平家物語 百十三 一門都落(いちもんのみやこおち)

原文

池(いけ)の大納言頼盛卿(だいなごんよりもりのきやう)も、池(いけ)殿(どの)に火をかけて出でられけるが、鳥羽(とば)の南の門にひかへつつ、「忘れたる事あり」とて、赤(あか)じるし切り捨てて、其勢三百余騎都へとッてかへされけり。平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣(ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぎ)、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへに馳せ参って、「あれ御覧候(さうら)へ。池殿の御(おん)とどまり候に、おほうの侍共のつき参らせて罷(まか)りとどまるが、奇怪(きッくわい)におぼえ候。大納言殿まではおそれも候。侍共に矢一つ射かけ候はん」と申しければ、「年来(ねんらい)の重恩(ぢゆうおん)を忘れて、今此有様を見はてぬ不当人(ふたうじん)をば、さなくともありなん」と宣へば、力およばでとどまりけり。「扨(さて)小松殿(こまつどの)の君達(きんだち)はいかに」と宣へば、「いまだ御一所(いつしよ)も見えさせ給ひ候はず」と申す。其時新中納言(しんぢゆうなごん)涙をはらはらとなが いて、「都を出でていまだ一日(いちにち)だにも過ぎざるに、いつしか人の心共のかはりゆくうたてさよ。まして行くすゑとてもさこそはあらんずらめと思ひしかば、都のうちでいかにもならんと申しつる物を」とて、大臣殿(おほいとの)の御(おん)かたをうらめしげにこ そ見給ひけれ。

抑(そもそも)池殿のとどまり給ふ事をいかにといふに、兵衞佐(ひやうゑのすけ)常は頼盛に情(なさけ)をかけて、「御(おん)かたをばまッたくおろかに思ひ参らせ候はず。ただ故池殿のわたらせ給ふとこそ存じ候へ。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)も御照罰(せうばつ)候へ」なンど、度々(たびたび)誓状(せいじやう)をもッて申されける上、平家追討のために討手(うつて)の使(つかひ)ののぼる度(たび)ごとに、「相構へて池殿の侍共にむかッて、弓ひくな」なンど情をかくれば、「一門の平家は運つき、既に都を落ちぬ。今は兵衛佐にたすけられんずるにこそ」と宣(のたま)ひて、都へかへられけるとぞきこえし。八条女院(はつでうのにようゐん)の、仁和寺(にんわじ)の常葉殿(ときはどの)にわたらせ給ふに、参りこもられけり。
女院の御(おん)めのとご、宰相殿(さいしやうどの)と申す女房に、相具し給へるによッてなり。「自然(しぜん)の事候はば、頼盛かまへてたすけさせ給へ」と申れけれども、女院、「今は世の世にてもあらばこそ」とて、たのもしげもなうぞ仰せける。凡(およ)そは兵衛佐ばかりこそ芳心(ほうじん)は存ぜらるるとも、自余の源氏共はいかがあらんずらむ。なまじひに一門にははなれ給ひぬ、波にも磯(いそ)にもつかぬ心地(ここち)ぞせられける。

さる程に小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)は、三位中将維盛卿(さんみのちゆうじやうこれもりのきやう)をはじめ奉ッて、兄弟六人、其勢千騎(そのせいせんぎ)ばかりにて、淀(よど)の六田河原(むつたがはら)にて、行幸におッつき奉る。大臣殿待ちうけ奉り、うれしげにて、「いかにや、今まで」と宣へば、三位中将、「をさなき者共が、あまりにしたひ候を、とかうこしらへおかんと遅参(ちさん)仕(つかまつ)り候 ひぬ」と申されければ、大臣殿(おほいとの)、「などや心強(こころづよ)う六代殿(ろくだいどの)をば 具し奉り給はぬぞ」と仰せられければ、維盛卿、「行くすゑとてもたのもしうも候はず」とて、問ふにつらさの涙をながされけるこそかなしけれ。

