【匂宮 07】匂宮、薫と競う 冷泉院の女一の宮を慕う

かく、あやしきまで人のとがむる香にしみたまへるを、兵部卿宮なん他事《ことごと》よりもいどましく思して、それは、わざとよろづのすぐれたるうつしをしめたまひ、朝夕のことわざに合はせいとなみ、御前《おまへ》の前栽《せんざい》にも、春は梅の花園をながめたまひ、秋は世の人のめつる女郎花《をみなへし》、小牡鹿《さをしか》の妻にすめる萩《はぎ》の露にもをさをさ御心移したまはず、老を忘るる菊に、おとろへゆく藤袴、ものげなきわれもかうなどは、いとすさまじき霜枯《しもが》れのころほひまで思し棄てずなどわざとめきて、香にめづる思ひをなん立てて好ましうおはしける。かかるほどに、すこしなよびやはらぎて、すいたる方にひかれたまへり、と世の人は思ひきこえたり。昔の源氏は、すべて、かく立ててその事とやう変りしみたまへる方ぞなかりしかし。

源《げん》中将、この宮には常に参りつつ、御遊びなどにもきしろふ物の音《ね》を吹きたて、げにいどましくも、若きどち思ひかはしたまうつべき人ざまになん。例の、世人は、匂《にほ》ふ兵部卿、薫《かを》る中将と聞きにくく言ひつづけて、そのころよきむすめおはするやうごとなき所どころは、心ときめきに聞こえごちなどしたまふもあれば、宮は、さまざまに、をかしうもありぬべきわたりをばのたまひ寄りて、人の御けはひありさまをも気色とりたまふ。わざと御心につけて思す方はことになかりけり。冷泉院の一の宮をぞ、「さやうにても見たてまつらばや。かひありなんかし」と思したるは、母女御もいと重く、心にくくものしたまふあたりにて、姫宮の御けはひ、げにとあり難くすぐれて、よその聞こえもおはしますに、まして、すこし近くもさぶらひ馴れたる女房などの、くはしき御ありさまの事にふれて聞こえ伝ふるなどもあるに、いとど忍びがたく思すべかめり。

現代語訳

このように、若君(薫)が、不思議なまでに人のあやしむ香が染みついていらっしゃるのを、兵部卿宮(匂宮)は、他のことよりも張り合うお気持ちにおなりになって、このこととなると、とくにあらゆる素晴らしい合わせ薫物をおきしめになり、それを朝夕の仕事のように調合なさって、御庭前の前栽にも、春は梅の花園をお眺めになり、秋は世の人の賞美する女郎花、牡鹿が妻のように愛好すると見える萩の露にも少しも御心をお移しにならず、老いを忘れる菊に、衰えゆく藤袴、何ということもない吾木香などは、ひどく殺風景な霜枯れの季節までお気にかけたりされて、ことさらめいて香によって物を愛でるお気持ちを起こして風流にしていらっしゃるのだった。こういうわけだから、性格も少しなよなよと和らいで、風流を好むほうに傾いていらっしゃると、世間の人は思い申し上げている。昔の源氏は、すべて、そんなふうにわざわざその事と、異様なまでに何かに熱中なさることはなかったのであった。

源中将(薫)は、この宮(匂宮)のもとにいつも参っては、管弦の御遊びなどでも笛の音を吹き立てて競い合って、実際競争相手として、若い者同士、気があっていらっしゃるような御人柄である。

例によって世間の人は、匂ふ兵部卿、薫る中将と聞きにくく言い続けて、その頃美しい娘がいらっしゃる身分の高いあちらこちらの家では、心をときめかせて婿になってほしいと申し出られる方もあるので、宮(匂宮)は、さまざまに、器量のよさそうな女たちにお言い寄りになって、その女の雰囲気、器量をおさぐりになる。といってもとくに心にかけてお思いになる方は、これといっていなかったのだ。冷泉院の一の宮を、「このような御方とご結婚申し上げたいものだ。かいのあることだろう」とお思いになる。それというのもこの御方(女一の宮)は、母女御(弘徽殿女御)も家柄が重く、奥ゆかしくていらっしゃるあたりであるし、姫宮(女一の宮)の御人柄は、なるほど世に滅多になくすぐれていて、よその評判としてもよくていらっしゃるのに、まして、少し近くにいつもお仕えしている女房などが、宮(女一の宮)のくわしいご様子を何かの機会に申し伝えることなどもあるので、宮(匂宮)は、ますます忍びがたいとお思いになっていらっしゃるようだ。

語句

■人のとがむる 「梅の花立ちよるばかりありしより人
のとがむる香にぞしみぬる」(古今・春上 読人しらず)による。 ■それはわざと… 何が「それ」なのか不審。 ■うつし 薫物の匂いを衣類に染み込ませること。 ■合はせ 合わせ薫物。複数の薫物をブレンドしたもの。 ■世の人のめづる 「名にめでて折れるばかりぞ女郎花我おちにきと人にかたるな」(古今・秋上 遍照)。女郎花と萩には香りがない。だから匂宮が注意をはらうことはない。菊、藤袴、吾木香には香がある。 ■小牡鹿の… 鹿は萩を好むとされる。参考「秋萩のさくにしもど鹿の鳴くうつろふ花はおのが妻かも」(後拾遺・秋上 大納言能宣)、「我が岡にさ雄鹿来鳴く初萩の花妻問ひに来鳴くさ雄鹿」(万葉1541 大伴旅人)。 ■すめる 「すむ」は男が女のもとに通う、結婚するの意。 ■老を忘るる菊 菊の被綿《きせわた》。「みな人の老いを忘れるといふ菊は百年をやる花にぞありる」(古今六帖一)。被綿《きせわた》は、九月九日の行事。菊の花を綿で覆い、花の露で濡れた綿で体を拭って長寿を祈る。 ■われもかう 吾木香。参考「武蔵野の霜枯れにみしわれもかう秋しも劣る匂ひなりけり」(狭衣物語巻三)。 ■昔の源氏は この源氏のイメージは理想化されている。若い頃の源氏はそこまで落ち着いていたわけではない。 ■物の音 ここでは笛の音。 ■例の、世人は… 世間はいつも大げさに騒ぐ(【桐壺 13】)。 ■聞きにくく あまりに大げさな褒めように対する皮肉をこめた。 ■やうごとなき 「やんごとなき」の音便。 ■聞こえごち 聞こえるように申し上げること。 ■をかしうもありぬべきわたり 興味を惹かれるような女のところ。 ■気色とりたまふ 「気色とる」はさぐりを入れる。推量する。 ■一の宮 母は弘徽殿女御(【匂宮 04】)。 ■かひありなんかし 結婚のかいがあるの意。 ■母女御 弘徽殿女御。故致仕の大臣の娘。はじめ冷泉帝に入内した(【澪標 11】)。 ■いとど忍びがたく思す 匂宮は女一の宮を意識しはじめている。作者はこの後、匂宮と女一の宮にまつわる物語を予定していたという説もある。

朗読・解説:左大臣光永