【竹河 02】髭黒亡き後の大臣家 世間から疎遠に

尚侍《ないしのかみ》の御腹に、故殿《ことの》の御子は男《をのこ》三人、女二人なむおはしけるを、さまざまにかしづきたてむことを思《おぼ》しおきてて、年月《としつき》の過ぐるも心もとながりたまひしほどに、あへなく亡《う》せたまひにしかば、夢のやうにて、いつしかと急ぎ思しし御宮仕もおこたりぬ。人の心、時にのみよるわざなりければ、さばかり勢《いきほ》いかめしくおはせし大臣《おとど》の御なごり、内《うち》々の御宝物、領《らう》じたまふ所どころなど、その方の衰へはなけれど、おほかたのありさまひきかへたるやうに殿《との》の内しめやかになりゆく。尚侍《かむ》の君の御近きゆかり、そこらこそは世にひろごりたまへど、なかなかやむごとなき御仲らひのもとよりも親しからざりしに、故殿|情《なさけ》すこしおくれ、むらむらしさ過ぎたまへりける御|本性《ほんじやう》にて、心おかれたまふこともありけるゆかりにや、誰《たれ》にもえなつかしく聞こえ通ひたまはず。六条院には、すべて、なほ、昔に変らず数《かず》まへきこえたまひて、亡せたまひなむ後《のち》のことども書きおきたまへる御|処分《そうぶん》の文《ふみ》どもにも、中宮の御次に加へたてまつりたまへれば、右の大殿などは、なかなかその心ありて、さるべきをりをり訪れきこえたまふ。

現代語訳

尚侍(玉鬘)の御腹に、故殿(髭黒太政大臣)の御子は男三人、女二人いらしたが、尚侍は御子たちをそれぞれ大切に育て上げるおつもりで、年月が過ぎるのも心もとなく思っていらっしゃるうちに、故殿はあっけなくお亡くなりになった。それで尚侍(玉鬘)は夢のようなお気持ちで、早いうちにと取り急ぎ考えてらした御宮仕も保留となってしまった。世間の人の心というものは、時の権勢におもねるだけなので、あれほど権勢さかんでいらした大臣(髭黒太政大臣)のご遺産、内々の御宝物、領有していらっしゃるあちこちの土地など、そうした面での不自由はなかったが、大方のありさまは、以前とはすっかり変わって御邸の内はひっそりと寂しくなっていく。

尚侍の君(玉鬘)の御親類は、そこらじゅうに世に広がっていらしたが、そうした高貴な御親類も、もともと親しくもなかったし、故殿(髭黒太政大臣)は情がすこし足りない御方で、気分にむらがあって人の好き嫌いが激しくてお過ごしになった御性質であって、御親類にも距離をおかれていらしたところもあった。そのせいだろうか、尚侍(玉鬘)は誰にも親しみ深く連絡をとったり行き来したりすることがおできにならない。

六条院(源氏)は、すべて昔どおりに、尚侍(玉鬘)を娘として数えていらして、お亡くなりになった後のさまざまな事を書き記しておかれたご遺産相続の数々の文書にも、中宮(明石の中宮)の御次にお加え申し上げいらしたので、右の大殿(夕霧)などは、かえってその意味から、しかるべき折々には尚侍の君(玉鬘)をお見舞い申し上げていらっしゃる。

語句

■尚侍 玉鬘。玉鬘が尚侍の職についたことは【真木柱 03】に見える。 ■故殿 髭黒太政大臣。死去したことはここに初めて見える。 ■男三人、女二人 髭黒大臣家の子女たちの顛末がこの帖の主題。 ■御宮仕 女御入内や尚侍参りなど。 ■人の心 人の心は権勢者にへつらうだけ。 ■その方 経済面をいう。 ■尚侍の君の近きゆかり 玉鬘は致仕太政大臣の子で源氏の養女だが、幼いころ九州の田舎で育ったせいで貴人との交際は少ない。 ■故殿 髭黒の性格は「いとまめやかにことごとしきさましたる人」(【胡蝶 04】)、「ひたおもむきにすくみたへる人」(【真木柱 05】)などとあった。 ■むらむらしさ 気分にむらがあり人の好き嫌いが激しいという意味か。 ■昔に変らず 「昔」は玉鬘が六条院で暮らしていたころ。 ■数まへきこえたまひて 源氏の娘として数の中に入れていらして。 ■御処分 死後の財産分けを記した遺言書。 ■中宮の御次に 明石の中宮の次はやはり源氏の養女である秋好中宮が記されるべきところ。この記述不審。悪御達が自分に都合よく語ったか。 ■なかなか 玉鬘の血縁者が疎遠であるのにかえって義理の弟の夕霧のほうが親身に交際するの意。 ■その心 玉鬘を身内として大切にせよという源氏の遺志。

朗読・解説:左大臣光永