現代語訳

池の大納言頼盛卿も、池殿に火を放って出られたが、鳥羽の南の門に控えながら、「忘れた事がある」といって、赤印を切り捨てて、その軍勢三百余騎で都へ引き返された。平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣(もりつぎ)は大臣殿(宗盛)の御前に駆け付けて、「あれを御覧ください。池殿が御留まりなさいますのに、多くの侍共がついて留まったのが不届きでござる。大納言まで射るのは畏れ多いこと。侍共には矢一つ射かけてみましょう」と申しければ、「長年の重恩を忘れて、今この有様を最後まで見届けない不届き者にはそんなことをする必要は無かろう」と言われるので、力及ばず思いとどまった。大臣が、「さて小松殿の公達はどうした」と言われると、盛嗣は「まだお一人もお見えになりません」と申す。その時新中納言(平知盛)は涙をはらはらと流して、「都を出てまだ一日も過ぎないのに、いつのまにか人の心が変わっていく情けなさよ。まして行く先でもこのようになろうかと思っていたので、都の内でどうにでもなろうと申したものを」といって、大臣殿のほうをいかにも恨めし気に御覧になった。

そもそも池殿がお留まりになる事はいかがなものかと頭をかしげるのに、兵衛佐(ひょうえのすけ)いつもは頼盛(池殿)に情けをかけて、「貴方様をまったくおろそかには思っては居りません。ひたすら故池殿がいらっしゃるのだと思っております。八幡大菩薩も御照罰下され」などと、たびたび誓状で申された上、平家追討の為に討手の使いがのぼるたびごとに、「間違っても池殿の侍共に向って、弓をひくな」などと情をかけられていたので、「平家一門は運が尽き、既に都を落ちた。今となっては兵衛佐に助けてもらうほかはない」とおっしゃって、都に引き返されたのだという噂であった。八条の女院が、仁和寺の常盤殿におられるので、そこを頼って、身を寄せられた。それは女院の御乳母の宰相殿と申す女房と結婚されていたからである。「もしもの事があったら、頼盛をぜひお助け下さい」と申されたけれども、女院は、「世が世であればともかく、今は」と頼りなくおっしゃった。だいたい兵衛佐だけが親切に心がけておられてもその外の源氏はどう思っているのであろうか。なまじっか一門と離れてしまわれたし、波にも磯にもつかぬ不安な気持ちになられていた。

そうしていると小松殿の公達は、三位中将維盛卿をはじめとして、兄弟六人、その軍勢千騎ほどで、淀の六田河原(むつたがわら)にて、行幸に追いつき申された。大臣殿が待ち受け申されて、嬉しそうに「今までどうされていたのです」とおっしゃると、三位中将は、「幼い者共があまりに慕い申しますので、あれこれ宥めておこうとしておりましたので遅れました」と申されたので、大臣殿は、「どうして心を強く持って六代殿をお連れなさらないのか」と言われると、維盛卿は、「将来がとても不安でございますので」といって、問われて辛い涙を流されたのは悲しいことであった。

