよしもなき匂ひを加へ、御前《おまへ》の花の木も、はかなく袖かけたまふ梅《むめ》の香は、春雨《はるさめ》の雫《しづく》にも濡れ、身にしむる人多く、秋の野に主《ぬし》なき藤袴《ふじばかま》も、もとのかをりは隠れて、なつかしき追風ことにをりなしがらなむまさりける。

現代語訳

昔、光る君と申し上げた御方は、そうした並びなき世間からのご信望を得てはいらっしゃったが、お妬みになる人がそばにいて、母方の御後見もないというありさまであったが、御心柄もご思慮が深く、世の中と対立しないよう穏やかにお振る舞いになっていらっしゃるうちに、並びなき御光を、目立たないようにお隠しになって、しかるべき恐ろしい世の乱れが起こりかねない事態をも、結局は何事もなくやり過ごされて、後の世のための御勤めも、遅れをとることをなさらず、万事さりげなく、長くゆったりした御心の定めようでいらしたことだ。

一方この若君(薫)は、早くから世間の信望がまことに過剰で、気位が高くていらっしゃることは並々でなくていらっしゃった。実際、それもしかるべき前世の因縁で、まことにこの世の人としては作り出されたのではなかったので、神仏が仮に人間の姿に宿ったかとも思われる不思議な点もあられた。

ご器量も、はっきりと、ここが優れている、ああ美しいと思えるところもないが、ただたいそう優美で人が気後れするほど立派で、心の奥に多くを秘めていそうな感じは他の人と違っているのだった。

香りの芳ばしさこそ、この世の匂いではなく、不思議なまでに、この若君が何か行動されている所では、遠く距離が隔たっている追風も、まことに百歩の外にも薫るだろう心地がするのだった。誰でも、そこまでご出世なさったら、
そこからひどくやつれて、ただ人のようななりふりをしてよいものかと、さまざまに、我こそ人にまさろうと取り繕い身だしなみに気を遣うようだが、こうして忍んで立ち寄る場所でも、体裁が悪いほどまでにはっきりわかる薫りが、隠れようもないことを面倒がって、めったに香を焚き染めることもなさらないが、多くの御唐櫃におさめたままの、さまざまな香の匂いも、この君のはいいようもない匂いが加わり、御庭前の花の木も、ちょっとでも袖をおかけになる梅の香は、春雨の雫にも濡れ、身にしませたがる人が多く、秋の野に誰がその主ともわからず脱ぎかけられた藤袴も、もとの香は隠れて、心惹かれる追風が、ことに若君が枝を折ったことによって、その香がいっそうまさるのだった。

語句

■光る君と聞こえし 源氏(【桐壺 13】【須磨 20】ほか)。 ■母方の御後見なく →【桐壺 01】。 ■いみじき世の乱れ 源氏が謀反の罪に問われたこと(【須磨 01】)。 ■後の世の御勤めもおくらしたまはず 後世往生のための出家も時期をのがさず実現したこと。 ■この君は 源氏と比較して、この薫君は。 ■思ひあがりたること 母君の往生を助けたいと思ったり、元服を嫌がったりすることをいう。世俗的な出世欲などではない。 ■げに 「我、この御心地を、同じうは後の世をだに」を受ける。 ■仮に宿れる 神仏が仮に人間の姿をしてこの世に現れることをいう。 ■そこはかと はっきりと。 ■香のかうばしさ 薫の身体から発する香。 ■百歩の外も 薫物の名「百歩香」にちなむ表現。 ■うち忍び立ち寄らむ物の隈 女のもとに忍んで通うことをいう。 ■しるきほのめきの… 薫の身からよい匂いがするので、忍び通いができない。 ■唐櫃 香を入れた唐櫃。 ■袖かけたまふ 「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれしやどの梅ぞも」(古今・春上 読人しらず)。 ■春雨の雫にも濡れ 「匂ふ香の君思ほゆる花なれば折れる雫にけさぞ濡れぬる」(古今六帖一 伊勢)。 ■秋の野に主なき藤袴 「主しらぬ香こそにほへれ秋の野に誰がぬぎかけし藤袴ぞも」(古今・秋上 素性)。 ■をりなしながら 薫が手折ったために。

朗読・解説:左大臣光永