原文

落ち行く平家は誰々(たれたれ)ぞ。前内大臣宗盛公(さきのないだいじんむねもりこう)、平大納言時忠(へいだいなごんときただ)、 平中納言教盛(へいちゆうなごんのりもり)、新中納言知盛(しんぢゆうなごんとももり)、修理大夫経盛(しゆりのだいぶつねもり)、右衛門督清宗(うゑもんのかみきよむね)、 本三位中将重衡(ほんざんみのちゆうじやうしげひら)、小松三位中将維盛(こまつのさんみのちゆうじやうこれもり)、新三位中将資盛(しんざんみのちゆうじやうすけもり)、越前三位通盛(ゑちぜんのさんみみちもり)、殿上人(てんじやうびと)には、内蔵頭信基(くらのかみのぶもと)、讃岐中将時実(さぬきのちゆうじやうときざね)、左中将清経(さちゆうじやうきよつね)、小松少将有盛(こまつのせうしやうありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゆうただふさ)、皇后宮亮経正(くわうごくうのすけつねまさ)、左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、能登守教経(のとのかみのりつね)、武蔵守知章(むさしのかみともあきら)、備中守師盛(びつちゆうのかみもろもり)、淡路守清房(あはじのかみきよふさ)、尾張守清貞(をはりのかみきよさだ)、若狭守経俊(わかさのかみつねとし)、兵部少輔尹明(ひやうぶのせうまさあきら)、蔵人大夫業盛(くらんどのたいふなりもり)、大夫敦盛(たいふあつもり)、僧には、二位僧都全真(にゐのそうずせんしん)、法勝寺執行能円(ほつしようじのしゆぎやうのうゑん)、中納言律師忠快(ちゆうなごんのりつしちゆうくわい)、経誦坊阿闍梨祐円(きやうじゆぼうのあじゃりいうゑん)、侍(さぶらひ)には、受領(じゆりやう)、検非違使(けんびゐし)、衛府(ゑふ)、諸司(しよし)百六十人、都合其勢(そのせい)七千余騎、是(これ)は東国北国度々(どど)のいくさに、此(この)二三ヶ年が間、討ちもらされて纔(わず)かに残るところなり。山崎関戸院(やまざきせきどのゐん)に、玉の御輿(みこし)をかきすゑて、男山(をとこやま)をふし拝み、平大納言時忠卿(ときただのきやう)、「南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、君をはじめ参らせて、我等都へ帰し入れさせ給へ」と祈られけるこそかなしけれ。おのおのうしろをかへり見給へば、かすめる空の心地して、煙のみ心ぼそく立ちのぼる。平中納言教盛卿(のりもりのきやう)、

はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたちのぼるかな

修理大夫経盛、

ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく

まことに故郷(こきやう)をば一片(いつぺん)の煙塵(えんぢん)に隔てつつ、前途万里(せんどばんり)の雲路(うんろ)におもむかれけん、人々の心のうち、おしはかられて哀れなり。

肥後守貞能(ひごのかみさだよし)は、 河尻(かはしり)に源氏まつと聞いて、けちらさんとて、五百余騎で発向(はつかう)したりけるが、僻事(ひがこと)なれば帰りのぼる程に、宇度野(うどの)の辺(へん)にて行幸に参りあふ。貞能馬よりとびおり、弓わきばさみ、大臣殿の御前(おんまへ)に畏(かしこま)ッて申しけるは、「是は抑(そもそも)いづちへとておちさせ給ひ候やらん。西国へくだらせ給ひたらば、落人(おちうと)とてあそこここにてうちちらされ、うき名をながさせ給はん事こそ口惜しう候(さうら)へ。ただ都のうちでこそ、いかにもならせ給はめ」と申しければ、大臣殿、「貞能は知らぬか。木曾既に北国より五万余騎で攻めのぼり、比叡山東坂本(ひえいざんひnがしざかもと)にみちみちたんなり。此夜半(このやはん)ばかり法皇もわたらせ給はず。おのおのが身ばかりならば、いかがせん、女院(にようゐん)、二位殿(にゐどの)に、まのあたりうき目を見せ参らせんも心苦しければ、行幸をもなし参らせ、人々をもひき具し奉って、一(ひと)まどもやと思ふぞかし」と仰せられければ、「さ候はば、貞能は暇(いとま)給はッて、都でいかにもなり候はん」とて、召し具したる五百余騎の勢をば、小松殿の君達(きんたち)につけ奉り、手勢(てぜい)卅騎ばかりで都へひッかへす。

京中(きやうぢゆう)にのこりとどまる平家の余党(よたう)をうたんとて、貞能が帰り入るよし聞えしかば、池大納言(いけのだいなごん)、「頼盛がうへでぞあるらん」とて、大きにおそれさわがれけり。貞能は西八条(にしはちでう)の焼跡(やけあと)に大幕(おほまく)ひかせ、一夜宿(いちやしゅく)したりけれども、帰り入り給ふ平家の君達一所(いつしよ)もおはせねば、さすが心ばそうや思ひけん、源氏の馬のひづめにかけじとて、小松殿の御墓(おんはか)ほらせ、御骨(ごこつ)にむかひ奉ッて泣く泣く申しけるは、「あなあさまし、御一門(ごいちもん)を御覧候へ。『生(しよう)あるものは必ず滅す。楽しみ尽きて悲しみ来(きた)る』と、いにしへより書きおきたる事にて候へども、まのあたりかかるうき事候はず。君はかやうの事をまづさとらせ給ひて、兼ねて仏神三宝(ぶつじんさんぽう)に御祈誓(ごきせい)あッて、御世(おんよ)をはやうせさせましましけるにこそ。ありがたうこそおぼえ候へ。其(その)時(とき)貞能も最後の御供仕るべう候ひけるものを、かひなき命をいきて、今はかかるうき目にあひ候。死期(しご)の時は必ず一仏土(いちぶつど)へむかへさせ給へ」と、泣く泣く遥(はる)かにかきくどき、骨(こつ)をば高野(かうや)へ送り、あたりの土をば賀茂川(かもがは)にながさせ、世の有様たのもしからずや思ひけん、主(しゆう)とうしろあはせに東国へこそおちゆきけれ。宇都宮(うつのみや)をば貞能が申しあづかッて、情(なさけ)ありければ、そのよしみにや、貞能又宇都宮をたのんで下りければ、芳心(ほうじん)しけるとぞ聞えし。

現代語訳

落ちて行く平家は誰々であろうか。前内大臣宗盛公(さきのないだいじんむねもりこう)、平大納言時忠(へいだいなごんときただ)、 平中納言教盛(へいちゅうなごんのりもり)、新中納言知盛(しんちゅうなごんとももり)、修理大夫経盛(しゅりのだいぶつねもり)、右衛門督清宗(うえもんのかみきよむね)、 本三位中将重衡(ほんざんみのちゅうじょうしげひら)、小松三位中将維盛(こまつのさんみのちゅうじょうこれもり)、新三位中将資盛(しんざんみのちゅうじょうすけもり)、越前三位通盛(えちぜんのさんみみちもり)、殿上人(てんじょうびと)には、内蔵頭信基(くらのかみのぶもと)、讃岐中将時実(さぬきのちゅうじょうときざね)、左中将清経(さちゅうじょうきよつね)、小松少将有盛(こまつのしょうしょうありもり)、丹後侍従忠房(たんごのじじゅうただふさ)、皇后宮亮経正(こうぐうのすけつねまさ)、左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、能登守教経(のとのかみのりつね)、武蔵守知章(むさしのかみともあきら)、備中守師盛(びっちゅうのかみもろもり)、淡路守清房(あわじのかみきよふさ)、尾張守清貞(おわりのかみきよさだ)、若狭守経俊(わかさのかみつねとし)、兵部少輔尹明(ひょうぶのしょうまさあきら)、蔵人大夫業盛(くらんどのたいふなりもり)、大夫敦盛(たいふあつもり)、僧には、二位僧都全真(にいのそうずせんしん)、法勝寺執行能円(ほつしょうじのしゅぎょうのうえん)、中納言律師忠快(ちゅうなごんのりっしちゅうかい)、経誦坊阿闍梨祐円(きょうじゅぼうのあじゃりゆうえん)、侍(さぶらひ)には、受領(じゅりょう)、検非違使(けびいし)、衛府(えふ)、諸司(しょし)百六十人、都合その軍勢せい)七千余騎、これは東国や北国でのたびたびのいくさに、この二三ヶ年の間、討ちもらされて纔かに残った者たちである。山崎関戸院(やまざきせきどのいん)に、帝の御輿を置いて、男山(おとこやま)を伏し拝み、平大納言時忠卿が、「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)、八幡大菩薩、君をはじめとして、我等を都へ帰し入れさせたまえ」と祈られたことが悲しい事であった。おのおのが後ろを振り返って御覧になると、焼け跡から立ち上る煙だけが心細く立ち上(のぼ)って、霞んだ空のような暗い気持ちになる。平大納言教盛卿(のりもりのきょう)は次の一首を詠まれる。

はかなしなぬしは雲井にわかるれば跡はけぶりとたちのぼるかな
(はかない事であるよ。家の主人は雲の遥か彼方に都を離れてしまい、跡には煙だけが立ち上っているのだ)

修理大夫経盛は次の一首を詠む。

ふるさとをやけ野の原にかへりみてすゑもけぶりのなみぢをぞゆく
(故郷を焼野の原のなかに顧みて悲しいのに、これから先も煙るような浪路を越えて行くのだなあ。はかないことよ)

本当に故郷を一筋の煙や一片の塵として遠くに見ながら、はるかに遠い雲のたなびく旅路に向かわれた、人びとの心のうちが推し量られて哀れである。

肥後守貞能(ひごのかみさだよし)は、河尻で源氏が待ち伏せしていると聞いて、蹴散らそうと、五百余騎で出発したが、間違いとわかって引き返してくる途中で、宇度野(うどの)の辺(あたり)で行幸に行き会った。貞能は馬から飛び降りて、弓を脇に挟み、大臣殿の御前に畏まって申し上げたのは、「この行幸はそもそも何処を目指して落ちて行こうとされているのですか、西国へお下りになるのであれば落人としてあちこちで討ち散らされ、いやな辛い評判を立てられるのは悔しゅうございます。ただ都の中で、どうにでもなられるべきでしょう」と申し上げたところ、大臣殿は、「貞能(さだよし)は知らんのか。木曾はもう北国から五万余騎で攻め上り、比叡山東坂本に満ち満ちているのだ。この夜半ごろ、法皇も姿を隠されて、おいでにならない。我々の身だけならば、どうなっても仕方ないが、女院や二位殿に、目の前で悲しい目をお見せするのも心苦しいので、行幸をなし申し、人びとをも引き連れ申して、ひとますはと思うのだ」とおっしゃられると、「そうでしたら、貞能(さだよし)は暇(いとま)をいただいて、都でどのようにでも成り申そう」と言って、召しつれた五百余騎の軍勢を、小松殿の公達にお付け申して、手勢三十騎ばかりで都へ引き返す。

京中に残り留まる平家の残党を討つと言って、貞能が戻ったいうことが聞えたので、池大納言は、「それは自分の事であろう」と言ってたいそう騒がれた。貞能は西八条の焼け跡に大幕を引かせ、一晩そこで過ごしたが、帰ってくる平家の公達が一人もいないので、さすがに心細く思われたのか、源氏の馬の蹄(ひづめ)に駆けてはならじと、小松殿の御墓を掘らせ、御骨に向かい申して泣く泣く申したのは、「ああ、無惨、御一門を御覧ください。『生あるものは必ず滅す。楽しみ尽きて悲しみ来る』と、昔より書き置かれたことではありますが、目の前でこのような悲しい目に逢ったことはありません。貴方はこのような事をまずお悟りになって、兼ねてから仏神三宝に祈誓を立てられ、早くこの世を去られたのでしょう。御賢明な事と思います。その時、貞能も最後の御共を仕るべきでありましたものを、生きていても仕方のない命を長らえて、今ではこのような悲しい目に逢っております。私が死ぬときは必ず殿と同じ仏土へお迎え下さい」と、泣く泣く遠いあの世の小松殿を掻き口説いて、小松殿の骨を高野山へ送り、周囲の土を賀茂川に流させ、世の有様は頼もしくないと思ったのか、主家とは反対の方角の東国へ落ちて行った。貞能は宇都宮を預かって、情け深く接しており、その因縁からであろう、宇都宮を頼って下ったので住民は親切に迎えたそうである。

次の章「平家物語 百十四 福原落(ふくはらおち)
朗読・解説:左大臣光永

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